小説 | ナノ




「――2科目赤点……?」
「………」
「数学と、現文……」

中間テストを終えた翌週。そろそろ全てのテストが返却された頃だろうと催促すれば、ギクリとわかりやすく肩を跳ねさせた影山君から絞り出すように告げられたのはそんな結果だった。

相変わらず人気のない、静かな夜道。影山君はむっつりと口を噤み、ポツポツと灯った街灯に照らされた道の先を厳しい顔で睨んでいる。
あの日以来、率先して私の自転車を押してくれるようになった彼の横顔へ無遠慮な視線を注ぎ続けると、やがてぐっと表情を詰まらせた影山の足取りが止まった。

「………スミマセンでした」
「あ。いやいや別に……怒ってるわけじゃないから」

少し苛めすぎただろうか。
困ってる影山君が可愛いからちょっとからかいたくなっただけであって、本当に怒ってるわけではない。
むしろ全科目赤点もありえたあの惨状からたった2科目――しかも、どちらも割と惜しいところまでいったのだから、褒めても良いレベルだと思う。……まぁ、その辺りは彼のためにも今回は黙っておくけれど。

とにかく、深く下げた頭をなかなか上げてくれない影山君の腕を軽く叩いて「顔を上げて」と促せば、恐る恐る視線だけでこちらを窺ってくる。
その仕草が、普段の(表情だけは)キリッとしてる彼にしては珍しく思えて……そんな彼が、私にとってはやっぱり、どうしようもなく可愛くて。嗜虐心と言うか、ささやかな悪戯心が刺激されてしまった。

「――……ただ、」
「?た、『ただ』……?」

意味深長に途切れさせた私の言葉を、影山君がまんまと神妙に繰り返す。
ごくりと息を飲んだ音に笑い出してしまいそうになったのをギリギリ堪え、これ見よがしに大きなため息をついてみせた。


「約束してた卒アル。せっかく用意しといたのに出番なかったなぁ……って」


「!!!」

バッと音がする程勢いよく顔を上げた影山君が、目を見開いて声を失う。
素直すぎる反応に、今度こそ口の端が緩んでしまうのを我慢できなくて顔を逸らし、震えそうな肩を誤魔化して早足気味に歩きだすと、遅れてついてきた影山君が必死に追いすがる姿勢を見せた。

「どっ…どっちも!ギリの赤点です……!」
「うん。でも、『全教科赤点なしだったら』って約束だったよね?」
「っそ〜〜〜ッ、でも……!」
「言い訳は聞きません」
「〜〜〜!!」

少しだけ、気分が良い。
普段は私が影山君に振り回されてばかりな気がするから、偶にはこういうのも良いんじゃないだろうか。
腰の後ろで手を組んで、いつもより軽い足取りは今にもスキップしそうなほど浮かれている。
そして上機嫌なまま肩越しに影山君を振り向く――と、予想以上に恨めし気な眼差しが、じっとりと絡みついてきた。あ、イヤな予感。


「――その2科目、どっちもみょうじさんにフラれた次の日に受けたヤツです」


「 え゛、」

形勢逆転。
冷や汗をかいて固まるのは、今度は私の番だった。

「……あの日俺、全然眠れなくて。教えてもらった公式とかも全部真っ白になって。試験中もみょうじさんのことで頭いっぱいで、全然集中できなくて」
「ぅ、あ…の……そ、それは……っ」
「みょうじさんがはじめから俺のこと拒否しなかったら、もっと良い点取れてました。……多分」

隣に追いついた影山君が私の顔を覗き込む。その視線がすごく痛い。
まさかこんな反撃を食らうとは思いもしなかった。それに、この話題では分が悪すぎる。
影山君のペースに持っていかれる前に、早急に話題を変えなければ。

「そ――れは、確かに私も悪かった、と、思う……!けど、それとこれとは話が別って言うか……!」
「――わかってます。今のは八つ当たりです。………でも、少しでも悪いと思ってるなら、代わりにひとつだけ、俺の“お願い”聞いてくれませんか」
「“お願い”……?」

見上げれば星空の中、いつになく真剣な面持ちの影山君がそこにいた。

「明日から、インターハイ予選が始まります」

(――ああ、そうだ)

今日から6月。
中間テストが終わって、だけど影山君にとってはこれからが“本番”。
戦いに臨む前の彼の目は深く澄んで――その奥は、静かに燃えている。
私の胸に火を燈したその輝きに惹きつけられ、気付けば息をするのも忘れて魅入っていた。


