天球儀 | ナノ

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「よう、立夏」

早朝のカルデアの廊下は、いつもよりも穏やかな静寂に満ちている。そんな静寂を破るように、背後からかかる声。振り向くと、鍛え上げられた肉体に群青色の髪を無造作に流した男が、廊下の向こうからゆったりとした足取りで近づいてきた。

「うん、クーフーリン。おはよう、今日も早いね」

寝ぼけ眼をこすりながら、挨拶を返す。視界の端、そばにいたメフィストフェレスがにんまりとした底意地悪い笑みを浮かべたの見て、いつもの通りの悪い癖が始まったのだと理解した。

「おやぁ、あなたは彼をマスターと呼ばないのですか?」
「あ?なんだ知らねぇのか」

ねっとりと揶揄するようにかけられた悪魔の言葉。それをさっぱりとした言葉で返す男。
そう、彼が藤丸立夏をマスターと呼ばないのにはわけがある。

「そりゃ俺を召喚したのはこいつじゃねぇからな。ま、マスターとして指示は適格だから、従うのはやぶさかじゃねぇが、そこんとこはハッキリしとくべきだろ」
「となると、だれがあなたのマスターなのですぅぅ?ほら、マスターであれば、わたくしももしかしたら仕えることになるかもしれない相手。キチンと把握しておきたいものでしてねぇ」
「お前が把握しておきたいのは、自分が楽しめる相手かどうかってことだろ―――ったく、これを乗りこなそうなんて、立夏、お前ホントに肝が据わってんな」
「メフィストフェレスはそこまで悪い奴じゃないよ…いや、悪い奴だけど、裏切られるまでは頼りになるからさ」

善悪でいえば、明らかに悪だが、信頼できないわけではない…と思うのは、自分が甘いだけだからだろうか。

「そりゃ、悪くねぇって言うのか?」
「う、う〜ん。でも裏切られた時は俺にも非があるってことだしさ」
「ねーねー、ガン無視とかよしてくださいよぉ。ほら、わたくしの悪い虫が疼くじゃありませんか!!!ムシだけに!」
「おーおー、勝手にしてくれや。白黒つけるなら早い方がいいからな―――ってかお前も俺のマスターにことは知ってるだろう」
「ほら、会ったことあるでしょう?ミリアムだよ」
「なんとぉぉぉ!」

わざとらしいほどの大げさな身振りで、自己主張をする悪魔もどき。

そう、藤丸立夏のサーヴァントであるミリアム・キリエライトは、サーヴァントであると同時に、マスターでもある。

それは元よりマスターの予備にも選ばれるほどの高いマスター適正を持っていたからなのか、現在のクラスの副産物なのかは定かではないが。とにかく彼女はマスターでありながらサーヴァント、というなんとも複雑な立ち位置にいるのである。


本来は1マスターにつき、1サーヴァントしか契約できないカルデアのシステムだったが、マシュの盾を媒介にした複数の英霊との契約を可能としたシステムが、思いのほかミリアムとの同調率が高かったのだ。

先日カルデアにお越しいただけた、孔明ことエルメロイ先生から聞くところによると、サーヴァントがマスターとして英霊を召喚した前例は何度かあり、そう珍しいことでもないらしい。

といっても、本人はサーヴァントであることに固執している。なんでも、サーヴァントである以上、マスターがいないと万全に力が発揮できないらしいとかなんとか。そして、マシュもそれには同意していた。…立夏にはまったく理解のできないことだが、そういうものなのだろうか。

本人も、小さな特異点、歪み程度なら修正できるが、大きな特異点となると、お手上げなのだという。立夏から見れば、非の打ちどころがなく頼もしいマスターに見えるのだが、彼女は普通の人生経験の少なさからくるのか、合理的な判断はできても、柔軟な対応というのが苦手なのだそうだ。

そんなわけで、ミリアムはサーヴァントを喚ぶことに、本心から納得してはいないらしい。

なんでも、命令系統を複数に分けるのは合理的ではないということ。そして、このクーフーリンのように、サーヴァントはマスターを優先的に守ろうとする。だが、ミリアムと立夏なら、優先させるべきであり、そしてより守らなければならないのは立夏だ。極論を言うと、立夏さえ無事なら、ミリアムは自分の身は自分で守れる。…事実ではあるが、男としてなかなかしょっぱいものがある。

それでも彼女が召喚するのは、彼女と立夏では当然のことだが異なる縁が結ばれているからだ。一騎でも多くのサーヴァント、戦力が必要な今、あらゆる縁を手繰ってでも、このカルデアに一人でも多くの助力が必要なのだ



「で、俺に何の用があるんだ?」
「ああ、マスター…ミリアムの奴を見かけなかったかと思ってな」
「いや、今日は見てないなあ」
「そうか、仕方ねェ。見かけたら俺が捜してたって伝えてくれや」

ひらひらと手を振りながら、去って行く男を見送っていると、ふと横から視線を感じた。

「ほう、ほうほうほーう」
「なんだよ、メッフィー。変な顔して。フォウの真似?」
「いえいえ、ただちょーっと疑問に思う事がございましてねェ。マスター…あなたは、カルデア唯一のマスターだから、無知無力の身ながら戦ってこられた。いいえ、戦わされた。

ですが、彼女の様に魔術師として優れたマスターがいて、彼女を主とするサーヴァントがいる…これってちょっと気分悪くありません?ほら、契約しておいて事実と違うなんて、詐欺みたいじゃないですかぁ」

誘惑を心得顔で語るメフィストフェレスの面持ちは、まさに悪魔そのものだ。
自分の心の隙を、的確についてくる魔性の囁きだ。

どうして自分だったのか
なぜ、世界を自分一人が背負わなければならないのか
お前は騙されているのではないか、いい様に使われているだけじゃないのか。
お前が得るべきものをあれはかすめ取っているのではないかと、悪魔は囁いてくる。
だが―――

「思わないよ。ミリアムはそんな奴じゃ絶対にない」

惑わしの言葉を一蹴する。
そう、彼女は立夏を心から信頼しているし―――彼女がマスターに、少なくとも複数のサーヴァントを従えるカルデアのマスターに向いていないことは確かなのだ。

だから、

「それに、うん、男なのに、女の子に全部任せるわけにいかないからさ」

いつも通り、そんな強がりを口にした。




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