「――……みょうじさん」
耳元でじわりと溶けた影山君の声が、熱い。 胸の奥がぞくぞくして、身体の先端が痺れたように細かく震える。
少しだけ、こわい。 まるで、都合の良い夢の中にいるみたいで。 全身が心臓になったかのように鼓動の音が響いていて、頭はどこか、ぼんやりしていた。
「みょうじさん……もう一回、」 「う、ん……?」 「もう一回、言ってください。俺のこと、『好き』って」
すり、と私の髪に頬を寄せながら言った影山君に、息が苦しくなるくらいときめいてしまった。 言わされるまでもなく、彼を恋しいと――愛しいと思う気持ちが溢れて身体中に沁み渡っていく。 今の私は影山君でいっぱいだった。 影山君以外の何かを考える余裕なんてない。影山君以外は、いらない。
「――す き、だよ」 「っ〜〜〜!!もう、一回!」
照れくさくて小声になってしまったけど、こんな距離で届かないはずもなく。 感極まったように言葉を詰まらせ、一層強く私を抱きしめた影山君の更なるアンコールに苦笑いが零れた。影山君は案外、甘えるのが上手だ。 こんなにも素直に喜ばれ、期待されてしまったら、応えないわけにはいかない。
「……好き。影山君のこと、他の誰とも比べられないくらい、好き」
大げさに言ってるんじゃなくて、本当に。 本当に、嘘みたいに影山君が好き。大好き。 自分がこんなにも誰かのことを愛おしく感じる日が来るなんて思いもしなかった。だけど蓋を開ければ――自分を押し留めていた枷を一度外してしまえばもう、抑えることなんてできなくて。 こんな気持ちを知った今では、これまで自分がどうして影山君なしに生きてこられたのか不思議なくらい。 そのくらい、影山君のことが好きだ。
「みょうじ、さん……っ」
言葉では到底追いつかない気持ちさえ、ひとつも漏らさず彼に伝えたい。 いっそこのまま、解けて彼の一部になれたらいいのに。 そんな衝動に突き動かされるまま、影山君の逞しい背中をぎゅっと掻き抱き、彼の胸に頬を押しつける――と、ドクンと強く脈打つ鼓動が聞こえて。 気付けば私は、フローリングの床に尻もちをついていた。
「ッ、な 」 「みょうじさん、俺も……俺も、好きです。すげぇ、好き……」
半分後ろに倒れかかってる私に、更にズイと顔を近づけて来る影山君の、目が。 目が、完全に熱に浮かされている。 その蕩けそうな眼差しを一心に浴びせられ、座り込んだ私の脚の間に影山君の身体が入っていることに気が付いた時、彼と同じく浮かされていた思考が一気に醒めた。
この状況は、どう考えたってまずい。
「かっ、影山く、!!?」 「みょうじさん……」
影山君の手が、私の横髪を後ろへ撫でつけるように髪の生え際を撫で、頬を包み込む。 吐息の中で私を呼んだその声に、蕩けた瞳の奥で危険に揺らめくその目つきに、彼が次に取るであろう行動が読めてしまった。 ――読めてしまった以上、私はそれを阻止するしかない。
「――待っ、て!!」 「ぐぅっ!!?」
倒れそうな身体を片手で支え、もう一方で影山君の口を塞ぎ、思い切り顔を押し退ける。 少し勢いが強すぎたのか、影山君からくぐもった呻き声が上がる。その隙にずりずりと後退して彼との距離を取り、乱れたスカートの裾を手早く直して居住まいを正すと影山君がひどく恨めし気な目でこちらを睨んでいた。
「あ……あー…えっと、ですね、影山君」 「………何ですか今の。どういう意味ですか」 「い、いやあの……そうじゃない、そうじゃないんだけど……何と言うか、根本的な問題がありまして……」
歯切れの悪い私に早々に業を煮やした影山君が「あぁん?」と言わんばかりの顔をする。 その一方でまたじりじりと膝でこちらへにじり寄ってくる彼の肩を懸命に押し留め、一度深呼吸して息を整えた。 きっと、これから言う私の言葉で影山君は激昂するだろうから。
「……――ひとつ、大切なことを言っておかないといけません」 「『大切なこと』?」
眉を寄せた影山君がオウム返しに問いかける。 咳払いをして覚悟を決め、彼の目をまっすぐに見つめ返した。
「私は、影山君とお付き合いはできません」
「――……は?」 「……今は、ま」
『だ』、と最後の一言を言い切る前に、視界がグラリと回った。
