鱗粉香
纏った香りで誘うのは、迷子の迷子のキミでした
「…君に似合わない匂いがするね。何かの香かい?」
『あ、こんにちは半兵衛さん。実はですね…えっと…』
「ん?」
『あー、名前が出てこない。えーっと、あの人…ゴリゴリした人…』
「…もしかして官兵衛くん?」
『そう、その人っ!!その人からもらったんです』
昼下がりの庭。着物をパタパタしていた私を訝しげに見ながら半兵衛さんがやってきた
昨日、ある男からもらった香。試しに焚いてみたのはいいけど薫き染め具合がどうも分からず、強い匂いを飛ばそうと庭に出ていたところだった
顔をしかめながら鼻と口を覆う半兵衛さん。この場を去らないのは聞きたいことがあるらしい
「官兵衛くんが女性に贈り物とは…君、いつの間に彼とそんな仲に?三成くんは知ってる?」
『仲というか、その人が間違えて壺を割っちゃう場面に出くわして口止め料的なやつです』
「ああ、ものすごく納得した。けどそれは僕に言っちゃダメなやつじゃないかい?」
『刑部さんに絶対に言うなって言われたんで、半兵衛さんなら多分セーフ。大丈夫かと思って』
「…彼も詰めが甘いが、君もずいぶん揚げ足をとるね」
まぁ、官兵衛くんには仕置きをするけど。そう呟いた半兵衛さんはようやく踵を返した
…が、その横顔を見て思わず引き止める
『半兵衛さんっ』
「何だい?」
『昨日、寝てないんですか?』
「っ……どうしてそれを…」
『すっごいクマ。顔が疲れてます、徹夜明けの浅井先輩ぐらい』
思わず口に出してしまうほど、彼の顔は疲れきっていた
私の言葉に少しだけ驚いた彼だけど、すぐにいつもの小馬鹿にした笑みを向けてくる
「そう…それで休めと言いたいのかな君は。僕が休むとでも?」
『いや、休めとは言わないですけど休んだ方がいいですよーっていう余計なお世話です』
「ああ、くだらない余計なお世話だ。一晩くらい何でもないよ」
『…それ三成くんが真似しちゃうから教育に悪いんだけどな小姑さん』
「何か言った?」
『何も。お身体お大事にーっ』
「…本当に嫌味な人間だね、君」
私は嫌味なんか言ったつもりないけど、半兵衛さんにとってはそうらしい
来た時よりツンとした様子で去っていく半兵衛さんを見送る。そして再びパタパタと着物を揺らした
『…忙しいんだな、半兵衛さん』
忙しくて焦ってて…それでいて、どこか余裕のない人だった
「っ……いや、そうなれば逆に…いいや、こうか…」
空がうっすらと明るくなる頃、部屋の火はゆらゆらと揺れて風に消えてしまいそうなのに、襖を閉める時間さえ惜しい
次の戦場の地図を広げ、その上に布陣となる石を置いていく。ここに敵が来たならばこうしよう、逆へ動いたならこうかな
浮かぶ策は尽きることなく、まるで木の枝のように分岐していく。だがまだ足りない。ほんの些細な抜けも許されないんだ
「確実に…勝つんだ。秀吉の天下までの道、滞るわけにはいかない…から…」
一歩でも一瞬でも先へ。彼に置いて行かれることは遠慮したいから
彼が頂点まで上り詰めたその時、僕はようやく足を止められるんだ
「この命が…消える前に…」
襖の隙間から吹き込んだ風が、一瞬で部屋の火を掻き消した
「っ……あれ…?」
次に目を開けた時、もう外は明るく雀の鳴き声が軽快に聞こえてくる
どうやら僕はそのまま寝てしまったらしい。短かった眠りと机に伏す体勢のせいか身体が少し痛かった
「はぁ…もう、行かないと…いや、秀吉との軍議までは時間がある。少し大谷くんに意見を…」
ぱさり、
「え……」
顔を洗おうと立ち上がったその時、僕の背中をするりと何かが撫でて落ちていく
