春眠 | ナノ

流れゆく new

「――ん……あ”ー……なんだ」

目蓋を刺す光で、クー・フーリンは目が覚めた。
視線の先には開け放たれた窓があり、そこから差し込むいまだ丘の向こうから顔を出したばかりの燦々とした陽射しが、部屋に氾濫する。寝起きで、いまだに微睡みを欲する瞳には、その光は強くて、たまらず目をしかめて、エウェルを抱き寄せて、もう一眠りしようかと思い、伸ばした腕は空を切った。

「………」

寝台の上で、クー・フーリンは敷布に包まれた体を、しぶしぶと起こす。
衣擦れの音と共に、かぶせられた薄布が背から滑り落ちて、朝の清冽な空気が敷布に包まれて温かな肌を撫でていく。

そうして体を起こした途端、甘やかな香りが鼻腔をくすぐった。林檎の林を通り抜けたような、新緑が醸し出す瑞々しい息吹のような香りが、胸の内へと爽やかに流れ込んでくる。

眩んだ視界が、徐々に形を取り戻していく。
その視線の先、音もなく零れ落ちる陽光の向こう。その差し込む光の雨の中に、緩やかな空気を纏った女が、こちらに背を向けて座っていた。


なにやら、娘は机に向かって記しているようである。
クー・フーリンは朝早くから何してんだ、と呆れながらも、獣のようなしなやかさで寝台を降りると、寝乱れた青海色の髪を手櫛で梳きながら、娘に近寄った。



エウェルと、かの地を離れ、彼女を頼って来たドルイドたちは不思議なことに、遠くエリンからも海を隔てて薔薇色の指持つ女神が坐す、異国の文字というもので何かを書き表していた。

「前から思っていたんだが―――なんだそりゃ」

後ろから机上を覗き込もうとしたが、視線は本能に従ってエウェルの乱れて開いた襟元へと、惹きつけられる。陽光の光を浴びて白く輝くなめらかな首筋と、滑らかな胸元がかいま見え、どきりとするほど艶めかしい。

クー・フーリンの喉が思わずなった。ここは素直に手を伸ばすべきか逡巡していると、エウェルが口を開いた。


「以前、言ったでしょう?私は……子を孕むことができないと」
「――――ああ、そんなこと言ってたな」
「単純な計算です。私は新しい命を育むことが出来ないかわりに、今ある知恵を残すことを許された、そういうことです」

娘は父の跡を継ぎ一族の司となることが定められていたがゆえに、女として外に出ていくことを禁じられていたのだ。エウェルを失えば、領地に掛けられた豊穣の加護は消え去るからである。ゆえに望む者はなんだって与えられた。望めば知恵も自由も、そう娘が何処に行こうと、たとえどこで果てようとも良いという許可さえ与えられた。ただ、己の所有権を他者に明け渡さない限り。

だが、そうすることで一つの運命をゆがめたことをフォルガルは一人の父として悔いたのだろう。だからこそ、本来はこうして残すことすら許されぬ秘儀を残してもよいと、許されたのだ。それが、いや、そのような方法でしか、フォルガルは彼女に報いる術を知らなかったから。

だが、その豊穣の恵みを継がせることのできる一族はもういない。ならば、せめてこの秘儀を残すことで、消えゆく一族の弔いとするため、エウェルはしたため続けた。

「なら、その文字は…」
「口伝でのみ継承されると言われる、ドルイドの知識。何れ失われてしまうかもしれない、知恵の雫の欠片。
ええ、本来は口伝の方が正しく伝わると聞きますし、こんなことは望ましくないのでしょうけれど」

と言って、静かに口を開き―――

「けれど、こうすることでしか残せないものもあるでしょう」

ぽつりと、寂しげな微笑みを零した。

「けれど私は自分を哀れとは思いません。私が失ったモノは、他でもない私が選びとった結果で、全てが失われようとも、私たちがつむいだ時は受け継がれるのですから」
「はっ、辛気臭せえ、自分が死んだあとのことなんざ、残ったもんがかんがえりゃいいだろう」

