小説 | ナノ



「みょうじさん、お疲れ様。もう上がっていいよ」
「ありがとうございます。それじゃあ、お先に失礼します」
「うん。気を付けて帰ってね」

閉店後の掃除が終わり、ゴミ出しから戻ったところで店長に声をかけられた。
レジ締めが終わっても店長はもう少しやることがあるらしく、私はいつも通り一人で休憩室に戻り、ロッカーの前で手早く身支度を整える。

(――あ、そう言えば明日はお休みだ……)

貼りつけたシフト表を確認して、ふと“彼”の――影山君の顔が頭を過った。
明日は、彼のために他店舗から取り寄せた本がこちらに届く日だ。

(『すぐ行く』って言ってたし、次の出勤は明後日だから……)

「……――やっぱり、会えないだろうなぁ」

どこかほっとしたような……残念なような。
一人きりの休憩室で零れた声は妙に寂しげに響いて、なんだか途端に居た堪れない気分になる。

(……いやいや、別に私は、)

私は、言い繕っているわけでなく本当に――いや、彼を盗み見ることを日課にしていた時点で疑惑の目を免れることはできないのかもしれないけど――本当に私には、彼とその……あわよくば親密な関係になりたいとか、どうこうなろうだなんて下心はない。断じてない。

(そりゃあ、影山君は年下だけどふ、普通にカッコいい男の子だとは思うし?じっと見つめられると落ち着かなくなったりもするけど……でもそれは、私だって年頃の女子なんだから当たり前な反応であって……!)

だってもともと、あの日彼が声をかけてこなければただ密かに眺めるだけの対象だったのだ。
断言できる。私から彼に声をかけるなんてことは、絶対に起こらなかった。それだけは言い切れる。
――私にとっての彼は、決して手の届かない彼岸に揺れる、“眩しいもの”だったのだから。

(だから、会えないのが残念なんじゃなくて……そう!喜ぶ顔を見れないのが、残念なだけ!)

果たしてそこに大差があるのか――なんてことは、この際考えないことにする。
とにかくこれ以上考え込めばドツボにはまってしまいそうで、余計な思考を断ち切るようにロッカーを締め、荷物を持って足早に裏口へ向かった。

「………あー」

外に繋がるドアを開けて、ついため息が出る。
扉の向こうに遮られていた雨音が一気にクリアになって、見上げた真っ暗な空から降り注ぐ長い雨粒がアスファルトの地面に黒い水たまりを作っていた。
店が終わるころには降り止んでたらいいな、なんて期待してたけど、笑顔が可愛いお天気お姉さんの予報に嘘はなかったようだ。

(まぁ、風もないし、土砂降りじゃなかっただけマシかぁ……)

長靴履いてきてよかった。そう思いながら傘を開き、水たまりの中へ一歩踏み出す。
パシャパシャと雨水を跳ねさせながら、今日は店の横の自転車置き場を素通り。愛車はお留守番だ。
さて、ここは大人しく電車で帰ろうか――だけど駅に行くにも5分はかかるし、電車の待ち時間もある。それに最寄駅で降りたってマンションまでは結局10分くらい歩かなきゃいけない。

(歩きでも30分はかかんないから、時間的にはどっこいどっこいかな)

だったら電車代勿体ない気もするし、このまま歩いて帰るか――と、腕時計を確認してふと視線を上げた時だった。


「――……影山、君?」


昨日と同じ、自販機の横。
ビニール傘を持って一人佇んでいる彼が、いた。

「……こんばんは」
「っこ、こんばんは!え、あれ……っご、ごめんねお店もう閉まっちゃってて……!」

私の姿を確認して軽く駆け寄ってくる彼に慌てふためき、暗くなった店と彼を意味もなく交互に見やる。
なるべく早く取りに来る、みたいなことは言ってたけど、まさかもう来ちゃったのか!

(私、本が届くのは明日になるって言わなかったっけ!?)

