瞼が腫れるほど泣いたのなんて、いつぶりになるだろう。
一応ハンカチで冷やしながら横になったものの、すんなりと眠れるはずもなく。 結局寝不足も相まって腫れぼったい目で講義に出た私に、例の友人二人は何かを察したらしく、謝罪と共にやたらとお菓子を与えられた。 別に二人が悪いわけではないし、恨めしいとも思っていない。 悪いのは――原因はいつだって、他でもない私自身の中で燻っていたのだから。
「――あのぉ、すみません……」 「はい、どうされましたか?」
閉店間近を知らせる音楽のかかった店内。明日の入荷品のための準備をしていた時、遠慮がちに声をかけられた。振り向けば、仕事帰りと見られる女性がチラチラと店の入口を見ながら渋い表情をしている。
「そこのね、自販機のところなんだけど……なんだかちょっと怪しい人が立ってて……」 「(“怪しい人”!?)」 「不審者、って言うのかしら……とにかく、もしなんだったら警察とか……」 「ちょっ、ちょっと見てきますね……!」
抱えていた商品を慌てて作業台の上に降ろし、小走りに入口に向かった。 店長が事務所にいるはずだけど、とりあえず自分の目で確認してみないことには判断しかねる。 今までにないイレギュラーな事態と、“不審者”や“警察”なんて物騒な言葉に触発された心臓が緊張で高鳴っている。けれど、頭の片隅では不幸中の幸いだと、どこか安堵していた。
――だって、影山君はもうあの場所に来ない。 昨日送った最後のメールで、『さようなら』は済ませてあった。
(影山君が、変な人と鉢合わせしなくてよかっ――)
「………――!!」
目立たないようドアの影から顏だけ出し、そうっと覗き見た自販機の横。 蛍光灯に照らされた人影に、思わず息を飲んだ。
180pはありそうな上背に、目深に被ったキャップ。そして極めつけはいかついサングラス。 誰がどう見ても“不審者”の体をしたその人物は、どう考えても私のよく知る彼――影山飛雄その人だった。
* * *
いつも通りの時間に裏口から店を出て、駐輪場に停めた自転車の鍵を外す。 こちらを確認し、自販機にさっと隠れた彼に気が付いていないふりをしてサドルに跨りペダルを漕ぐと、予想通り背後から駈け出す足音がついてきた。 これが影山君じゃなかったら本当に怖くて泣きだしかねない。けど、相手は間違いなく影山君だ。 一応変装(のつもりのようなもの)をしていることから察するに、彼もまた思うところはあるのだろう。
(それでも、来てくれたんだ……)
胸が、きゅうと締めつけられる。
私はなんて自分勝手なんだろう。 自分から影山君の手を振り払っておきながら、それでもまだ彼が私を見捨てないでいてくれることを、どうしようもなく嬉しいと、感じてしまっている。 こんなに静かな帰り道では、胸の奥に押し込んだ本心の叫びに聞こえないふりをすることさえ難しくて、ハンドルを握る手に自然と力が入った。
「――……影山君、危ないからサングラスは外した方が方が良いよ」 「ッ!!!」
赤信号で自転車を止めた時、振り向かずに背後の彼に声をかけた。 まさかバレているとは思っていなかったのか、やたら大きく息を飲むのが聞こえて、思わず浮かんでしまった笑みを堪えきることができない。 影山君のそんな、どこか抜けているところも、好きだと思った。
「っ……あの、」
影山君が何か言いかけた時、タイミング悪く信号が青に変わった。 一瞬、返事をするべきか迷って――だけど結局、地面についていた足をペダルにかけ、ぐんと力を入れる。
私は自分勝手で、弱虫だった。 影山君の言葉を聞くのが恐くて、振り向いて彼の顔を見るのが恐くて――今度こそ、彼に嫌われてしまうのではないかと、そんな自分本位なことばかり考えて、踏ん切りがつかない。 何度影山君を突き放そうとしても、彼を好きだと思う気持ちが聞き分けてくれない。突き放しきれない。
(私……こんなにズルい奴だったんだ……)
どうあっても彼の気持ちに応えられないのならば、もっとちゃんと、それを示さなければいけない。 私が中途半端な態度を取るから、影山君はきっと困っているんだ。 ――だったら今、私がやるべきことはひとつしかない。
