臆病者の暁

この村の図書館は、小学校の横にある公民館に併設されている。子供の人口が年々増えている事を機に設立された、まだ新しい建物だ。ドーム型で可愛らしい印象を抱かせる建物には、いつも人が集まっている。
本は好きだが、人は苦手。そんな性格のせいで、越してきてから図書館に来たのは一回だけ。立ち止まって、軽く深呼吸する。そうしている間に、イルミは私を追い越して図書館の中に入っていく。心の準備をする時間も与えてくれないのか。
イルミの背を追って、図書館の扉を開く。室内は平日の日中だというのに、子供達の姿が沢山あった。本も開かず、お喋りの場と化している自習スペース。彼らは視界にイルミが入ると、お喋りを止めて、興味津々に彼の姿を目で追っていた。

「いつまでボサッと立ってるの。しっかりしなよ、アホ面に磨きがかかって間抜けに見える」
「なっ、生意気」
「世界地図って何処」
「そんな難しいのより、子供らしく向こうで遊んできたら」

ちょっとした仕返しで自習スペースを小さく指差す。イルミはここに来て初めて、振り向いて私の顔を見た。
子供らしからぬ無表情。ジッとこちらを見上げる目からは尋常でない圧力を感じ取り、私は早くも白旗を揚げた。昨夜にも感じた薄ら寒さ。今朝よりも気が立っているらしい。これ以上ふざけていると、今にも飛びついてきて、喉元を引き裂かれてしまいそうだった。せめて「こちらですよ、お坊ちゃま」と皮肉を込めて案内してやる。
でも、まあ、確かに。改めて外を見て、自分の知らない場所だと実感すれば、気が立つのも当然なのか。六歳だと言った。いくら大人びていても、まだまだ子供だ。家族が側にいない、元の場所に帰る方法すら分からない。心細さや焦燥が、小さな身体の中でどれだけ膨れ上がっているのだろう。
もう少し、優しく接するべきなのだろうか。こんな大人では不満だろうが、もう少し頼ってもいいと、示すべきなのかもしれない。

「何処か、知っている場所はあった?」

子供用の、世界の文化が載っている大図鑑。見開きに世界地図があり、そのページをイルミは食い入るように眺めていた。
かがみ込んで、イルミの頭越しに私もそのページを見る。

「ここが、日本。今、私達がいる国」

小さな島国を指差して言うと、イルミは「違う」と呟いた。

「似てるけど、違う」

言って、図鑑を閉じた。イルミはそれを棚に戻すと、横にあった乗り物図鑑を手に取り、その場に座り込んで黙々と読み始めた。
文字は読めないはずだけど、絵で解説する図鑑なら、なんとなく理解出来るのだろう。車、列車、船。ページは一定の早さで捲られてゆき、手は飛行機の解説で止まる。そういえば、パンツも飛行機柄だった。やっぱり男の子は乗り物が好きなんだな。
イルミが飛行機の写真を指差し、振り返る。てっきり楽しそうな表情をしていると思ったのだが、予想に反して彼の顔は青白かった。表情は変わらないが、顔色にハッキリと動揺が表れている。

「何、これ。鳥じゃない」
「飛行機、だけど。ほら、空を飛ぶ乗り物」
「こんな重そうなやつに、人が?無理に決まってる」

まさか、飛行機の存在を知らない?好き以前の問題で、未知の乗り物に困惑していたのか。
本当に乗り物だと言っても信じそうにないので、携帯で飛行機の動画を見せる。イルミは何も言わない。目を大きく見開いて、口をキュッと引き締めていた。
なんと声を掛けていいものか迷い、結局気の利いた言葉は浮かばず。明らかに異様な雰囲気の私達を気にして、子供達が集まってきた。私はイルミの両脇を持ってその場に立たせ、視線を合わせる。生気のない瞳を覗き込んで、なるべく優しく笑いかけてみる。

「数冊、借りて帰ろうか」

出入り口で待ってて、とお願いすれば、イルミは力ない足取りで私から離れていく。適当に写真の多い本を選んでカウンターに持ってくと、図書館員のおばちゃんに「弟さん?」と問いかけられた。
言葉が詰まる。しかし私の返事は大した問題ではないらしく、話は進む。貸し出し業務の手は止まったままだった。早くしてくれと急かすことも出来ず、愛想笑いを返すしか出来ない。

「この辺じゃ見ない子ねェ。お名前は?歳はいくつ?」
「あ、えっと」

ここはいつから取調室になった。

「そういえば貴女も、高校卒業してすぐこっちに来たんでしょう?大変ねェ。親御さん、心配してるでしょうに」
「っ」

悪気がないのは分かっている。けれど心ない言葉は確実に、私の脆くて柔らかい部分に傷を付ける。
そうですね、そう思いますと適当に言葉を返しておけば終わる話なのに、何も話せない。胸が痛い。中から肉や内臓を突き破り、植物でも生えてくるんじゃないかと思えてしまう程だ。その植物が負の感情で咲くとしたら、私の身体はとっくに花畑と化しているに違いない。
愛想笑いも保てず、表情が抜け落ちていくのが自分でも分かる。カウンター越しに座った図書館員が向けてくる目は、好奇心で輝いていた。
ああ、何が楽しいんだろう。人の心に土足で踏み込んで。