「あのっ、注文してた本ならまだ、」
「あ、いや。そうじゃないです」
「……――へ?」

私の言葉が終わる前にあっけらかんと言って軽く首を振る。
間近に来た彼のその顔をぽかんとして見上げた私に、影山君はまたしても事もなげに言った。


「今日、雨なんで。チャリじゃ帰れないですよね」


「………………、え?」

――これは、えっと。
わ、私の思い上がりでなければつまり……今日は雨が降っているから、私が自転車で帰れないだろうと思って来てくれた、と。そういう風に聞こえたんだけど、聞き間違いだろうか。

(……いや、まさか。そんな)

いくら親切な子だからって、さすがにそこまで、

「――じゃあ、行きましょうか」
「ッ、!?っ、ま……影山君!?」
「はい?」

どうやらその『まさか』だったらしい。
先導するように雨の中を私のマンションの方角へ向かって歩き出した彼に、待ったをかける。
と、立ち止まってこちらを振り向く彼はやっぱりきょとんとしていて、不覚にもその表情に胸が鳴った。

「〜〜〜っ、あのね、影山君。最初に確認したいんだけど……今日君がここに来たのは、私を部屋まで送ってくれようと思ったから……だったり、する?」
「はい、そうですけど」
「(『そうですけど』ときた!!)えぇと……昨日も言ったけどね、そんな気を使ってもらわなくても、本当に大丈夫だから……!部屋までそんなに遠くないし、それにいつもは一人で帰ってるんだし」
「でも、いつもはチャリですよね」
「雨の日はあの……っ、電車、使ってるから!だから平気!」
「……別にそれでもいいっすケド、電車使ったって駅から結構歩くんじゃないすか」

心なしか影山君の機嫌が悪くなってきた。
眉を顰めて唇を引き結ぶ彼に、蛇に睨まれたカエルのような気分になる。
『ここはもう、黙って彼の好意に甘えるべきではないか』
発せられる威圧感に早々に屈した事なかれ主義な本能が震えながら白旗を上げようとしていた。
――けれど、昨日は彼にも『ランニングのついで』という言い分があったじゃないか。
それがない今、この好意を手放しで受け取ってしまうことなんて到底できない。

……だってそれをすれば、彼はなんだかんだと理由をつけて毎日私を送りに来てしまう。
我ながら自意識過剰だとは思う。でもきっと、彼ならそうするだろうと妙な確信があった。

「………影山君、私、頼りなく見えるかもしれないけど、影山君より年上だよ」
「それは――知って、ます」
「うん。だからね、心配してくれるのは本当に嬉しいんだけど、そんなに気を使ってくれなくても大丈夫――……それに、影山君は『親切にしてもらったから』って思ってくれてるのかもしれないけど、そうしてくれたのは影山君が先だったし……そもそも“店員”が“お客様”に親切にするのは当然だから。だってそれがお仕事なんだし」
「………」

突き放した言い方をしている自覚はあった。と言うか、わざとそんな言葉を選んだ。
例えばこれで彼に嫌われたとしても構わないと思う。この偶然手にしてしまった繋がりが断たれても、ただ数日前までの、元の関係に戻るだけ。

真っ直ぐ前だけを見つめて走り続ける眩しい彼を、私は遠くから眺める。
そのあり方こそがきっと、正しいのだ。

そう自己完結して、斜め下へ逃がしていた視線を彼へ戻す。
見上げた彼はやっぱり眉を吊り上げて――拗ねたように、唇を尖らせて言った。


「――迷惑ですか」


「、っえ」
「迷惑ですか、俺」
「えっ?い、いや迷惑とかじゃ、ない!……けど!」

『じゃあなんだ』と言わんばかりのギロリとした目に真正面から捉えられる。
直球過ぎる物言いと、むくれた幼児のように剥きだしの怒りの表情に、取り繕う言葉は許されない――それなのに。着実に自分のペースが乱されているのを感じながらも私は、そんな彼を『可愛い』と思わずにはいられなかった。