「……――少しだけ、部屋に寄ってもらって大丈夫?」
アパートの前で自転車を降り、今度こそ覚悟を決めて影山君を振り向く。 数メートル先、僅かに息を上げて街灯の明かりを潜った彼が眉を寄せ、物言いたげな眼差しで頷いた。
* * *
「――先にコレ、返しておきます」
『上がって』を言うよりも先に、玄関で靴を脱いだ私の背後で影山君がそう言った。 振りかえれば、差し出されていたのは見覚えのあるピンク色のハンカチ。 影山君が拾ってくれたソレは、そう言えば雨の日に彼に貸したままになっていた物だった。
「返すの、遅くなってすみませんでした」 「ぁ……ううん。大、丈夫」
正直者の心臓が、ずくりとした痛みを伴って疼く。 彼が今、このタイミングでコレを帰した意味を考えてしまう。 考えて――もしもその予想が当たっていたなら、きっとそれが彼のためにも私のためにも最善であるはず、なのに。ハンカチを受け取るために差し出した手が、震えそうだった。
「――本当は、」 「 ぇ、?」 「……本当は、もっと早く返せました。ジャージのポケットに入れてて、すぐ渡せる日もありました。――でもいざ返そうと思ったらなんか……みょうじさん、いつもどっかで俺と距離を置こうとしてるって言うか……コレ返しちまったら、みょうじさんとの繋がりが完全になくなっちまうような、気がして……だったら、このまま返さずにずっと持っといた方が、いざって時に会いに行ける口実になるんじゃないかって、思って」
知らなかった。 影山君が、そんな風に思っていたこと。 私が思っていたよりもずっと、敏い子だったということ。
「――けど、そんな口実はもう、いりません」
受け取ったハンカチに、まだ微かに彼の体温が残っていた。 瞬く間に消えてしまいそうなそのぬくもりに、彼の言葉に、込み上げた切なさが胸を塞ぐようで、細く息を吸い込んだ唇が震えたのと同時に視界が曇っていく。
その滲んだ視界の中、ハンカチを持つ私の手を、影山君の大きな手がしっかりと捕まえた。
「口実がなくても、俺はアンタに会いに来るし、諦めません」
「ッ――!!」 「……だから、昨日のことも、謝りません」
心臓が、さっきとは違う音を立てて重く弾んだ。 反射的に彼を仰いだ先で、痛いほどに直向きな眼差しに捕まってしまう。 影山君の、この瞳が苦手だ。 この瞳に捉えられると、私は自分の感情を制御できなくなってしまう。 頭の中で色んな声が渦巻いて、吐き出したくて、苦しくて、何が何だかわからなくなってしまう。
「か、げやま君、は……ッ勘違いしてる、だけだよ!」 「“勘違い”――?」
捕まれた手を振りほどこうと必死に引き寄せる。けど、全然びくともしない。 俯く私を、それでも影山君がじっと見つめているのがわかって、その視線から逃れたい一心で強く目を閉じれば、自分が震えていることに気づかされた。
「……私ッ、影山君がこだわる程の人間じゃない……!影山君まだ15だし……っ、年上の私がちょっと珍しく見えるだけ、なんだよ……っ」
影山君が私にこだわる理由なんて、本当はないのだ。 だって、私には何もない。
「ッ……前に、言ったよね……?私には、夢も目標もない、って……影山君を見てると、今までの自分が情けなくなる、って――影山君に、そんな自分を知られるのが恐いって」 「………それは、」 「だからっ……嫌、なの…ッ」
「影山君と付き合って――それでいつか、影山君が私に幻滅する日が来たら……ッわたし、」
しんで、しまう
その一言は、唇の奥に押しこめられた。 影山君の唇が、私のそれを塞いでしまったから。
「――…………ぇ、」 「――あ。イヤ……あの。今のはその、すんません。でも、!」
唇に、柔らかい感触が残って、いて。 影山君の『やっちまった』って顔が、やたら近くて。赤くて。熱くて。 涙が、ひっこんでしまった。
「ぃ……今のは、みょうじさんも悪い!です!!」 「わた、私、が……?って…え?ぁ、えっ!!?ちょっ、今、なんで……!」
ううう嘘だ!なんで、今!! 今、そんな流れじゃなかった、のに!
(う そ、嘘、嘘……!私、影山君と……!)
