冷たい孤独が心地いい

その日は、この冬最大の寒波が来ると言われていた。煉瓦で出来た塀の一部分、外が見える門扉。内と外を区切る格子の外側を通る人達は、全員なにかしら着込んで温かそうな印象を抱かせた。灰色の空からは少しの雪がちらついて、服に落ちては溶けて水滴になる。最大の寒波と呼ぶに相応しい北風は雪とも相まって、確実に彼女の体温を奪っていった。

「ナマエ、いい加減中に入り」

家の扉が開いた。そこから身体半分を出した祖母が、咎めるように言う。

「早く。寒いやろ?」

それでも彼女が門扉の格子から手を離さなければ、祖母は呆れたようにため息を吐いた。

「まったく、風邪引いても知らんからね」

尚も無視し続けると、家の扉が大きな音を立てて閉まった。彼女からすれば、祖母の好意を踏みにじったつもりは全くなかった。寒気に晒されて、口の中では歯がカチカチ音を立てていた。言葉が出て来なかっただけなのだ。その代わり、首は動かしたつもりだった。しかしマフラーと帽子で雪だるまのように輪郭を失った頭部は、祖母に肯定も否定も伝えられなかったらしい。
彼女が外に出て、既に一時間は経過していた。門扉にへばりついて、道行く人から訝しげな視線を向けられながら、必死に目当ての人物を探す。しかし一向に探し人は見つからない。祖母に着せて貰ったマフラーと帽子、コートと長靴。これ以上ない完全防寒着をもってしても、顔だけは覆い隠せず、小さな鼻もふっくらした頬も赤く染まっていた。長靴の中や、モコモコした手袋の中身は既に感覚がない。そんな状態になっても格子から手を離さなかったのは、早く会いたい人がいたからだ。

──おかあさん、まだかな。

彼女の母が家から消えたのは一週間前になる。
深い眠りの中、何かの声で目が覚めた。うー、うーっと苦しそうな声が真横から聞こえてくる。ちらりと横を見れば、母が大きなお腹を抱えて、呻き声を上げていた。
弟か妹を身籠もっているらしかったが、まだ子供である彼女には出産というものが理解出来なかった。母のあまりの苦しみように、もしかして死んでしまうんじゃ、とパニックになり涙が出た。そんな彼女を宥める者は誰もいない。自分一人で手一杯なのは、全員同じ事だ。父は苦しむ母を連れて病院に行ってしまい、家に残されたのは幼い少女一人だった。
空が白んできた頃に慌てて家に入ってきたのは、ここから少し離れた場所に住む祖母だった。
祖母は泣きじゃくる彼女を抱き締めて、安心させるように背中を撫でる。母は死なないこと、妹か弟を産みにいったのだということ、暫くは病院だから数日は祖母が面倒を見てくれること。全て聞き終わる前に、泣き疲れた彼女は電池が切れた玩具のようにパタリと寝てしまった。

それから七日。祖母から今日の昼過ぎには母が帰ってくると知らせを受けてから、彼女はずっと門扉に張り付いている。
早く、早く、早く。気持ちが急く程、母の帰りは遅く感じられた。そして時計が一時を指そうとしたとき、遂に見覚えのある車が近付いてきた。ずっと同じ体勢をとっていた足を動かすと節々が刺されるように痛んだが、喜びが大きく上回る。かじかむ指でぎこちなく門の施錠を外し終わると、ちょうど車は駐車場に駐まったところだった。
車の運転席から大荷物を持った父が出てきた。反対側の助手席からは会いたくて堪らなかった母の姿。彼女はやっと会えた愛しい母に抱きつこうと駆け寄った。寒さで固まり動かない舌を必死に動かし、渾身の力を込めて言ったのだ。

「おあえり!」

その数分後。雪も酷くなってきて、地面が薄っすらと白に染まっていく。
大人の体温も簡単に奪う空の下。門の外にいるのは、世界の全てから置いてけぼりをくらったような、小さな子供だった。



「お疲れさまです。お先に失礼します」
「はい、お疲れさま。あ、ちょっと待って、ナマエちゃん」

呼び止められて、足を止める。ドアノブを掴んだ手を下ろして、振り返った。女子更衣室の中には私と、中年に差し掛かった女性の二人しかいない。彼女、この職場で私の大先輩にあたる佐藤さんが自分のロッカーを漁りながら、片手でちょいちょいと手招きした。

「どうしました?」

手招きに応じて、佐藤さんに近寄る。目当てのものを見つけたらしい佐藤さんは軽快に笑って「あったあった」とロッカーから何かを取り出した。
なんだと思いつつ、あかぎれの増えた手元を覗き込んで見る。お弁当箱を入れるような、男物の青い保冷バックだった。佐藤さんはその保冷バックをこちらに突き出して「ほら」と言った。彼女の真意が分からず、思わず訝しげな視線を向けてしまう。

