春眠 | ナノ


と、何やら凄まじい寒気が背筋を走った。
嫌な予感に、突き動かされておそるおそる下を見ると、シャノンが上半身を後ろ手に軽くおこしながら、うつむきがちに顔を伏せ、小さく震えている。
あれ………もしかして、泣かせ、…た?
ご、ごめん!本当にすいません。悪気はな――――

「――――――……、いいから――――いい加減に離れなさい!」

涙目になりながら、そんな怒気と共に放たれた凄まじい突風。それは、腹部を抉り上げるように突き上げ、そうして―――――俺は、空を、飛んだ。
凄まじい勢いで、螺旋状に景色が過ぎっていく。
錐もみしながら、空間をえぐるように飛ばされる。
重力から解き放たれた解放感。
反対に手足から引き裂かれるような遠心力。
突き上げられた腹部は、痺れたように鈍く、もはや痛みさえ感じない。
そう――――ここで問題があるとすれば、息ができないことだけで。


視界が空を写し――――ああ、こんなに空って高かったんだ……などと、頭の端で考えた瞬間




「白野!―――くっ、無事か!?」

その背を、紅い外套のサーヴァントに、受け止められた。
その勢いに、背筋がみしみしと悲鳴を上げる。
受け止められてですら、殺しきれない衝撃。
のどがぐっと絞まり、視界が苦しさで霞む。

というか、受け止めてもらってこの有様なのだ。アーチャーが受け止めてくれなかったら、確実に迷宮のシミになったであろうと理解をして、背筋がぞっとする。
っって、どんだけ勢いよく飛ばされたんだ、おい。
未だに頭が揺れて、三半規管がめちゃくちゃにシェイクされてる感じがするぞ!

内心悪態をつきながら、荒い呼吸を押さえる。そうして、アーチャーに支えられながらも地面にふらつく足をつけた瞬間、気づいた。
左手が――――熱い!

『SG反応、確認いたしました!白野さん、今です!』

そんな桜の声に励まされるように、胸元を押さえて立ち上がりながらこちらを睨みつけるシャノンを、ふらつく足に力を込めながら見据える。

そう、今までの会話にもヒントが十分に隠されていた。
彼女たちの間で交わされた会話の内容。
白乃には見られなくて、異性に対する時にのみ見られるシャノンの反応。
そう、白乃のまったりした努力は無駄ではなかったのだ。


――――つまり、シャノンの1つ目のSG名称は―――「男嫌い」とみた!

そう確信した途端、シャノンが胸を押さえて、数歩後ずさりする。

「あ―――、んっ……く、ぅ。そん、……な」

喘ぐように吐息と共に零される声と共に、零れ落ちる光と共に彼女のSGが花開く。
引き寄せられるように左手が宙を舞う。


そうして、――――シャノンの胸元から引きずり出されたSGを握りしめた―――




玻璃が割れるような、儚い音と共に、道を遮るように碧々と輝いていたシールドが、砕け散ってゆく。なるほど、白乃では摘出できないわけだ、と納得しながら立ち上がる。

そうして、勝利の音を背に、SGを確認しようと生徒会に連絡を、と目をそらした瞬間、―――切りつけられるような殺気に、背筋に凄まじい悪寒が走った。
背後から冥府から手招きするような声が、あるいは刃物のように鋭利な声が、冷たく容赦なく響く。

「本当に――――、野蛮で、忌々しい限りね。……これだから男は」

その声に促されるように、恐怖におののく体を押さえつけながら、恐る恐る振り返る。
そうして――――そこには徐々に実態を失っていく体でなお、無表情にこちらを睥睨するシャノンの姿があった。

今までいた温かな趣は完全に消え去り、存在するだけで空気を歪ませるほどの敵意の塊がそこにあった。その彫像じみた顔には、先ほどまで彩っていた温かな感情など、欠片も感じられない。それはまるで能面のようである。

―――――その差異が、凍りつくほどに恐ろしい。

張り付いたような表情に、ただ一つ感情が見えるのは瞳だけ。
そう、殺意でぎらついた恒星のごとき輝きを放つ、魔的な瞳だけが、彼女の心を図る唯一の窓である。
その切っ先のような視線に真正面から見つめられるだけで、頭が痺れ、意識が小さく折り畳まれていく。


一歩彼女が踏み出すごとに、気圧されたように体が内側から凍りついてゆく。
瞳に見つめられるごとに、咽喉が浅く緩く、詰まっていく。
一瞬先にも、首が胴から離れてもおかしくないほどの、冷気。
ぞっとするような殺意。
消えゆく体ながらに、絶対的な死を幻視させる態。

そうして、引き攣った様に喉を引くつかせた瞬間、――――その視線を遮るように、アーチャーが一歩歩み出た。

たったそれだけで、凍り付いていた呼吸が再開する。
突然肺に流れ込んだ新鮮な空気に、反射的に息を詰まらせた。
体が酸素を求め、大きく肩で息をつきながら、ただ咳き込む。
乾いた目を瞬かせ、陸に打ち上げられた魚のように腹を波立たせて、息を必死で吸う。
驚いた、どうやら瞬きすらも忘れていたようだ。

「ここは引くがいい、幻惑者。今回はこの男の勝利だ。敗者が勝者を呪うなどという浅ましい不条理は、この私がいる限りまかり通らんぞ」

頭の上から降ってくるアーチャーの声。それに促されるように、ぜいぜいと、軋むような痛みを訴えかけてくる喉を押さえながら、顔を上げると、巌の様な背が聳え立っている。
断固として、守り通して見せるという決意に満ちた赤い背中。
ああ、確かに本当に頼もしい背中だな、白乃。

「酷い言い草ね、掃除屋風情が。私は彼をただ見つめただけよ?」

だから、それが怖かったんだって。
しかし、――――もしかしてやり過ぎ、ました?

その問いに促されるように、長いまつげをそっと上げて、俺を冷たく一瞥する。

「鈍いのね、白野くんったら。でも、そう思ってくれるなら、早く次の私に会いにきてちょうだい。ああ、でも安心して、殺すつもりはないの。ちゃんとおもてなしをしてあげる。ええ、首だけになったって自意識を保てる術式を投与して、ゆっくりと丁寧に―――叩き潰してあげるから」

そう言って彼女は、花がほころぶように微笑んだ。
先ほどまでと同じ行為だというのに、劇的なほどに印象が違うそれ。
見る者を凍りかせるような、敵意に満ちた微笑。
そんな優美な棘を残して、シャノンは花のように散り去った。

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