非情に成れない人でなし

「まずひとつ。ここはお前の家か?」

威圧するような低い声。肌の表面に電気が流されるような感覚に襲われ、自然と指先が震えた。
殺意を向けられる、という文字に今まで実感が持てなかったが、きっと殺意とはこの人が今現在放つ威圧感のことを指すのだと思う。今まで働く機会のなかった脳のどこかが、選択を間違えるなと叫んでいる。間違えれば、待っているのは死だ。

瞬きの回数は、はいが一回、いいえが二回。頭の中で何度も繰り返す。命の危機となると、一周回って冷静になれるものらしい。選択肢を誤ると死ぬ可能性があるのだと思うと、冷静にならざるを得ないは当然なのだが。
再び一回だけ瞬きをすると、暗闇の中から疑うような視線が向けられた気がした。

「ふーん……じゃ、ふたつめ。お前の他に仲間はいるのか?」

仲間、というと同居人のことだろうか。いいえの意を込めて二回瞬きをする。
ここに引っ越してきてから今まで、人を部屋に入れた事がない。せいぜい玄関先で通販の品物を受け取るやり取りをするくらいだ。恐らく男だと思われるその人は、少し上半身を起こして私の頭上を見た。
頭上にあるのは、位置的に玄関だろうか。記憶が正しければ、ビニール傘が扉の横に立てかけてあり、脇にサンダルが一足あるだけの殺風景な玄関だったはずだ。いつもなら使い古したスニーカーも並べられるが、そのスニーカーは未だ私の足に付いたまま。
そんな玄関を見て嘘ではないと判断したのか、彼の視線は再び私へと戻される。

「みっつめ。オレをここに連れてきたのはお前か?」

急いで二回、瞬きした。首も横に振って全力で否定したいところだが、頭部は押さえ付けられて動かせない。
連れてきたなんて冗談じゃない。私はたった今帰ったばかりで、勝手に中にいたのは彼の方だ。まるで私が拉致したような言い掛かりはよしてほしい。
彼は暫く考えるように黙った後、喉元の刃物はそのままに、頭を掴んでいた手を離した。

「次からの質問には口頭で答えろ。叫んだら殺す。ここはどこだ」

まるで迷子が言うような質問の意図が掴めず、一瞬呆けてしまう。喉元に鋭いものが食い込み、すぐ現実に引き戻された。
そもそも、どこ、とは。国名か、地名か、この建物の名前か。流石に地球です、という答えは求めていないだろう。とりあえずここは、国名を答えておくのが正解か。

「日本」
「ニホン?それ、何」
「え?こ、国名」
「オレをバカにしてるの?ニホンなんて国、聞いたことがない」

ぷつりと、肌に刃物の食い込む感覚と痛みが走った。思わず、今まで固まっていた両手で刃物を掴むが、そこに刃物なんてなかった。あったのは、小さな手。人の指が、私の喉に向けられているだけ。

「こ、ども?」
「身体を動かしたら殺す。そう言ったな」
「ヒッ、ま、待って。私からも聞かせて。あなた、どこから来たの」

膨れ上がる威圧感。押し返そうとしても未だ喉元から無くならない鋭利な何かが、ゆっくり沈みこんでくる気がする。痛くて怖くて叫び出したかった。しかし叫んでしまえば、すぐに殺されてしまう。喉をざっくりやられてしまうだろう。
必死だった。殺されない為には何をすればいいか、必死に考えた。結果、思い浮かんだのは、彼の欲しい答えに辿り着く質問を提示することだけだった。

「……家は、パドキア共和国のデントラ地区にある」
「そんな国、知らない」
「は?お前が無知なだけだろ」
「かも、しれない。だから、少し、調べさせてほしい」

電子機器の存在を忘れていたのか、彼は小さく声を漏らした。携帯なら、鞄の中に入っている。パドキアという国があるのなら、携帯で調べればすぐに分かるはずだ。

「なら、オレの言う通りにしろ。余計なことはするな」
「分かった」

まず彼は、電話をかけるように要求してきた。言われたとおりの番号を入力して、スピーカー機能のボタンを押して、暫く待ってみる。しかし聞こえてきたのは「この電話番号は、現在使われておりません」という機会音声。

「……次は、コンピューターがあるならパドキアについて」
「コンピューターはないけど、これでなら調べられる」
「携帯で?」

声が明らかに驚きを含んでいた。今の時代、スマートフォンくらい珍しくないと思うのだが。
やはり、私から質問を提示したのは正解だったし、電子機器の存在を思い出させたのは大正解だった。私の言い分が信じられずとも、インターネットの検索結果は疑えないだろう。
パドキア共和国、と入れて検索してみれば、思った通りそんな国は存在しないらしい。画面を見せると、彼は携帯をひったくるように取って画面を食い入るように見た。

喉元に付けられていた凶器がなくなり、深く息を吐く。そのまま彼の顔へと視線を向けた。両手で携帯を持って画面を眺める様や、携帯のライトに照らされた顔は、抱いていた違和感と仮説を真実に変えた。事実は小説よりも奇なり。そんな言葉がまさか現実になるなんて。

「なに、これ」

途方に暮れたように呟いた彼は、幼い少年だった。誰がどう見ても、まだ子供だと言うであろう年齢の小さな男の子。どうりでお腹に掛かる体重が軽すぎる訳だと納得する。

「読めない」
「え、うそ」

まだ文字が読めないだけなのでは、とは思えなかった。寧ろ大人よりもしっかりしている印象で、十分な教養を身につけているようにしか見えない。
自分よりも大きな大人を投げ飛ばして、脅して、殺すような教養が一般的かどうかはまた別問題になるが。彼の質問は全て理にかなっていた。余程頭が良いのだろう、それに体術も仕込まれてある。そこまで教え込まれているのだから、文字の教育は勿論受けているに違いないと考えた。
日本語じゃなく英語なら分かるだろうか。言葉は通じているのに日本語が読めないというのも奇妙な話だけれど。