「あんた、細いからさ。それに最近はコンビニ弁当ばかりって話してただろ?つい心配になって息子の作るついでに作っちまったんだよ」
「え、あの、お代は」
「要らない要らない。ただのおばちゃんのお節介だからさ、よかったら貰っとくれ」

そう言われて、更にずいと保冷バックを近付けられては受け取らない訳にもいかず。弁当にしては少し重く感じるそれを受け取って頭を下げた。

「ありがとうございます。じゃあ、有り難く頂きます。また明日、洗って返しますね」
「明日はいいよ。あんた、休みだろ」
「あ」
「やっぱりちょっと抜けてるねえ」

ケラケラ笑う佐藤さんにつられるように、私も笑う。佐藤さんは確かもうすぐ五十歳。三人のお子さんと、一人のお孫さんがいるらしい。その影響か、私のことも娘のように思ってくれているようで。まるで家族や友人のように近い距離感に有り難く思うこともあれば、やっぱり疲れることもあった。今は後者である。
再度、頭を下げて「じゃあまた明後日」と言って踵を返す。佐藤さんは「はいはい、気を付けて帰りなさいね」と更衣室のドアが閉まるまで手を振ってくれていた。

この町に引っ越してきたのは、かれこれ二年前になる。暮らすのに苦労しない程度に店があり、娯楽施設は何もない。栄えているのはほんの一部で、他は田んぼが広がっている。そんな長閑な田舎だった。
高校卒業とほぼ同時に家を飛び出し、一時はどうなるかと思ったが案外どうにかなるもので。未成年だった私もついこの間、成人済みの大人になった。成人したからといって、中身が変わるものでもないが、生活しやすくなったと感じている。主に給料面で。時給の高い夜に働けるようになったのは、本当に有り難いことだ。

外に出ると既に日は暮れていて、道端の街灯と偶に通る車のライトが夜道を照らしていた。白い蛍光灯の光の中に、吐いた息が白くなってのぼり、空気中に溶けていく。
ポケットに手を突っ込み、首を引っ込めるようにして十分程歩く。アパートが近くなってくると街灯もまばらになってきて、人通りも車通りもない道はどうにも慣れない。
すぐそこの路地から殺人鬼でも出てくるんじゃないか、家の塀の前に路駐している車の中から人の手が伸びてきて拉致されるんじゃないか。ホラー映画や小説の見過ぎで、恐怖心を煽るネタは私の中にたっぷりストックされてあった。おかげで暗くて不気味な家路を通る度、変な妄想を頭の中で繰り広げて一人背筋を凍らせている。
まあこの二年、この道を通っていてそんな出来事に遭遇したことは一度もないのだが。こんな田舎で、騒ぎを起こす人の方が少ないだろう。

いつも通り、無事二階建てのアパートに辿り着き、私は二階に続く階段へ足を掛けた。自室が近くなるにつれ疲れを自覚する足は、階段を上る事に重くなっていくような気がする。なんとか階段を上りきった後は、通路を静かに歩いた。ここの住人にあったことはないが、少なくとも階段のすぐ側にある二〇五号室の扉には三木という名札が貼られているので、誰か住んでいるのだろう。
私の部屋は、階段から一番離れた角部屋だ。肩に掛けた小さな鞄のポケットから鍵を取り出し、二〇一号室の扉を引き開けた。同時に景色が回り、地面へ派手に叩き付けられた。

「ウッ!」

ドダンッ!と大きな音が響いてから、後頭部と背中に激痛を覚える。痛みで顔を顰めて呻いていると、ガチャリと聞き慣れた音が聞こえた。鍵を閉める音だ。
身の危険を感じ、反射的に飛び上がろうとした。しかし上半身を動かしてすぐ、何かが鳩尾を圧迫するように重心を掛けてのし掛かってきた。頭も乱暴に鷲掴まれて、ゴンッと元の位置に押し付けられる。喉元に突きつけられた、鋭い刃物の先端のような感触に、思わずヒュッと息をのんだ。

手に当たるすべすべした感触が、部屋の中であることを告げる。
きっと柔道のように投げ飛ばされて、廊下に叩き付けられたのだろう。部屋の中は真っ暗で何も見えないが、きっと私を床に押さえ付けている誰かは、いつでも喉に突きつけた刃物で私を殺せる。理解すると、身体が芯から冷えていく。なのに心臓は煩いくらい騒ぐ。

「声を出したら殺す、少し身体を動かしても殺す。オレの問いには瞬きで答えろ。イエスが一回、ノーが二回だ。いいな?」

声を聞いた瞬間、一瞬恐怖も忘れて思わず声を漏らしそうになった。しかし、命は惜しい。必死に喉まで出かかっていた声を押し止め、ゆっくり瞬きをした。
大人にしてはやけに軽すぎる腹部に掛かる重みに、違和感を抱きながら。
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