「影山飛雄です」 「(『トビオ』……?)えっと、漢字は……」 「影山は普通に。飛雄は『飛ぶ』に『雄』で」
変わった名前だ。 そう思いながら伝票に名前を書きこんで、複写になっている一枚を彼に渡す。
「明後日には届くと思います。2週間取り置きできるので、またご都合の良い時にお立ち寄りください」
言い終わるのとほぼ同時に、閉店10分前を知らせる音楽がかかった。 受け取った伝票をじっと見ていた彼がその音にふと顔を上げ、バチリと視線がぶつかった。 明らかに何か言いたげな眼差しに密かにたじろぎながら首を傾げて促せば、チラリと横目に店の外を見やった彼が口を開く。
「――この店、結構遅くまでやってますよね」 「え?あ、はい。そう…ですね……?」
確かに、こぢんまりした昔ながらの本屋にしては遅くまで営業していると思う。 とは言っても駅前の大手チェーン店なんかはもう少し遅くまでやってるし、町中に出れば日付が変わっても営業している店舗だってあるらしい。
「……いつもこの時間まで残ってるんですか」 「まぁ、出勤の日は、一応閉店まで……」 「………」
なにやら無言で恐い顔をされた。 身長差の関係で俯き気味に私を見下ろす彼の目元には薄い影が落ちて、その奥にある眼光だけが浮かび上がって見える。……そう、例えるなら暗闇の中で不穏に光る猫の目のような。
(なに?何が気に入らなかった?さっきはあんなに嬉しそうだったのに、どこでへそを曲げた!)
剥がれ落ちそうな営業スマイルの裏で懸命に思考を巡らせ、心の中でSOSを叫ぶ。 ――と、長らく沈黙していた彼が、やっと声を発した。
「自分が送ります」
「………――へ?」 「家まで送ります。店の前の自販機のとこにいるんで、声かけてください」 「、な…え……?」 「それじゃ、待ってるんで」 「!?ッ――ちょっ、ま、待って!!」
言うだけ言って徐に踵を返した彼を、咄嗟にカウンターの外へ身を乗り出して呼び止める。 そんな風に慌てる私に対し、肩越しに振り向いた彼はきょとんと不思議そうな顔で頭上に疑問符を浮かべているように見えた。
「だっ、大丈夫です!そんな気を使ってもらわなくても!!」 「や。でももう外暗いんで。一人じゃ危ないです」 「いえいえ!私自転車あるんで!!15分くらいだし!」 「俺も同じ方向なんで、ランニングのついでに送ります」
続く言葉が見つからず、うぐ、と言葉を飲み込む。 その一瞬の沈黙が勝負の分かれ目だった。 自らの勝利を確信したように一拍置いて小さく会釈した彼が、今度こそ自動ドアを抜けて真っ暗なお店の外に出ていってしまう。 その背中を再び呼び止める術を、私は持ち合わせてはいなかった。
* * *
「――あ。オツカレサマです」 「………ドウモ」
(ほんとに待ってた……)
自販機の横で夜空をぼんやり見上げていた彼が、自転車を押す私の足音に気付いて小走りに駆け寄ってくる。どんな顔でそれを迎えれば良いのかわからず、きっと私は変な顔をしていたと思う。 けれど彼はそんなことには興味がないのか、私がサドルに跨ったのを横目に確認すると、ヘッドライトの先を迷いなく走り出した。
(……やっぱり、軽やかだなぁ)
背が高いのもあるだろうけど、普段から相当走り込んでるのか、かなりの早さで走っているのに一向に息が乱れない。気を抜けば自転車の私が置いていかれそうな程。 彼がこちらを振り向くことも、声をかけてくることもなく、私もただ、黙ってペダルを漕ぐだけ。 だけど、いつも密かに見送っていた背中が今は目の前にある――それだけでなんだか、とても不思議な気持ちだった。
(あ――赤に、なる)
数メートル前の交差点で青信号が点滅し、彼がふっとスピードを緩めた。 無理に渡るつもりはないらしく、横断歩道の手前で立ち止まった彼に数秒遅れて私も追いつく。 ペダルから片足を降ろし、見上げた信号が丁度赤になる。ここの赤は、ちょっと長い。 そうなると、いよいよ訪れた沈黙に耐えられなくなったのは私の方だった。