「お姉ちゃん」
「え」

袖が控えめに引っ張られた。混濁していた意識が、一気に引き戻される。

「お姉ちゃん、まだ?」
「イ、ルミ」

振り返ると、イルミが首を傾げて、私の服の袖を掴んでいる。その姿は、本当の弟のように自然で違和感がない。

「あらあら可愛らしい!いるみちゃんっていうの?変わった名前ねェ、女の子かしら」
「うん……ねえ、お姉ちゃん、お腹空いた」
「ぁ、ああ、ごめんね。帰ってご飯にしようね。あの、すみません。本、借りていってもいいですか?」
「ええ、ごめんなさいね、引き留めちゃって」

そうしてやっと、貸し出しカードに文字が記入されてゆく。返却日や返却方法の説明を受けて、私達は解放された。
頬を凍らせるような風が心地良い。肺いっぱいに空気を吸い込んで、吐き出した。早足で先を行くイルミを追いかけて、敢えて横に並んでみる。彼は更に足取りを早めたが、私が諦めず並んで歩くと一旦足を止めて、呆れたようにジトリとこちらを見た。

「言いたいことがあるなら言えば」
「うん。ありがとう、助かった」
「見ていられなかったから」
「ははっ、自分でも情けないよ」
「なんで、悪いのはあっちだろ。親しくもないのに人の事情に踏み込むアイツが悪い」

それが当たり前のように、イルミは言う。
彼は知らないのだろう。こちらでは、他人の事情に踏み込むのが普通であること。親切心で、もっと親しくなりたくて、奴らはそうやって近付いてくる。そして、それに対していちいち傷付く方が悪者だ。傷付いたと伝えても、そんなことで、と平気で言う。強者は、自分達の手にナイフが握られていることを、気付こうともしない。
他所の国ではどうか知らないが、この国は異質や弱者を許してはくれない。

「イルミのいた国は、どんな人達がいた?」
「さあ?あまり他人と話したことがないから分からないけど。でも、あんな奴はいなかったな」
「いいね……見てみたいな」

生命の危機に晒されそうなので行くのは怖いが、イルミの育った国を見てみたくなった。そこは、ここよりも息がしやすい場所だろうか。
空を見上げると、白い息が流れて消えていく。その向こう側、遠い青空に、飛行機が一筋の線を描いて飛ぶ。

「無理だね」

同じように空を見上げるイルミが、小さく呟いた。

「オレとお前の世界は違う」
「……さっき見た、世界地図?」
「うん。どの国も、形は似てるけど違ってた。ニホンも、オレの国ではジャポンっていうんだ」
「ジャポン…ジャパンじゃなく」
「多分、似てて違うんだよ。別世界、パラレルワールド、並行世界とか言うんだっけ。お前にとってオレは、異星人かもしれない」

異世界の国の人。非現実的だが、驚きはない。寧ろしっくりくる。

「だからさっき、落ち込んでいたんだね」
「落ち込む?……ああ、違うよ。理解が追いつかなかっただけ。てっきり何処か辺境に連れて来られたと思い込んでたから」
「そっか」

辺境だったら、まだ良かっただろう。
しかし実際は見知らぬ世界。何処に行っても帰る場所はない。どうやって帰るかも分からない。そんな状況で気落ちしないはずがないのだが、イルミが強がるなら、せめて気付かないフリをしていよう。

「オレの事、放り出していいよ」
「……本気?」
「当然。いつ帰れるかも分からない。お前も長期間、オレを置いとくつもりじゃなかったんだろ。施設?だっけ。まだそこに行った方が、お互いの為に良いと思うんだけど」

冷淡な声。感情を宿さず、最適解を導き出すAIと話している気分だ。あまりにも理知的に話すので、言う通りにした方がいいのか考えてしまう。
けれど、どうしてだろう。試されている、そんな気がしてならない。

「確かに、その方が、いいのかもしれない」

私は色々と問題のある大人で、自分の世界を守ることで手一杯。子供ひとりを幸せに出来る自信の欠片もない。もし一生、この子が帰れないのだとしたら。戸籍は、学校は、養育費は、問題が山積みだ。警察に適当な事情を話して、然るべき措置を行って貰うのが、一番賢い手段のはず。
でも、それなら、どうしてイルミは初めに私の家にいることを望んだのか。私のことが嫌いなら、とっくに出て行ってもおかしくない子なのに、なぜ大人しく指示を待っているの。本当は、警察にも施設にも行きたくないんじゃないの?
イルミは何も言わず、答えを待っている。全てを諦めた暗い瞳がこちらを向いているのに、その視線は私でない何処か遠くを見ている。私が両親に向けていた目を、そっくりそのまま向けられているみたいだ。
──ああ、そうか。怖いんだ。
恐らくこの子は、期待して裏切られる辛さを知っている。
愛されるべき時に愛して貰えなかった、抱き締めて貰えなかった、子供でありながら大人であるよう強いられた。きっと、そんな子だ。
だから、捨てられる前に自分から捨てようとする。傷付くのが怖いから。

「帰ろう」
「……え?」
「イルミは施設の方がいいのかもしれないけど」

少し歩いて、立ち止まる。振り返って、未だ立ち尽くす子供に「おいで」と手を差し伸べる。自分でも聞いたことがない、優しい声音だった。
臆病で弱い私が、この子にどれだけの事をしてやれるか分からない。控えめに言って不安だ、とても怖い。イルミと離れるなら、これが最後のチャンスだろう。
けれど、手放さないと決めた。余計なお世話かもしれない。こんなの偽善だ、自己満足だ。でも、それでいい。
この子には、私が欲しかったモノを、可能な限り与えてやりたい。

「一人暮らしも飽きてきたところだったんだ。私が同居人でよければ、側にいてくれると嬉しい」
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