背中に硬いフローリングの感触。 頭は、痛くない。多分、ぶつけないよう影山君が支えてくれたから。 それでも、今度こそ床に押し倒された私を真上から覗きこむ影山君の目つきはさっきまでの熱を滲ませたそれとは全然違う。まるで飢えた、獰猛な獣みたいな、それで。 顎にかかった大きな手の、親指の腹で唇の輪郭をなぞられれば、ときめくよりも先に身体が竦んだ。
「――今の、俺の聞き間違いですよね?」 「ぁ の、……っ」 「だってみょうじさん、俺のこと好きだって言いましたよね?」 「そっ、それは、もちろん……!」 「ああ、よかった……だったら、」
口元だけ笑った影山君がすっと目を細め、改めて覆いかぶさってくる。 『今度こそ水を差すな』と言いたげな眼差しが、緩やかに降りた瞼に遮られた。 それと同時にどうにか彼との間に滑り込ませた腕を力いっぱい突っ張って、ギリギリのところで影山君の接近を阻む。
「〜〜〜だ、から……っそれがダメなんだってば!!!」
自分でもちょっと驚くくらいの声量で発した言葉に、体重をかけて力押しで私の防御を突破しようとしていた影山君の動きがピタリと止まった。 きょとんとした目が、不思議そうに私を見下ろしている。
「『それ』……?」 「っ……つ、つまり……えっと、影山君は今、高1の15歳だったよね……?」
はい、と素直に頷き、私の言い分を聞いてくれる姿勢は見せるものの、上から退こうとはしない。 いい加減この体勢が恥ずかしくて、さりげなく視線を自分の肩口に逃がしながら、私はもう一度、わざとらしい咳払いで仕切り直しをはかった。
「それに対して、私は大学2年生――要するに、もうすぐ成人を控えています……これがどういう意味かわかりますか?」 「みょうじさんがハタチになったら、俺は16になります」 「……うん。そうだね。間違いじゃない……間違いじゃない、けど、」
参った。ここまで言えばさすがに察してくれるかと思ったけど、この様子だと全然わかっていない。 頭を抱えたくなるのを堪えたけれど、ため息はそうもいかなかった。 さて、一体どう説明すればこの子に正しく理解してもらえるだろうか。
「……成人すれば、この国の法律の上で私は“大人”扱いされるようになります。そしてその法律上、“大人”が“未成年”に手を出してはいけません」 「……………それって、」
「――影山君と“そういう”関係になった場合、最悪私に前科がつきます」
影山君の顔が、サァッと蒼褪めた。 どうやら漸く私の言っている意味を理解してくれたらしい彼が、呆然とした後にハッと息を飲み、慌てて私の上から飛び退く。 色んな意味で圧迫感が消え、冷たい床に押しつけられていた身体をやれやれと起こせば、強張った表情で言葉もなく私を見る影山君の動揺は予想していたよりも遙かに大きなものだった。
「そっ……!で、……俺っ……!!」 「影山君、大丈夫だから落ち着いて」 「っ〜〜〜俺!みょうじさんのこと好きです!!そ、それでもダメなんですか……!」
きっと恐らく、『互いの同意の上でも犯罪になるのか』と、そう聞きたいのだろう。 私にもその辺りの正確な知識があるわけではないけれど、一般的に考えれば答えは出てくる。
「未成年のうちはね、基本的に『判断能力が乏しい』っていう括りになっちゃうから……そういう子に、大人が取り返しのつかないようなことしちゃダメなの」 「好きなのにですか!?」 「ッ……好きだとしても!!」
ここぞとばかりに『好き』を大盤振る舞いしてくる影山君に、今はそんなこと気にしてる場合ではないとわかっていながらも羞恥心が擽られる。 彼の言葉一つで素直に喜んでしまう心臓のせいでまた火照ってしった頬を手団扇で冷ましながらチラリと顔色を窺えば、影山君は二の句を告げない様子。 影山君が頭のわる――もとい、勉強が苦手な子で良かったと、この時ばかりは感謝した。
(親の同意の話とか、結婚を前提にした場合とか……その辺りつっこまれたらまずいし)
とにかく、法律の話は抜きにしたってやっぱり大学生と高校生1年生が交際するってことがそもそも、世間的にはあまりよろしくない。しかも年上の方が女子とか。絶対『誑かした』って言われる。 何より影山君の親御さんの心象だって良くないだろう。だって私がもし影山君の母親だったとしたら、相手の女の子を問い詰めてやりたくなるに決まってる。 『うちの可愛い飛雄ちゃんをよくも誑かしてくれたな!』って。