「っ……あの、ね?本当に、迷惑だなんて思ってないよ。だけど……私には、影山君にそこまでしてもらう理由がないの」

落ち着け、と自分に言い聞かせ、一度ゆっくり息を吐いてから、きちんと影山君に向かい合う。
これでわかってもらえただろうか。そんな期待を込めて窺った眼差しの奥は濁り一つなく澄んでいて、パチリと瞬いたそれは――いっそ清々しいほど、理解を示していなかった。

「……迷惑じゃないのに、理由がいるんですか?」

言った後、影山君は怪訝そうな顔をして軽く首を傾げた。

そんな反応に正直がっくりしてしまう――けど、確かに彼の言い分もわかる。
一般的に考えて、夜間の女性の一人歩きはあまり薦められるものではない。私だって全然恐くないかと訊かれれば迷わず首を振るだろう。
ならば、家まで送ってやろうと言ってくれる相手がいて、それを迷惑だと感じていないのなら、まさしく渡りに船。素直に甘えてしまえば良いのだ。だってこちらに不利益などないのだから。
影山君はきっと、そこに納得ができないのだろう。

(だけど、私にだって彼の好意を受け取れない理由があるわけで……!)


「――『俺がそうしたいから』じゃ、ダメですか」


「!!っ、え……なに、理由…が?」
「はい。つーか、それ以外に言いようがないんすけど」
「ぅ、え……っ?」

「それじゃ、ダメですか」

――この子は、“危険”だ。
心臓がこんなに、破裂しそうなほど警鐘を鳴らしてる。

その、私を一瞬で惹きつけた眼差しで、直に私を捕えないでほしい。
たったそれだけで頭の中が真っ白になって、呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうになる。
はかりごとも、ひと欠片の打算も含まない言葉でさえ、私の中では有毒になりえてしまう。
どんな劇薬よりも急激に、確実に全身を駆け巡って、抗いがたい熱でもって思考を奪う。

そしてその熱は頬にまで浸食の手を伸ばし、私に残された手立てと言えば、傘を傾けて俯くことで彼にそれを気取られないよう努めるだけだった。

「………みょうじさん?」
「ッ……い や。その、」
「ダメっすか」
「(直球やめて!!!)〜〜〜っ、ダメじゃ、ない!けど……っ」
「――また『けど』?」

ビクリ、背筋が跳ねる。影山君の声色が、明らかに変わった。
トーンがひとつ、低くなって。怒っているような――苛立っている、ような。

「『けど』、なんなんすか。結局俺がイヤなんですか」
「!!?嫌じゃ、なっ」


「イヤじゃないなら、うだうだ言いわけすんのやめてください」


『行きますよ』と、今度こそ彼は大股に歩きだす。
少し冷えた大きな手で、逃げ遅れた私の掌をしっかり捕まえて。

「――!!!か げっ、影山、君!?」

急にぐんと引っ張られて、私の傘からボタボタと零れた雨粒が影山君のジャージの袖口を濡らす。
それでも彼は、私の手を強く握りしめたまま離そうとしない。

彼の背中が数日前よりも――昨日よりも、もっと、もっと近い。
傘の縁から見え隠れする影山君の耳の端が、ほんのり赤くなっているのまで、わかってしまう距離。

そうなればもう、私に破顔以外の選択肢なんて残っていないわけで。
強張っていた身体の力を抜いて彼の手を柔く握り返せば、足取りは少し、緩やかになった。

「……――ありがと、ね。影山君」
「………うす」
「でもね、念のため言っておくけど毎日来てくれなくても良いからね?バイト休みの日だってあるし」
「じゃあシフト教えてください」
「……いや。でも急に休みになる時もあるし、」
「だったら後で連絡先も」
「……………ハイ」

本当に困った後輩君だ。
仮にも年上の言うこと聞かないし、強引で、結局自分の意見を押し通しちゃうし。
……それなのに妙に、可愛げがあるし。

(――だけど一番問題なのは、)

どこかでそれを心地良いと感じてしまっている、私自身なのかもしれない。




(14.10.12)

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