同じ穴のムジナ

あまり眠れた気がしないが、習慣で七時前に目が覚める。
冬の朝独特の、身を引き締める冷気が今朝はない。部屋の中を満たす、暖房の生暖かい空気が、身体の怠さに拍車を掛けた。
窓際に視線をやると、昨夜と同じ場所に子供が転がっている。体勢もやはり変わらず、こちらに頭を向けて、小さく丸まっていた。まだ起こすには早いだろう。起き上がって、一旦暖房を切った。代わりに炬燵の電源を入れる。やかんに水を入れて、火を付ける。お湯が沸くのを待つ間、押し入れから服を引っ張り出して着替える。その後に、あの子がパーカーの上から着込めるようなものを探したが、やはりどれもサイズが合いそうにない。ストールを良い具合に巻き付ければ、上着代わりになるだろうか。
台所から微かに聞こえていた、甲高い笛のような音が、部屋に一際大きく鳴り響いた。同時に、視界の端で小さな塊が俊敏に動く。見ると、先程まで横になっていたイルミが、腰を低く落として立っている。何かに怯えて警戒する、子猫のようだった。

「何、この音」
「ごめん、煩かった?お湯が沸いた音だよ。おはよう」
「……ここでは、お湯が沸くだけでこんな音がするのか」
「やかんだからね」

イルミはよく分からないといった様子で眉を顰め、音の根源を恐る恐る覗いた。甲高い音を立てて湯気を噴かす、銅色の丸いやかん。特に珍しくもない物だが、もしかしたらイルミは初めて見るのかもしれない。大人びた彼がやかんを凝視する姿は、子供らしくて可愛かった。
微笑ましく思いながら、後ろ姿を見守る。
イルミは短い足に力を込めて背伸びをすると、何を思ったのか手を伸ばした。その手の先には、熱された銅がある。触れれば人の肌なんて簡単に焼け爛れる、高温の金物だ。
最悪の未来が想像できて、サッと血の気が引いた。

「イルミッ!」
「え」

黒いフードを掴み、力任せに引っ張る。簡単にフローリングから離れた足。頭部から倒れ込んでくる小さな身体を抱き留める。身体の力が抜けて、イルミを背後から抱き締めたまま座り込んだ。
心臓が早鐘を打つ。震える手でイルミの手を恐る恐る掴み、手の平を見た。腫れてはいない、火傷をした形跡もない。黒い頭頂部に額を預け、深々と安堵のため息を吐く。
ニュースでもよく、子供から目を離すなと言われているが、その意味がやっと分かった。何をしでかすか、実際に見るまで想像もできない。

「どこも、痛くない?」
「……首が絞まった」
「他は?」
「特に、何も。火傷や怪我なら慣れてるし」
「そっ」

そういう問題じゃない、と怒鳴りかけた。けれど、その資格は私にない。
イルミは、痛みに慣れて過ごしてきたのだろう。でも、それを可哀想だと憐れむ資格も、私にはないのだ。人の人生に、彼の普通に、赤の他人が口を挟むのは可笑しな話だから。何も考えず、ずけずけと口を出す輩もいるが、それは私が最も嫌う人種である。そんな連中と同じになって堪るか。
だけど、心配するくらいは、許してほしい。

「それでも、無事で良かった」

再度息を吐いて、幼い身体を強く抱き締めた。イルミはその間、身動ぎひとつしなかった。

暫くすると、やかんからお湯が噴き溢れ、液体が蒸発する音がする。力の入らない足でなんとか立ち上がり、イルミに炬燵へ入るよう促す。素直に従った彼に、そこから動かないようきつく言って、朝食の用意を始めた。
パンをトースターに入れて、冷蔵庫から取り出したウインナーと卵を熱したフライパンに落とす。自分用に昨日貰ったおかずを電子レンジに入れて、二分加熱。インスタントの粉スープとミルクティーにお湯を注いで、机の上に置く。

「いい?絶対にまだ触れちゃ駄目。熱いからね」
「分かったけど、いいの?」
「何が」
「焦げた臭いする」
「えっ!」

振り返ると天井に白い煙が上がっていた。急いで火を消して、フライパンの蓋を開けて中を確認する。
ウインナーは無事だが、目玉焼きは底が焦げていた。少し焦げ臭い。でも、まだセーフの範囲。真っ黒焦げ、というわけでもないし、人が食べれる物だ。

「うん、いける」
「それ、オレも食べるの?」
「イルミが食べるんだよ」

皿に盛り付けると、トースターと電子レンジが同時に鳴った。

「目玉焼きに何つける?」
「塩胡椒」
「パンは?バターとかいる?」
「そのままでいい」
「はいはい」

言われた通りにして、セッティングを終える。イルミは文句ありげに目玉焼きを見つめて、私の前にあるおかずを見た。

「お前のと違う」
「私のは、昨日の貰い物。放っといたら腐るから。交換してもいいけど」
「要らない」
「言うと思った」

特に話すこともないので、無言で食べ進めた。
朝からは少し胃に重いおかずを口に放り込み、蛇口から出る水を飲んでひと息吐く。シンクには何もなくなった皿が重なる。目玉焼きは残すかと思ったが、綺麗に完食してくれて嬉しい。