4歳差なんて、言葉にすれば大したことないように思えるかもしれないし、実際二十歳を過ぎれば感覚としては年々薄まっていくものなのかもしれない。 だけど、十代を抜けないうちの4歳差というものは、とてつもなく重く圧し掛かるものなのだ。
「……だから、ね?影山君が、私のこと好きだって言ってくれるのは本当に嬉しいし、私だって同じ気持ち、なんだけど………その……っか、影山君も“そういうコト”に興味ある年頃、でしょ……?そういうの、全部我慢してまで私と付き合ってほしい、なんて……言えない。――それに、ね」
血の上った影山君を宥めるためにぐだぐだと実態の見えない法律の話なんてしたけど、本題はこっち。 影山君に本当に伝えないといけないのは、私の本心だ。
「影山君とは“ちゃんとして”から付きあいたい――……ちゃんと、自分に自信が持てるようになってから」
彼の影に隠れることも、気後れすることもなく、胸を張って影山君の隣を歩けるようになったら。 影山君の夢に便乗するんじゃなくて、自分自身の夢を、きちんと見つけられたら。 彼がこの胸に宿してくれた小さな炎を、誰にも負けないくらい大きく燃え上がらせることができたら。
それが叶ったあかつきには、改めてこの子が――“影山飛雄”がほしい。
「……影山君のこと、目標にしたいの。そうすればきっと、挫けずに頑張れるから」 「みょうじさん……」
走り続ける勇気を分けてほしくて、そっと包んだ影山君の手が、逆に私を包み込む。 その大きさと力強さに今更ながらにドキリとして、少し不自然に目を逸らしてしまった。
「っ、で、でもね!さっきも言ったけど……私は影山君に『それまで待ってて』なんて、言えない。――だから、もしもこれから先、影山君にもっとふさわしい人が見つかったら、その時は、」
視界が、ふっと暗くなる。 その直後、唇にほんの数分前にも感じた――あの熱。 自分のものではない吐息が、濡れた唇の上を撫でて。
何が起こったのか理解した時には、目の前の影山君が不機嫌そうな顔で――だけど頬だけはほんのりと紅潮させて、いつものように唇を尖らせていた。
「待ちます」
「………へ?」 「俺、待ちます。みょうじさんが納得するまで」 「っ、え…いや、で も今、」 「今のは『フカコーリョク』?ってやつです。手ぇ塞がってたし」
白々しく私の手をぎゅっと握りしめて、はぁっとひとつ息をついた影山君がゆっくりとこちらに倒れかかってくる。ちょっとまだ頭が混乱していて逃げなかった私の肩に額を乗っけると、彼は更に大きく、聞こえよがしなため息をついた。
「………そりゃ、やっぱり俺も“オトコ”なんで、エロいこととかしたいです。……つーか、正直言うとみょうじさんで抜いてます」 「………――ッッ!!?」 「だから……したいけど、別に誰でも良いわけじゃなくて………みょうじさんだからしたい、って言うか」 「か、っ 影山君もういい!それ以上は……っ」 「あー……つまり、みょうじさんにエロいことしたい、だけなんで」 「それ以上は言わなくていいってば!!」
「――別の誰かじゃ、こうはならないです」
なんだかとんでもないことを言いだした影山君を必死に制する声を無視して強く腰を抱き寄せられ、密着した下腹部に、違和感。 押しつけられたその硬い“なにか”が、何なのか――影山君の言いたいことを察してしまった頭が真っ白になって、言葉が出てこない。
ただ、熱い。 熱いのは、私自身か。それとも影山君だったのか。
「だから、みょうじさんじゃないと意味ないの、わかりますか」 「っ……ぅ、ん」 「じゃあ、俺が待ってるの、許してくれますか」 「わ、かった……っ、わかった、から、!」 「――なら、よかったです」
ふっと、影山君が微笑ったのが剥きだしの首筋を撫でた息遣いでわかってしまう。 ぞわりと全身が粟立つ感覚がして思わず小さく身震いした私に、顔を上げた影山君がニヤリと笑いかける。
「『待て』って言うなら、俺は待ってます――だからアンタは、『待て』が終わった時の覚悟、決めといてください」
その笑顔は、およそ高校1年生のそれとは思えないほど禍々しくて。 震え声で返事をした私と影山君の友人以上恋人未満(体裁上)な日々は、こうして幕を開けたのだった。
(15.02.01)
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