「……だから、明日の朝。また前みたいに、ベランダで俺のこと見ててください」


「う、――…………えっ?」

私を見つめる眼差しに胸の奥がジンと痺れて、高鳴った鼓動の促すまま『うん』と頷きかけた。
だけど何かが引っかかる。

(ちょっと、待って……あれ?今、影山君……『前みたいに』、って………)

――それは……それは、つまり、

「!!!かっ……え!?気づい、て……!!?」
「あ、はい。俺、セッターなんで。視野は広いです」
「だっ…!そ、な…そぶり全然……!!」
「俺が気づいてるのわかったら、何となくもうベランダに出てくれなくなるような気がしたから」

ほぼ言葉になっていない私の言いたいことを的確に拾い、影山君がしれっとそんなことを言う。
もう信じられなくて。今更だとは思うけど本当に恥ずかしくて。熱の集まった顔を必死に腕で隠して影山君に背を向けると、自転車のスタンドを立てた影山君に控えめに手を握られた。

「あの時からずっと、みょうじさんのこと気になってました――だから、思い切って声かけた次の日から全然ベランダに出てくれなくなって、結構ヘコみました」
「ぅ゛……だ、って……!変な人だと、思われたくなくて……!」
「思いません。つか、毎日見てくれてるの、嬉しかったです。アンタが見てくれてるから、いつもよりも調子良いって言うか……やる気が出て」

影山君の手に、ぎゅっと力が込められる。
その掌が熱いのは、私のせいなのか、彼のせいなのか。
一度深呼吸して心臓を落ち着け、勇気を出して振り向けば、影山君の目が答えを待ちわびている。
その乞うような期待の眼差しに、応えないなんて選択肢があるはずなかった。

「っ〜〜〜わ、かった。明日からまた、ベランダで影山君のこと見てる」
「!!マジですか!」
「マジです。マジだから……だ、だから、ね」


「――……がんばっ、て」


「!」

繋いだままの影山君の手を思い切り引っ張って、バランスを崩してこちらに身を乗り出した彼の頬に、精一杯背伸びして素早く唇を押しつける。
……これくらいならきっと、許されるはず。一応まだ私も影山君と同じ未成年だし。外国では挨拶みたいなものだって言うし(ここは日本だけど)それに今のは、どっちかと言うと影山君への仕返し的な意味合いのアレだから!

恥ずかしさを誤魔化すためにそんなことをつらつらと考えていると、影山君はなぜか片手で目元を覆いながら小さく震えていた。

「……え、影山君……?」
「……いや。その……なんか今、先輩たちの気持ちがすげーわかりました……」
「?」



* * *



ベランダで吸いこんだ朝の空気はいつの間にか尖ったような冷たさをなくし、風はやがて訪れる夏の気配を乗せ瑞々しい香りを含んでいた。

どこかで早起きな小鳥が鳴く声を聴きながら手摺の上で腕を組み、目を閉じて耳を澄ませる。
とくんとくんと昂揚する心音を数えていると、その向こうから待ち望んだ足音が近づいてきた。

(――あぁ、やっぱり。輝いてる)

朝の空気を裂くように、黒い髪が短く跳ねる。
ランニングシューズの靴底が一定のリズムで地面を蹴る音。
他人の目には見えない“何か”を、けれど確かに、一直線に追いかける吊り上った瞳は迷いなんてなくて、
目の前を通り過ぎる刹那に閃くその輝きは、まだ雲の向こう側で眠る太陽よりももっと――もっと眩しい。

いつもは目を細めて見送るだけだったその瞳が、だけど今日はしっかりと、確かに私を捉えた。


「 がんばれ 」


『きっと届きはしない』なんて、今はもう思わない。
まだ眠り続ける世界を壊さないための最低限の小さな声でも、影山君にだけはきっと届いていた。
――だって、力強く頷いてまた前を向き直したその口元が、少しだけ笑っていたから。
だから私も、破顔するのを抑えることなんてできなかった。

「――がんばれ、影山君」

駆け抜けていく彼の輝きはまるで光跡のように、いつまでも煌いて。
流星のような彼に与えられた胸の種火が、朝日の中で疼きだす。
いつか彼に負けないくらいに燃え盛る、そんな日を夢見て。

(……私も、負けてられないな)

目指すべき場所はまだ見つからなくとも、あの光跡を道標に。今はただ、一日一日を駆け抜ける。
どんどん小さくなっていく背中が見えなくなるまで見送って、朝焼けに染まる空へ向かい、背筋をうんと伸ばして背伸びした。



(15.02.08)

おまけ