小説 | ナノ




『俺、みょうじさんのことが、  』

その先を、聞いてはいけないと思った。

聞いてしまえば私は、自分で自分を抑えられなくなる。
今にも溢れてしまいそうなこの感情の渦に飲み込まれて、何も考えられなくなって。
――きっと、いつか。






「……――」

手のひらを押しつけた影山君の唇が、何か言いたげに小さく喘ぐ。
吐息が掠めたその感触で我に返り、私は慌てて彼から離れ、追い縋るような視線から目を背けた。

車も通りかからない静かな夜の空気が、全身を押し潰そうとしているかのように、嘘みたいに重苦しい。
ぎこちなく吸い込んだそれが、肺の底で沈殿している。
酸素が空回りしているみたいで、頭が上手く働かなかった。

(どう しよう……どう、誤魔化す――?)

警告音のように全身に響く心音の中、この期に及んでそんなことを考えている自分を、責めるよりも先に片隅に残った冷静な自分が『それは無理だ』と突き放す。
こんなのはもう、誤魔化しようがない。

だってあの一瞬、影山君は確かに傷ついた目をしていた。

(――私は、また、)

自分を守るために、彼を傷つけたのだ。


「………――影山君、この話は、もうやめよう」
「っ、みょうじさ、」
「早く帰らないと……お家の人、待ってるよ」

影山君の顔を見ないまま、形だけで笑って、息を止めたまま彼の横を通り過ぎる。
どんな時でも空気を読んでくれない影山君が、そのまま素直に見逃してくれるとは思ってなかった。
思っていなかった、けど、

「ッ――みょうじさん!!」

焦ったような、懇願するような声で名前を呼ばれて、強く手首を掴まれれば、私の心臓は面白いくらいに跳ねあがって、叫ぶように胸を叩く。
鼻の奥にツンとした痛みが走り、小さく息を吸い込んだ喉の奥が掠れた。

「なんでッ……うやむやに、しようとするんですか」

振り向かないまま聞いた影山君の低い声は、激情に塗れて微かに震えている。
そんな必死の問いかけにも、私は何も返すことができなくて。
ただ、掴まれたままの腕を引き、「離して」と呟くのが精一杯だった私に、影山君の手に込められた力が一層強くなり、痛いくらいだった。

「……さっきの、俺――振られたって、ことですか」

影山君は、中途半端を許してくれない。
私が曖昧にして先延ばしにしようとしたことを再び突きつけ、退路を断ち、その場しのぎすら許さない。

そうなるともう、いよいよここまでだ。

正面からぶつかってくる影山君に、これ以上の悪あがきはできない。
例えばそれで、この不確かで愛おしい関係が壊れてしまうのだとしても。
やっと手に入れた輝きを手放すことになったとしても。
――臆病な私に、惜しむ資格なんてない。

覚悟を決めてもう一度息を吸い込むと、街灯に照らされた夜道が歪んで見えた。

「……――影山君が、“恋愛対象”として私を見てるなら……私はそれに応えられない」

イタイ。

「影山君のこと、そういう風には、見られない」

イタイ。イタイよ。イタイ。

「――だから……ごめん、ね」

いたい。いたいの。本当は“このまま”でいたい。
このままずっと、影山君を見ていたかった。僅かな時間でも傍にいさせてほしかった。
彼と同じ夢を追いかけてみたかった。

だけど痛い。胸が痛い。息が苦しい。
鼓動が突き刺さって、張り裂けそうで、剥きだしになった自分が――どうしようもなく、情けなくて。
――だって私には、こんな時に本当の気持ちを伝える勇気さえないのだ。


「………――わかり、ました」


( “終わり” だ )

私を繋ぎとめていた影山君の手がふっと緩んで、漠然とそう思った。

終わってしまった。
彼の輝きに包まれた煌く日々は、流星のように。
きっともう、いくら手を伸ばしても届くことはない。

「〜〜〜っ、」

視界が、自制をかける間もなく一息に熱を持って歪む。

(ダ メ、泣く な!)