畳を見ればそれは薄手の羽織りで…僕の肩にかけられていたらしい。策を考えながら寝落ちた僕にそんなことできるはずがない
「誰かがこの部屋に…ふふっ、僕も不用心だな。疲れていたとはいえ気配に気づかないなんて」
少し反省しないとね、そう自嘲しながら落ちた羽織りを手に取る
その時、ふわりと香ったソレに思わず動きを止めた
この香りは記憶にある。あの時は強すぎる匂いに顔をしかめたが、残り香となった今はどこか甘い。これは…
「ナキくんの…」
「こんな所で暇潰しかい、大谷くんには飽きられたのかな?」
『刑部さんは喧嘩を始めた三成くんを回収に行きました』
「それは…大変だね大谷くんも。じゃあ君はやっぱり今、一人なんだね」
『そりゃあ私、遊ぶ人なんて刑部さんか三成くんぐらいしかいな…』
「はい、これ」
『へ?』
「これ、君のだろう?返しに来たんだ。昨夜はどうも」
いつもの庭で一人、暇そうに空を見上げる彼女を見つけた
僕が声をかければ相変わらずの喧嘩腰。だが嫌味が出てくる前にその肩へ、今朝の羽織をかけてみる
すると彼女は少しだけ驚いた顔をして…すぐに、何故バレたと言いたげな表情をつくった
「昨日、君が庭で香りを飛ばしていたものだろう?記憶力には自信があるんだよ」
『記憶力以外も自信ありありなくせに…わざわざすみませんねっ』
「まったくだ。あれほど余計なお世話だと言ったのにわざわざ夜中、僕の様子を見にくるなんて」
『ぎくっ』
「休まない僕が寝落ちると予想し、せめて風邪はひかないようにと掛けたんだろう?余計なお世話と言われてたから何も言わず立ち去った」
『ぎくぎくっ』
「だが余所者である君の持ち物なんてたかが知れてる。別の着物を手配できず仕方なくこの羽織を…」
『あ゛ーっ、あ゛ーっ、分かりました分かりました私が浅はかでした。賢人様にはすべてお見通しでしたねっ』
「うん、分かればよろしい」
『ぐっ……!』
悔しそうに睨んでくるナキくんを見て、僕は我慢できずに吹き出してしまった
人を煽るのは得意なくせして、煽られるのは苦手らしい。僕に勝とうなんてまだまだ早いよ
「しかし部屋への侵入もいただけないね。僕が君に気づいていたら不審に思ってその場で斬っていたかも」
『斬られてたかもですね恐ろしや。我ながら今更後悔してます』
「あと、風邪はひかなかったが身体が痛くてね。せめて声をかけて布団で寝させて欲しかったよ」
『あれ、侵入に気づいてたら斬ってたんですよね?それ矛盾しません?そして身体が痛いのは知らないっす』
「あと一番重要なのが…」
『グチグチ小姑っ!!!』
「話は最後まで聞きなさい。この羽織、薫き染め直しといたから」
『………はい?』
間抜けな顔で固まった彼女に掛けてある羽織。それをふわりと揺らしてみせれば、昨日とは違う香が漂う
すん、と鼻を鳴らした彼女も気づいたらしい。そして不思議そうに見上げてきたから僕は…また笑った
「教えといてあげよう。女性が男の部屋に、別の男の香を纏ってくるのは失礼だ」
『え…と…?』
「僕が気に入ってる香だよ、欲しかったら準備するから言ってきなさい」
じゃあね、と羽織から手を離し立ち去る僕を彼女は黙って見送った
少し長居をしてしまったね。この後は直接、秀吉の所へ行こうかな
「……ふふっ」
『…半兵衛さんが、私のこと…女性って言った』
ふわりとした銀髪を見送って、肩に乗った着物に手を伸ばす
香ったのは先日…半兵衛さんからした匂い。香なんか詳しくないから、落ち着くとか良い匂いだとかそんな判別しかつかない
だけど…
『…花の、匂いがする』
20150401.