ハマのヤ●ザと女医が同棲するまで | ナノ

ハマのヤ●ザと女医が同棲するまで

#  01

深夜の海風はやけに肌を擽る。本来であれば車で帰宅しているところだが、今夜に限ってはあまりに疲労困憊になることが想定されたために、車での出勤は止めておいたのだが正解だった。代わりにタクシーをと思っていたものの、どうやら今夜は所謂ハナキンというやつらしい。

何がハナキンだ。何がノー残業デーだ。こちとら、夜勤という仮眠を一睡もできない状態で、オマケに更に残業もして一日以上睡眠なしで働いて、もはや化け物になりそうだというのに。

タクシーが捕まらない以上、家に帰る術は徒歩しかない。人が集う都会の大通りを避けると、いつかに来たことのある静かな通り道に辿り着いた。だが、それも悪魔の誘導だったらしい。


「っつ……ぁぅ……。」


まるで地に這うような――いや、まさに血沼に這っている男が言葉にならない声を発している。電灯の真下で。
ちょっとちょっと勘弁してよ。なんでこんな現場を見つけてしまうの。どれだけ悪運に見舞われているの。残業をまだしたいの?


「ァッ……っは、は……。」


自問自答しても致し方ない。目の前に這いつくばっている男は、服はおろか顔や爪先までボロボロである。ただのか弱い女性ならば避ける現場でも、見慣れてしまった且つ見つけてしまった以上、ただ自身の使命を果たさんとする謎の正義感だけが生まれた。


「(あぁ――いつか絶対に、後悔する。)」


いや、今でもなお、微かに自分の人生について後悔しているというのに。
ナマエは溜め息と共に、切れかける電灯下へとゆっくりと足を進める。その音に気が付いたのか、倒れている男の瞼がぴくりと動いた。


「お兄さん、大丈夫じゃ無いと思うけれど意識はある?」
「……っせぇ、ババァ……。」
「は?」


この男、ころ――……いやいや、瀕死の相手に言う言葉ではないだろう。ナマエはぐっと言葉を飲み込んでしゃがみこむ。先ほど動いた男の瞼は開くことなく、荒い息を吐く唇だけが震えていた。


「軽く手当だけさせていただくので、後はお家に大人しく帰ってくださいね。ここら辺は今、荒くれさんの踊り場になっていますから。」


こんなことのために持ってきたのではないが、と鞄の中から最低限すぎる処置具を取り出す。ま、軽く消毒して包帯でも巻いておけばいいだろう。遠方で聞こえる独特の音楽を慣れないBGMにしながら、悪態だけを微かに吐く男に向かって処置を施した。

* * *

「ってことがありまして。」
「ほォ、そうかえそうかぇ。で課題は終わったのじゃろうな。」
「できるわけないでしょーが。」


ああ、この人に話したのは無駄だったな。ナマエは頭を抱える。耳にかけていた髪が降りてきたが、今となってはうっとおしい。そろそろ髪を切ろうか。いやでもせっかく伸びたし悩むところだ。


「ほゥ? ヤローを拾ったからと言って、ワシの課題をやらん理由にはならんじゃろうに。」
「いや、経庵先生無理ですって。私昨日一日以上フルで働いていたんですよ? なんで夜勤明けに休みじゃないんですか。おかしいでしょう……。」


目の前にいる老爺は、医学界において知らぬ人はいないというほどの有名人だったりする。名前は種実屋 経庵(しゅじつや へあん)。

古くからの付き合いであり、師匠と呼ぶべき老爺である。もはや腰は丸まり、顎から地面へと伸びる髭は昨年と比較してあまりにも白く染まってしまった。本人曰くもう死ぬらしいが、目の前で葉巻を吸われては肯定せざるを得ない。


「経庵先生に伝えた私がバカでした……。」
「分かったなら宜しい。で、ナマエや。」
「なんですか?」
「お主、慣れたかのぅ?」
「はい?」


話がころころと変わるのも経庵の特徴だ。とはいえ、昔ほどの出来事ではないが。ナマエはあからさまに疑問を浮かべた表情をしたが、何を伝えたいのかを察してあぁ、と珈琲を口に含んで頷いた。


「ヨコハマも案外騒がしいですね。私としてはもう少し休める職場に――」
「ア?」
「……いえ。大変勉強になります、種実屋大先生。」
「ウム。宜しい。」


この男、昔はヤのつく職業にでもついていたのは? というほどに口が悪い。ぶっとい葉巻を吸いながら、よぼよぼになっていた瞳が途端に鋭く光ってガンを飛ばして来たら、思わず口が閉ざされるのも無理もないだろう。それとも、このヨコハマ出身者は皆そうなのであろうか。


「念願の医師になってもイケブクロで燻ぶっているお主をここに呼んだのじゃ。少しでも成長してワシを養ってもらわなければ、困るのぅ。」
「経庵先生は確かに親のような存在ですが、さすがに養うのはちょっと……。しかも、約束の話と微妙に違っていますからね?」
「何を言う。お主を最高の医師にするという約束を果たそうとしている、この老いぼれの努力が通じんとは……ほゥ、寂しい人生じゃ。」


ナマエは幼少期より種実屋経庵と邂逅を果たしており、師事を受けていた。そのまま、彼の存在を糧に医師の資格を得て、イケブクロで有名な大病院に勤めることに成功した。それから数年、再び連絡を受けた経庵に自らの悩みを当てられ、導かれるようにして彼のもとにまた降り立ったのだ。


「確かに、経庵先生が私を再び呼んでくださり、教えを説いてくださのは光栄なことです。」


再び珈琲を口に含む。先ほどよりも頭が覚醒している。大病院での過酷な勤務を生き残った身としては、このヨコハマに聳え立つ大病院でも生きていけるらしい、ただし、変わらず自分のすべてを犠牲しているのは否めない。


「が、課題はもっと実用的なものにしてくださいよ。なんですか『ヨコハマの歴史を纏めろ』って。私はこれから地元検定でも受けさせられるんですか!」
「バカ者め。ヨコハマの地を知らぬと、患者とのコミュニケーションに困るぞぅ? 特にこの地の老いぼれは、地元愛が強いからのう。」


ふー……と深々強い吐息と共に濃霧が視界を覆う。揺れる世界の奥に浮かぶ恩師の顔は、どこか楽し気に、それでいてギラついた若かりし頃の瞳をしていた。


「……まあ、分からなくはありませんけどね。」
「分かったら、早くコンビニでギャル本買っとくれ。」
「ネタ変えんな!」


そんなアホのような恩師に呼ばれたヨコハマの空気は、案外悪くはない。
目の前を揺れて消えようとする煙をさりげなく吸い込んだ。



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