春眠 | ナノ
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春の夢1

遠い、昔の話。
淡い夜空に薄い雲がたなびき、やわらかな星明かりが降り注ぐ、ある春の日のことだ。

鹿を追って森に入ったはいいが、惑わしの森の魔力に囚われてしまったのか、夜も更けてしまった。薄暮が訪れ、日が暮れてから既に数時間が経つというのに未だ道は見つからない。春とは言ったものの、まだ夜になると氷のように風は冷たく身に突き刺さった。

身を切るような冷たい夜風に嬲られる体は、一刻ごとに軋みを上げる。そしてなによりも、その孤独を分かち合える友人たちすらもいないという事実は、少年の身には想像以上につらいことだった。
そうして―――


遠く、低く、獣の唸るような声が聞こえる。
セタンタはそれから少しでも遠ざかるよう夜を裂くように走った。

振り向けばそこに奴らの光る眼がそこにいるのではないかという嫌な予感が内側から胸をかきむしって、苦しいほどだった。

狼だ
幼年組の誰よりも秀でており、いずれ名をはせる定めを負っているセタンタとはいえ、まだ10にも満たない幼子である。飢えた野狼の群れに追いつかれては生きて帰れるはずもない。

だから、セタンタはその群れに気付いた瞬間に冷静な判断で、逃げることを選択したのだ。今の自分では、決して勝てないと判断したからである。

だが、一頭の黒々とした狼に追いつかれてしまった。そう、それはセタンタが気づかないうちに、それは影のように音も無く忍び寄り、大きく躍り上がると上から襲い掛かってきたのだ。
そうして大きく開いた顎で―――

「…っつ…う」

少年は鈍い痛みを訴えかける右半身に鞭を打ち、歯を食いしばって痛みを噛み殺しながら力の限り手足を動かし森を奔る。

襲い掛かってきた狼は素早い代わりに、体重が軽かったせいか、少年の全力で振りぬいた拳の前に軽く飛ばせたのが幸いと言えば幸いだったのだろう。

だが、闇の奥から手招きするような死が遠のいたわけではない。狼どもの咆哮は時に近く、時に遠く四方から感じられる。

体は鉛のように重かったが、まだ死ねない死ぬべきではないのだ、という根拠のない使命感に突き動かされ、足を動かした。疲れは未だかつてないほどにあったが、それ以上に逃れなければという思いが強い。星明りさえも茂った枝々に遮られ、先も見えぬ闇に沈んだ黒々とした林の中、夜露に濡れた地面を覆う土に帰りかけの葉や盛り上がった木の根、飛び出す石に足をとられて転びそうになるのを己の感だけを頼りに進む。

静かな夜だった。今や後ろから迫る荒い息遣い以外には、風の音も鳥の泣く声も聞こえない。まるで己がこの世で一人きりになったようにすら感じられる。

狭い間隔で迫るように生えている木々の先にせめて、せめて人の気配だけでもいいから感じないかと顔を上げた瞬間、セタンタの耳に柔らかで、密やかな、かすかな音が届いた。それは静かに薄暗い森に響き渡った。


――――歌が聞こえる。


歌にひかれるように悲鳴を上げる足を叱咤して、少年は夜の道を急いだ。
風音の合間を縫って、薄明の森の彼方から聞こえる歌は、更に近寄ると美しさを増していく。頭上に生い茂る枝葉に遮られた暗く深い森の中を、セタンタは耳に届く歌声だけを頼りにさまよった。

気が付けば四囲の闇は段々と静まり、いつのまにか風の音にのって聞こえてきた野狼の唸り声は、もう聞こえなくなっていた。夜を渡る歌声はどこまでも朗々と木の間に木霊しそれにセタンタは何かに引き寄せられるかのように足を動かした。

と、闇の先に瞬くように光るものが見える。今は見えない星の灯を掬って大地にまき散らしたかのような、柔らかな光だ。ようやく、森が開けた。芝草に覆われた、一本の木だけが立つ豁然と星空に向かって開かれた空き地だ。そうして


  咲き誇る林檎の木の下、一人の女が立っていた。


星空をくりぬいたような広場に出て、セタンタは、つんのめるようにして、立ち止まる。


心臓が胸の中で痛いほどに暴れている。
喉は干上がって、痛みさえ感じる。
だが、そうして暗闇の中からその女を見た時、そんなことをすべて忘れた。

その瞳は夕暮れ時の空のような紺碧で、水際に跳ねる光の如き輝きを宿していた。衣はあわ立つ海の泡に白く、髪は冬の宵闇のような黒。それは―――春の暁のように美しい娘だった。

その娘を見た瞬間、セタンタの呼吸は凍り付いたように止まっていた。呼吸を忘れるほど女に見入ってしまったのは、単純なことだ。

ただ、見惚れるほどに美しい。あまりにも純粋で、こんなにも説明のしようのない表現を同じ人間に用いたのは、短い人生の中でも初めてのことだった。

そうしてこれから先、同じように思う人に出会うことは決してないだろうと、ぼんやりとした頭で確信する。

だが、いきなり飛び出てきた影に驚いたのだろう。
その女は飛び去るように、逃げた。
そう、目の前の泉に向かって迷いもなく足を踏み出したのだ。

女のからだは滑らかに泉の上をかける。
水面は波紋だけを残して、揺らぎもしない。

「待ってくれ!」

そんな乙女をセタンタは大声を出して呼び止めようとして

そうして―――視界が黒く染まり、意識は闇へと転がり落ちた。


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