「もしかして、英語なら分かるかな」
「エイゴ?ハンター文字はないの?」
「ハンター、文字」
「世界の大部分で使われてる文字だけど」
「ごめんね、分からない」

あまり頭は良くないが、そんな文字がないことだけは分かる。世界の大部分で使われている文字なら、学校で一度くらいは聞くはずだ。しかし、ハンター文字なんてものは見たことも聞いたこともなかった。
念の為ハンター文字と検索してみるが、やはり求めた答えは出て来ない。携帯を渡すと、彼はまた食い入るように画面を眺めた。文字は読めないようだが、探している答えがないことくらいはなんとなく分かるようで。少年と私の間に沈黙が走った。

事態は思っているよりも深刻らしい。殺す、殺さないでは解決しない。警察にこの子を連れて行っても、帰る国すら存在しない状況では真面に話すら聞いてもらえないだろう。まあそれでも、身寄りのない子供を放置できる立場ではないから、保護はしてもらえるだろうが。
ライトに照らされた彼の表情は、帰り道が分からない迷った子供そのものだった。彼は私の上から退くと、携帯を床に落とし、顔の横を通り過ぎて玄関へと歩いて行く。

「どこに行くの」

声をかけると、子供はピタリと立ち止まった。
こんな物騒な子供、放っておけばいいのに。心のどこかで、そんな声が聞こえた。しかし放っておいて、どこかで死なれたらと思うと、寝覚めが悪すぎる。

「関係ないだろ」
「外、寒いよ」
「なんとかする」
「どうやって。身寄りもない、お金もない、文字すら読めないのに。寒さしのぎに店に入っても、警察を呼ばれて保護されて、どこかの施設に入って終わりだと思うけど」

それも選択肢のひとつだ、悪いとは言わない。寧ろ保護は大いに勧めたい。でも、その前に、保護の前に死んでしまう可能性だってある。

「私の言うことを最低限守ってくれるなら、ここに居てくれて構わない。警察での保護を望むなら、連れて行ってあげる」
「もしここに残るとして、その条件は何。オレに奉仕でもさせたいの?」
「子供にそんなこと望まないよ。今みたいに、暴力を振るわないでくれるなら、ここに居ていい」
「それで、お前になんの得がある」

この暗闇では何も見えないが、上半身だけ起こして玄関に身体を向ける。ドアノブに手を掛けた子供が、こちらを見ていることだけは分かった。
得があるかと聞かれると、返答に困る。元々一人が好きで、パーソナルスペースに他人が入ってくるのは大嫌いだ。面倒事も嫌い。生活費も二人分になる。そもそも、子供一人を責任持って育てていけるか分からない。不安しかない。得なんて、私には何もないのだ。

「得はない、けど……見殺しにしなかった事実は残る」
「偽善だね」
「偽善なんて、そんなものじゃない。私の為だから。一度引き留めておけば、何もせず、子供を見殺しにはしなかったことになる。それであなたが出て行ったなら、あなたの勝手。例え死んでも、私はここに居たらって引き留めたんだから、罪悪感は薄くなる」

彼は「へえ」と品定めでもするように呟いた。汚い大人だと思われただろうか。けれど引き留めた理由を嘘偽りなく述べるなら、今の言葉が全てだ。
ただ、私が嫌な思いをしたくないだけ。これで彼が出て行ったなら、それはそれで構わない。引き留める理由もない。その先で死んだとしても、それは彼の選んだ道だ、仕方がない。だって、私は一度引き留めたんだから。ここで過ごす選択肢を振り払って出て行ったのは、彼なんだから。

彼は舐めるように私を見て、ドアノブから手を離した。そのままこちらにゆっくりとした歩調でやってきて、目の前で止まる。頭ひとつ分もない高さから見下ろされているはずなのに、妙な威圧感は薄れていなかった。ただ、死を覚悟した嫌な空気だけは嘘のように消え失せていた。

「お前、名前は」
「ナマエ」
「ナマエ、ね」

見下しながら、彼が言う。どうやら彼は、死よりも保護よりも、私と暮らす事を選んだようだった。
衣食住の生活権は私が握っているはずなのに、ちっとも優位に立てた気がしない。やはり妙な子だ。纏う空気だけじゃない。パドキア共和国という、存在しない国から来た子供。そもそも、どうして私の部屋の中にいたのだろう。落ち着いたら、色々と聞いてみよう。

「条件は守るよ。さっきみたいに暴力は振るわない。けど、お前が変なことしたら殺すから。いいね?」
「……うん?」

先程から何度も聞いている単語だが、あまり日常生活では聞かない物騒な言葉に思考が鈍る。
そういえば、見た目が可愛いので忘れそうになるが、このイルミという少年に私はさっきまで殺されかけていなかったか。麻痺していた恐怖感が今更戻ってきて、ざぁっと頭が冷えていく。そうだ、可哀想な子供の姿に騙されていたが、この子は凶器を持った犯罪者予備軍じゃないか。
やっぱり放っておけばよかったかな、と思うが既に後の祭りだった。

「じゃ、交渉成立で。オレの名前はイルミ。暫くよろしく」

かくして、少年と私の奇妙な同居生活が幕を開けた。
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