今、ここで泣いてはいけないと、戦慄く唇を引き結む。
――その時、一瞬緩んだ影山君の手が今度はもっと強く、強引に私を引き寄せた。

「っ、え ?」

何が起きたのか理解する前に、勢い反転した身体が目の前の壁に柔らかくぶつかる。
焦点が定まらないほど近くにあるそれが影山君の着ていたジャージと同じ色だと思い至った時には、私の身体はあたたかい腕の中に埋もれるようにして抱きしめられていて。
ふわりと鼻孔を擽ったのが彼の匂いなのだと気づくと同時に、頭の中が真っ白になった。

「――か げ、ゃ ま く、」
「……これで、どうですか」
「 ぅ、え?な…にっ、なに が、?」


「これで、俺のこと少しは意識してくれますか」


背中に回った腕が、掬い上げるように私の腰を抱く。
踵が浮き、身体が圧迫されるくらいに密着して、呼吸をするのもつらい。
やり場のない腕を彷徨わせる私とは対照的に、影山君はまるで閉じ込めようとしているかのようにしっかりと私を抱きしめ、片手で後頭部を押さえつけてくる。
彼の胸元にぴったりと重なった耳に、ドクドクと力強い鼓動が響く。
それが影山君の心臓の音なのだと気づいた時、ようやく状況を理解した身体が大げさに飛び跳ねて過去最大級の熱を持った。

「ッ――ゃ、なっ、なんで!?は なっ、離してッ!!」
「イヤです」
「影山君ッ!!」
「アンタが俺を男として見てくれるまで、やめません」
「っ……!!」

そんなことしなくても――そんな声で言わなくても、もうわかってる。
どれだけもがいてもビクともしないこの腕を持った少年は、私の弟でなければ親戚の子でもない。
一人の男の子だ。

( そんなこと、もうわかってる )

“影山飛雄”は、私の夢で、憧れで。

私が恋した男の子だ。


「〜〜〜ぉ、ねがい…だから……っ」


これ以上、私の『好き』を大きくしないでほしい。
そうでないと、私は、

「――みょうじさん、先に謝っときます」


「すみません」


影山君の拘束が不意に弱まった。
その瞬間、彼の言葉に戸惑った私の頬をするりと包んだ手のひらに、顎を持ち上げられる。
真上から私の顔を覗き込んだ影山君の、綺麗な瞳を縁取る睫毛までハッキリ見えて。

(――ああ、そうだ)

数日前の、あの時と同じ。


『 キスされる 』


そう、思ったのとほぼ同時に、渾身の力で影山君を突き放す。
その勢いのまま彼に背を向け、呼び止める声にも耳を塞ぎ、ひたすらに夜道を走った。


* * *


「はっ――はぁッ、は……ッ!」

喉が、肺が、久々の全力疾走に悲鳴を上げている。
アパートの階段を駆け上がり、もどかしくもつれる手で鍵を開けて室内に入ると今更ながらに膝が震えて、冷たいドアに背中を預けたままずるずるとその場に座り込んだ。

「は、ぁ……ふ…っ、ぅ…うぅ……!」

我慢していた涙が、堰を切って溢れ出す。
苦しくて苦しくて、息が止まってしまいそうだと思った。

(も、ダメ……ダメだ、本当に、もう、)

あんなことをして、今度こそ影山君に合わせる顔がない。
いや――きっと、影山君だって愛想を尽かしたに違いない。
幻滅しただろう。私に。
彼が追いかけるほどの価値もない人間だと、気づいてしまっただろう。

本当は、それだけが恐かった。


『 影山君が、“恋愛対象”として私を見てるなら……私はそれに応えられない 』

あんなの嘘だ。

『 影山君のこと、そういう風には、見られない 』

全部 嘘。

『 ――だから……ごめん、ね 』

本当は、影山君が好きだ。
泣きたくなるほど好きだ。


影山君にあんな風に見つめられて嬉しかった。
抱きしめられた時、影山君の心臓に負けないくらい、壊れそうなほどドキドキしてた。
キス、されそうになった時――突き放さなきゃって、わかってたのに、心のどこかで一瞬迷った。

全部全部、今までの人生の中で一番嬉しかった。

(で、も……っ)

――だからこそ、恐かった。

いつか必ず、影山君は大勢の夢の集まる眩しい舞台に立つだろう。
そんな彼の隣を歩く勇気なんて、私にはない。
きっと今まで以上に自分と彼を比べてしまう。
影山君を、妬ましく思ってしまう。

そんな自分を影山君に知られて――幻滅される日が何より恐い。

一度手にした彼という光を失うことが恐いのだ。
もしもそうなるのなら、最初から手に入れたくなんてないと、思うほどに。
泡沫の幸福だとわかっているものに手を伸ばす覚悟も、私にはなかった。

「――ッ、!!」

ポケットの中の携帯電話が震える。
このタイミングで、彼以外の着信だと思う方が難しい。

思った通り、画面に表示された名前は影山君のもので――それだけでまた、涙が止まらなくて。
随分と長く鳴ったそれがやっと静かになった時、震える息を飲みこんで、影山君に最後のメールを送った。



(15.01.12)

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