小説 | ナノ



影山君に手を引かれるまま駅を通り過ぎた時、敢えて何も言わなかった。
歩いて帰ったって時間的にはほとんど変わりないし、私に付きあってくれている彼に電車代を使わせるのが忍びなかったというのもある。
……だけど、本音を言うと私は、人通りの少ない雨の夜道を彼と二人で歩く――そんな時間が少しでも長く続けばいいと、そんなことを考えていたのだ。

「――……ところで影山君」
「?はい、なんすか」
「そろそろ手を離しませんか?」

影山君の頭に私の言葉が到達するまで、2歩分ほどの時間を要した。
その後、徐に立ち止まって振り向いた彼の視線が、ゆっくりと自分の腕を辿る。
真っ黒なジャージは傘の切れ目にさしかかる袖口の部分がびしょ濡れで、その先の掌は、未だにしっかりと私の手を握りこんだまま。
その事実を目の当たりにすると、今更ながら短く息を飲んだ彼が目を見開いて私の手を離した。

「すっ……んま、せん!俺!!」
「ううん。大丈夫だから気にしないで」

気持ちはわかる。気持ちはわかるけど、過剰に照れるのはやめてほしい。お互いのために。
そんな、真っ赤になって慌てられると妙な勘違いしてしまいそうでいけない。……いや、大丈夫。ちゃんとわかってる。その場の勢いに流されただけだ。影山君も、私も。

「――あ、そうだ。これ使って!」

どうにかこの気まずい空気を払拭したくて、『気にしてませんよ』アピールをするかのように殊更に明るい調子で話題の変更を試みる。
肩にかけていた鞄の中身を片手で探って、取り出したそれを影山君に差し出した。

「……それ、この前の」
「うん。影山君が拾ってくれたやつ」

彼が見つけてくれた、あのピンク色のハンカチ。
今日持って来たのは本当に偶然だった。けど、こうなるとどこか必然性のようなものさえ感じてしまう。
影山君も同じなのか、瞠目したまま動かない彼にもう一度ハンカチを差し出して促した。

「袖、濡れちゃって冷たいでしょ?」
「ッ、いや――でも」
「ちゃんと洗ってあるから綺麗だよ」
「そうじゃなくて……!これくらい別に、」
「いいから!ちょっとくらいは年上の言うこと聞きなさい」
「………」

ね?と、念を押すように微笑みかけ、わざと年上を強調して先輩風を吹かせてみた。
そうすると、ぐっと言葉を飲み込んだ影山君がしぶしぶながらもハンカチを受け取ってくれる。
なるほど、運動部と言えば年功序列の上下関係。『年上』であることを前面に出せば、影山君も大人しく私の言い分を聞き入れてくれるようだ。

「――今度、洗って返します」
「えっ!い、いいよそこまでしてくれなくても……!」
「ダメです。“今度”、返しに行きます」

……前言撤回。
影山君はやっぱり私の言葉なんかには耳を貸さず、ふいと視線を逸らすと袖を拭いたハンカチをポケットの中に隠してしまった。
そしてそのまま踵を返し、いつの間にか少し柔らかくなった雨の中をまた歩き出す。
ハッとしてその背中を追いかけると、小走りになった私に合わせて何気なく歩調を緩めてくれたのがわかってしまって――……この子のこういうところがずるいと、思った。

「……そんなハンカチ持って帰ったら、お家の人に勘繰られるよ」
「……クラスの女子――あー……いや。マネージャーに借りたって言います」
「え、マネージャーいるの?すごいねバレー部。人数多いの?」
「12人なんでそんなに多くは……むしろ中学の時の方が多かったくらいで」

バレーは確か、一度にコートに入れるのは6人だったっけ。
体育の授業でやることがあったけど、あまり詳しいルールだとかは覚えていない。ほとんどお遊びの、レクレーション感覚だったし。
……だけど、12人と聞くとさすがにちょっと少ないんじゃないかとは思う。
私が烏野にいた時は“小さな巨人”のいた全盛期だったからか、もっと部員数が多かった気がする。

「……バレーはいつから?」
「小2からです」
「小2!?早っ……!え、その時からずっと!?」
「はい。バレー、好きなんで」

答えた横顔は、どこか誇らしげだった。

(本当に、好きなんだ……)

予想以上、だった。
『好きなんだろうなー』とは思っていたけど、多分、彼のそれは、そんなレベルじゃない。
夢中なんだ。この子は。
もうずっと前から、夢中になれるものを見つけているんだ。

「バレーでは、絶対負けたくありません。相手が誰であっても」
「――………じゃあ、目標は世界……?」
「当然です」


「俺は、世界一のセッターになります」


『世界一』という言葉を、軽口や冗談以外で使う人を目の当たりにしたのは初めてだった。

(――眩 しい)

眩しい。いつも遠目に見ていた、彼の輝き。
それが今、目の前にあって――浮かび上がる自分の影が、濃く、深くなる。
浮き彫りにされる。
自分の中の、どうしようもない空虚感が。
その時々の状況に流されるまま、いたずらに過ごしてきた時間が。
彼と私の絶対的な――絶望的な差となって、突きつけてくる。

この子は、私のような人間には手の届かない存在なのだ、と。

「――そ、っか……うん。なれるよ」
「、みょうじさん……?」
「なれるよ。影山君ならきっと、一番になれる――……なって、ほしい」

この子には、その力がある。
ひたむきに頑張ることのできる才能がある。
挫折を恐れずどんな時でも全力でぶつかって、何度でも立ち上がる強さがある。

彼の眩さはきっとそこから来ているのだろうと、不思議な確信があった。


「ッ――応援、してるよ!」


ぎりぎり、笑顔と呼べるかたちにはなっていたと思う。
だけどそれがいつまで保てるかはわからなくて、訝しげにこちらを見ている視線に気づかないフリで一息に彼を追い越し、足早に歩いた。
ついさっきまでは少しでも長くこの時間が続くようにと願っていたのに、今はただ、早く部屋についてほしいという気持ちだけが先走っている。
片足がまともに水たまりの中へ突っ込んで、跳ね上がった水がお気に入りのスカートの裾を濡らしても構わずに歩き続けた。

(――わかってた、はず…だったのになぁ)

こうなることがわかっていたから、ただ眺めるだけでいようと。
彼と関わることを避けようとしていたはず、なのに。

彼が、あまりにも簡単に境界線を越えてしまったから。
手を伸ばしてくるから。
わかっていたはずなのに、いつの間にか甘受して、目を背けてしまっていた。

(………もし、私にも誰かに語れる“夢”があったら、)

彼の胸に宿る情熱の、ほんのひとかけらでも私の内にあったなら。
――そうすれば今、俯いて逃げたりせず、胸を張って彼の隣を歩くことができたのだろうか、なんて。

どうにもならないことを、どうにもならないとわかっていながら、願ってしまった。


(14.10.14)

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