「えっ…と………『影山』、君?」 「!はい」 「そのジャージ着てるってことは、烏野のバレー部なんだよね?ポジションとか決まってるの?」 「はい。セッターやってます」
『飛雄』なのにスパイカーじゃないんだ――と思ったのは、口にしないことにした。 セッターだと答えた彼の目が、心なしかイキイキしているように見えたから。
「練習、いつもこんな遅くまであるの?」 「いや……今日は練習終わって一回家帰ってるんで。そんでランニングのついでに買い損ねた雑誌買おうと思ったらもうどこにもなくて、それで……」
ああ、なるほど。だから鞄がないわけか。 それにしても、朝だけじゃなくて夜もランニングしてるなんて……それも練習終わりに。
(本気、なんだなぁ……)
「――……みょうじさんは、」 「ッ、え!?」 「大学生、ですか」 「ぁ――あ、うん、そう!今2年生!」
急に名前を呼ばれて、思わず声が上ずってしまった。 何で知っているのかとパニックになりかけたけど、考えてみればさっきまで着ていたお店のエプロンに名札がついていたし、彼に渡した伝票にも私の名前が書いてある。 ――それでも、それを彼が覚えていたことに、やっぱり少し驚かされた。
(これは……マズイぞ)
信号がようやく青に変わり、雑談を切り上げて走り出した彼の後を追いかける。 その後姿を見つめる私の顔はきっと、傍から見ればひどく苦々しいものだっただろう。
……だって。こんな風にこの子が私の顔と名前を認識してしまったとあっては、もう早朝のランニング姿を見ることが難しくなってしまう。万が一気付かれでもしたらバツの悪さは相当だ。 きっと、彼だってさすがに気味が悪いと思うだろう。もしもそうなったらランニングのコース変更だってあるかもしれない。
「………」
想像すると、途端に胸が苦しい。 私が彼の背中を見守ることができるのは、これが最後になるのかもしれない。
「――ッ……?」 「部屋、このマンションですよね?」
目の前を走っていた彼が急に止まって、慌ててブレーキをかけた私を振り返る。 これが最後かと思うと、つい噛みしめるように彼を見ることに集中してしまっていたようで、彼が止まってくれなかったら危うく通り過ぎてしまうところだった。
「ぁっ…――あり、がとう!あの、わざわざ送ってくれて……!」 「いえ。こっちこそ親切にしてもらったんで。ありがとうございました」 「いえいえ全然!……あっ、お店では2週間って言ったけど、ほんとは一ヶ月くらいは保管しておけるから、何か用事があるときに来てくれればだいじょう、」 「またすぐ行きます」
言い終わる前に、被せるように言い切られた。 その目は相変わらず、真っ直ぐに私を捉えていて無駄にドキリとしてしまう。 街灯の下では徐々に熱を持っていく顔を隠すこともできなくて、私はそそくさと自転車を降りて駐輪場に逃げ込んだ。
「――そ、そっか!うん、早く読みたいもんね!見つかってほんとに良かった!」 「……うす」 「じゃあ、ここで。影山君も、気を付けて帰ってね」 「はい」
2階の部屋に繋がる階段に足をかけ、街灯の元の彼に小さく手を振る。 そうすると、彼はまたひとつお辞儀をして、だけどそこから立ち去る気配はない。 どうやら一丁前に、私が部屋に入るまで見ててくれるつもり、らしい。
(ほんとに親切な子だなぁ……)
………――誰にでも、こうなのだろうか。
一瞬、胸の奥を過ったもやもやした感情。 ハッと我に返ってそれを振り払い、急いで鍵を開けて部屋の中に入る。 そうすると、ドアの向こうで彼が走り去っていく足音が微かに聞こえて――私は背中をドアに預けたまま、深くため息をついた。
(……これは本当に、マズいことになった…かも)
とくん、とくん。掌で押さえた胸が、今もまだ高鳴っている。 その息苦しさは、いつも彼を見送る時に感じていたそれとは少し違っているようで。
(――あ、れ?でも、そう言えば、)
どうして彼は、私のマンションを知っていたのだろう?
(14.10.04)
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