全身の血が沸騰してしまったように熱くて、茹ってしまいそうで。 いつの間にか私の腰を抱いていた影山君の胸を押し返そうと思うのに、ちっとも力が入らなくて、恥ずかしくて、もうわけがわからない。 影山君も影山君でムキになっているのか、腰を抱く腕はそのままに私の肩口に額を押しつけ、全然離してくれる気配がないどころか込められる力はどんどん強くなっていく。
「かっ、影山君とりあえず離して……!」 「……ムリです」 「無理じゃなくて!」 「いや…だってアンタ………俺のこと好き過ぎだろ」
『知ってたケド』と、ぼそりと付け加えた影山君が零したやたら熱い溜息が鎖骨のあたりを擽る。 その熱の残滓に背筋がぞくりと戦慄き――頭が一瞬、真っ白になった。
(………影山君、今、なんて、)
「――俺のこと好き過ぎるから、いつか俺と別れる日が恐いって、要するにそう言いたいんですよね?」 「ッ!!ちっ……が、!」 「違いますか?」 「〜〜〜っ!!!」
まだ私の肩口に顔を寄せたままの影山君が、前髪の隙間からチラリとこちらを見上げる。 その頬はやっぱり熟した林檎みたいに赤いくせに、眼だけはギラギラしていて。 咄嗟に『違う』と言いかけた声が、そのまま掠れてしまう。
冷静になって思い返してみれば影山君の言うとおり、さっきの言葉はほとんど告白も同然だった。 きっともう、ここからの言い逃れなんて出来ない。 逃がすものかと言わんばかりに私を抱く影山君が、それをさせてくれない。
そんな状況を理解した心臓が改めて早鐘を打ち出して、その音が影山君に聞こえてしまわないかと思うと、今度は恥ずかしさのあまり泣きたくなってきた。 本当にもう、色々キャパオーバーで、限界だ。
「っ〜〜そう、だよ!影山君の言うとおり、だから……っ、だから、影山君とは付きあえな、」 「“ゲンメツ”とか、しません」
私の言葉を遮って、影山君は強い調子で言い切った。 伏せていた顔を上げて、今度は高い位置から、まっすぐに私を捉える。 影山君の瞳は、星を抱いた夜空のように凛として、反論する言葉を見失うほどに綺麗だった。
「みょうじさんが自分に自信がないのは知ってます。けど、俺の気持ちを勝手に決めつけないでください」
影山君の手のひらが、ハンカチを握りしめたままだった私の手を包み込む。 男の子特有の、長くて節張った指は、優しく――だけど強く、私を握りしめた。
「アンタが好きです。多分、初めて俺に笑ってくれた時からずっと――これから先も」
今度は彼の言葉を塞ぐことも、目を逸らすこともできなかった。 胸の一番奥が――閉じ込めていた自分の本当の気持ちが、歓喜に震えている。 先のことなんて考えず、このまま彼の腕の中に飛び込んでしまいたいと叫びだす。 そんな自分の足元で、最後に残った臆病な自分の欠片が懸命にしがみついていた。
「、っで…も……!」
『 影山君は、私みたいな空っぽの人間が釣り合う相手じゃない 』
喉まで出かかった言葉を、飲み込むことが難しい。 今それを飲み込んだとしても、私はこの先ずっと“その日”に怯えて過ごすだろう。 これまで以上に間近で輝く彼の光によって浮き彫りにされた劣等感はきっと、簡単には拭えない。 いつか目を焼かれる日が来るかもしれない。
――けれど、
「俺はみょうじさんのこと、情けないとか、そうは思えません。 ……だってアンタはまだ、夢中になれるものを見つけていないだけで、」
「――本当はいつだって、誰より燃えたがってる」
身体の、中心。 誰かの輝きを目にするたびいつも燻っていた、その場所。
空っぽだったはずのそこに、小さな火が息衝いた。
その瞬間を、確かに感じた。
「――……」
ああ、もう。
(――敵わない、なぁ)
「………影山君」 「はい」 「ごめん、ね……だけど、私も影山君のことが、好きです」 「……っ、はい」 「だ……だから、その……っ」
「これからも、よろしくお願いします」
ほとんど体当たりみたいな勢いで、影山君に苦しいほど抱きしめられる。 その背中に腕を回すことのできる、目の眩みそうな幸福を噛みしめて瞼を閉じた。
彼に灯された胸の火は今はまだ小さくて、だけどきっと、絶えることはない。 それだけは不思議と強く確信することができたから――今はただ、目的はなくともこの明かりを頼りに歩いていこうと、そう思うことができた。
(15.01.26)
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