だが、そんな娘の髪を指で梳きながらクー・フーリンはそういって笑った。それに唇を尖らせながらも、くつろいだように受け入れる娘のさまに、慣れない小動物を手なずけたような奇妙な達成感が湧き上がる。

「死んだあとに考えるって…あなたって本当に刹那的ね」
「当たり前だろ、悔いが残るような生き方をするつもりはねえからな」

頭から肩へと求めるように腕を伸ばす男に応じるように、エウェルは筆を置いて、向けられた手をそっと握り返す。武器を扱い硬く引き締まった手が、白く滑らかな女の手を指の又をくすぐるように指を差し込み、包み込む。そうして、当然のように鮮やかな言を語る男を、エウェルは眩しそうに見て微笑んだ。

「貴方はそれでいいでしょうけれど、私だって何かを為したいのです」
「よーし、なら俺と一緒に砦の一つでも落としに行くか?」

その慰めにもなってない返答にエウェルは、頭痛を堪えるように眉をしかめ、苦笑を漏らした。そうして、降ってくる口付を大人しく受け入れながら、男の首筋に甘えるように、頭を擦りつける。

「もう、貴方って、馬鹿ね」
「生憎と、こういった方法しか知らなくてな」
「――全く……本当に野蛮なんだから」
「そんな男のモノになったのは、どこの誰だ?」

そうクー・フーリンは軽やかに笑いながら、エウェルを後ろから抱きすくめて、その肢体に手を這わす。その手を女は抑えようとするが、まるで意味をなしていない。

「はぁ…こういった時に世の女性は失敗したというのでしょうか」
「へぇ」

その言葉を聞いた男は、低く不穏な声を零して、

「――!?」

娘を抱き上げ、寝台へともつれ込んだ。

「なら、後悔なんてする気を無くしてやろうか。」
「―――朝なのに?」
「ああー、ならもっかい寝るか?」

枕に頭を横たわらせながら、女の緩く波打つ黒髪を驚くほど優しげな手つきで梳くと、エウェルは拗ねたような顔から一転、耐えきれずに花がほころぶような笑顔を零し、はにかむように目を細めて笑った。

「ふふ、それは心惹かれるわね」

そんな顔を見せられては、無理を強いることなどできない、とクー・フーリンは柔らかな笑みを零して、先ほど落した敷布を手繰り寄せながら、慈しむように軽く頬に触れて微笑みかけながら、エウェルを抱きすくめる。

それを受けながら、何をしても、大体のことは許してくれるこの男を、他愛ないことで困らせてみたいという、子供じみた衝動がエウェルを襲ったのだろうか。クー・フーリンに、エウェルはじゃれるように男の逞しい胸板に頬を寄せ、その筋をたどるように指をあそばせる。

「おい…くすぐったいんだが」
「えぇ、だってそうしたいんですもの」

くすくすと、さざめくように微笑みながら、こちらを見上げる娘に良からぬ気がこみ上げてくる。

「ったく、なんだってんだ?」
「ちょっと、貴方を困らせてみたくて……お嫌?」

そんな馬鹿げたことをおどけたように言いながらも、少し不安げな女に、思わず吹き出しそうになる。そうして、むっとむくれた雰囲気を醸し出す娘をあやすようにその頬や額に口づけを落とすと、エウェルは満足そうな吐息を吐いて、微睡むように瞳を伏せた。

「らしくねえな」
「ええ」

本当にらしくない。いつもなら、このままエウェルの体に火をともそうと高ぶるのだが―――

「でも、嫌いではありません」

耳元で囁かれた言葉と、猫のように身体にすり寄る穏やかな温もりに、密やかな眠りが忍び寄ってくる。たまにはこんな日もあっていいだろう。そうして、束の間の微睡に身を投げることにした。

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