「イルミ」

食器を洗いながら、炬燵に入っているイルミに声を掛けた。返事はない。視線だけを動かして見ると、瞳はこちらを向いていた。聞いてはいるのだろう。返事の有り無しを気にせず、話を続ける。

「昨日、外に出掛けるって話したでしょう。私の弟のフリをして。とりあえず、一通り揃うホームセンターに行くつもりだけど、他に何か見たいものってある?」
「どこか、世界中の資料が集まってる所ってある?」
「資料っていったら、図書館じゃないかな」
「じゃ、そこ」

イルミが読める文字はないと思うけど。思わず出そうになった残酷な言葉を飲み込んで「分かった」と頷いた。必要な物を買ってから、一旦家に戻って図書館に行こう。
小さな所だから、イルミの見たい本があるか分からないけど、行って彼が少しでも安心できるなら価値はある。
なるべく自然に見えるよう、イルミにストールを巻き付けて家を出た。
妙な距離を保って、道なりを行く。後ろを歩くイルミは、珍しい物でも見るように、忙しなく首を右へ左へ動かしていた。それはホームセンターでも同じで、辺りをくまなく観察している。

「こんな所、近所にはなかった?」
「うん。一面土が広がってるのも、ひとつの店に色々売ってるのも見たことない。山は飽きるほど見てるけど」
「田舎なのか都会なのか分かんないな。あ、パンツはブリーフでいい?」

白ブリーフ片手に問いかけると、イルミは私の手にあるパンツを奪い取って、棚に戻した。その横にあったボクサーパンツを取って、カゴに放り込む。飛行機や車がプリントされた二枚組だ。
そういえば、コップには自転車が描かれていたっけ。

「乗り物、好きなの?」
「煩いな。マシな物がそれくらいしかなかったんだから、仕方ないだろ。ていうか、人が履くパンツ、ジロジロ見ないでくれる。気持ち悪いよ、変態」

こいつ、言わせておけば。
ヒクリと口角が引き攣った。しかし人の行き交う通路で反論する気にもなれず、短く息を吐いて、レジに向かった。
なんとか、日用品は用意出来た。着替えの服も、寝具も。食品も見て帰れたらよかったのだが、これ以上買うと帰り道が大変になる。こういうときに車があれば便利なんだろうけど、免許も持っていない私では話にならない。

「じゃあ、一旦帰ってから図書館に行こうか」
「……袋、持つけど」
「大丈夫だよ。気にしないで」

レジ店員や、ホームセンター前で話し込む女性達に訝しげな視線を向けられながら、私達は店をあとにした。

「帰ったら、着替えようね。やっぱりストールが上着代わりは目立つから」
「目立つと困るの?」
「まあ、ここではね。小さな村だから、横の繋がりが強いの。誰か見慣れない人がいたら、すぐに村の中で話題になる。話題の発信源は噂好きの人達だから、弟って言っても、色々言われるだろうね」

今頃、話題の中心になっているかもしれない。
ホームセンターにいる人達は、この辺の住人ばかり。私が知らなくても、あちらは私が誰と何処に住んでいて、どんな仕事をしているかなんて知っているだろうし。そこに見知らぬ男の子が現れたとなると、人攫いだとか、隠し子だとか、好き勝手言われていそうだ。この手の話は大好物だろう。
大家さん辺りが探りを入れてくる可能性もある。今日中に設定を考えておいた方が安心だな。

「面倒だね」
「え?」
「別にオレ達がどんな関係で何してようが、あいつらには関係ないのに」

うんざりとした口調で、イルミが言う。

「ほんと……あなた何歳よ」
「六歳」
「大人びてるなァ」

一定の距離を保ちながら、後ろを歩くイルミをチラと見る。確かに、背格好からしてそれくらいだ。幼稚園から小学校に上がったばかりの男の子。そんな子が、大人顔負けの台詞を淡々と吐く。
やはり一般的でない特殊な環境で育てられたから、達観した子に育ったのだろうか。普通、親から離れて、知らない土地で独りぼっちになったら、もっと取り乱してもいいはずなのに。私が見たのは、少し呆然とする姿だけだ。
取り乱すことも許されない環境だったのか。冷静でいることを強いられてきたのか。人を殺さなければ生きられなかったのか。敵、と言っていた。仕事、とも。命が危険に晒される仕事なんて、私にはそう思いつかない。

「イルミ、あなた」
「何?」
「……いや、なんでもない」

どんなところで育ったの。
聞くまいとしていた台詞が喉元まで出掛けて、驚いた。途中で黙り込んだ私の背に、冷たい視線が突き刺さる。続きを促す無言の圧力を、知らん振りした。焦りや困惑で、つい早足に歩いてしまう。
どうしてしまったんだろう。イルミの育った環境なんて、私には関係ないのに。放っておけばいいのに。
無意識にイルミの内側に足を踏み入れようとした自分が、気持ち悪くて仕方なかった。
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