Zero the Enforcer | ナノ



ふぁぁああ、と大きな欠伸が漏れる。小さな掌で隠しはするが、決してそこに恥じらいはなかった。欠伸なんてして当然だ。結局飛行機の中で仮眠をとっただけで、日本へ帰国してから挨拶、報告、移動の連続だったのだから。到着して早々仕事になるのは想定内だったが、やはり眠いものは眠い。冴が今望んでいるのはただ睡眠。それだけだった。


「さて、あとは本命ですか。」


天へ昇る貝殻状の建造物や出来立てのショッピングモールを回ったその足で、別の建築物の中に一人侵入した。人影は巨大な建物に対して寂しすぎるほどに居ない。いるのは、真剣な表情を浮かべるスーツ姿の大人のみだ。

冴は彼らの視界に入ることのないように、それでいて大胆に室内を歩き回っていた。片手には薄いタブレットがあり、それと比べるように周囲に目を配る。些細な異変も見逃さないように鋭い目が光る。


「帰っていたのか。」


そんな彼女の真剣な瞳をあどけないものにしたのは、たったその一言だった。目をぱちりと瞬かせた冴は安堵したような深々強い溜息を吐く。


「いったい、誰だと思ったんだ?」
「恐ろしい侵入者のおじさまかと思いました。」
「それは昨夜で片が付いたと聞いているが。」
「ええ。正確な時刻でいえば、今日の間違いですけれどね。」


振り向いた先には、灰色のスーツに身を包んだ同じ『ゼロ』の人間――降谷零がいた。冴と同様に薄いタブレットを片手に、こちらへと歩を進めてくる。


「お疲れさまだったな。その様子だと、眠れなかったか?」
「飛行機で少々。」
「目の下にクマが出来ている。おまけに微かだが……」


綺麗な指先が冴の頬に伸ばされ、端正な顔が首筋へと埋まった。決して煙草も吸わず、香水も付けていないはずなのに、ほんのり甘く爽やかな香りが尖った冴の神経を和らげた。


「火薬のにおい。」
「ああ、残っておりますか? シャワー浴びて、空港も突破できたので、落ちたと思っていたのですが。」
「本当に些細な程度だ。よほど嗅覚の良い犬でなければ分からないだろ。」
「あらいやだ。それはご自身が嗅覚の良い犬であると?」


ふふ、と微笑んだ冴に、いつもの元気が戻ったことを察した降谷は身体を離した。そして、手に持っている資料を揺らして、意味深げに口角を上げる。


「ついてこい。怪しいにおいがする厨房にご案内だ。」
「さようですか。おかしいですねぇ、ここは出来立てホヤホヤの日本料亭だと思っていました。」
「ところで、そっちのテロは潰せたのか?」
「ええ。お月様に見守られながら、最後の一人を確かに処分しました。」
「これでサミットに向けての危惧は一つ減ったというわけか。さすがだな。」
「ふふ。危惧の『一つ』ですか。嫌になりますね。」


東京サミット――主要国首脳が集う重要な会議がここ東京で来週行われる。

当然、各国の重役たちが一定の場所に留まるのだ。テロの危険性はいつにもなく高くなる。日本では日頃少ないそれも、海外ではそうもいかない。現に冴が向かった某国では、サミットに向けた過激派の動きがあり、これを阻止せよと1年前より飛びたっていたのだ。事実、その動きは東京サミットを狙ったものであり、冴はテロ集団の鎮静に成功したのである。

だがしかし、安心はできない。前を歩く降谷の背中を見つめながら、彼から発せられた不穏な言葉が安心という二文字を奪ったの。


「この国際会議場の一階が日本料亭。地下に厨房があるわけだが――これを見ろ。」
「ガス管ですか。」
「どうやら、遠隔操作が可能らしい。」


現物と、資料とを見比べる。確かにこれによると遠隔操作が可能な最新型のものであることが読み取れた。ネット上からのガス栓の開け閉めが可能だという。ガス爆発によるテロ――容易に想像がつく。


「ネット回線は既に繋がっているのですか?」
「回線接続および最終点検は、この後行われると聞いている。」
「ふむ……では、今下手に足跡をつけるわけにはいきませんね。」
「終わった後か。時間がないな。」
「サイバーに一任しましょう。口の堅い人材を知っています。」
「実力は。」
「私が使えない人間を推奨するとでも?」
「悪かった。」


そんな会話をしながら、2人は厨房を後にする。日本料亭を出て会議場の非常口の方向へと足を向けた。表には他の警備点検者がいるであろう。下手に鉢合わせるのは面倒だ。そう考えているのは冴だけではなかった。何も言葉を発することなく2人は歩を進めていく。


「今のうちに連絡しますね。」
「ああ。」


冴はポケットからスマホを取り出した。指紋でロックを外す動作を降谷は横目で見つめる。正確には、動作ではなく真っ白なスマホにその瞳を向けていた。


「冴、いつ変わった?」
「仕事中ですよ、降谷。」
「聞いてないぞ。」
「今朝、上から受け取った代替品です。元のは、向こうでの爆発で粉々になりました。個人用のは無事ですよ。」


電話帳には当然何も入っていない。記憶をたどって冴はダイヤルを入力していった。使い慣れない小ぶりな端末を操作しながら、隣から突き刺さる視線にどこか萎縮してしまう。


「怪我はしていませんよ。銃弾を回避した時にポケットからスマホが落ちて、最期の最期の爆発時に我が身しか守れなかっただけです。」
「爆発物に縁があるな。」
「嫌な話です。……っと、もしもし? 私です、若槻です。ええ、そう……驚かせましたね。今お時間よろしいですか?」


電話の相手は男らしい。仕事だとは理解していても、それだけで降谷は面白くないと自覚していた。

以前、彼女に会ったのはいつだった? 東都水族館で例の組織と接触し、戦闘になったあの案件以来会っていないではないか。事後処理に追われて、まともに恋人の時間を過ごせてすらいない。そうこうしているうちに自分は例の組織での仕事に、安室透としての生活へシフトしていった。当然冴も極秘捜査でいつの間にか姿を消している。

メールや電話が全くなかったわけではないが、両手で収まる程度だ。ようやく会えたと思ったら次は東京サミットで多忙になるのは目に見えている。しかも、今ではテロの危険性さえ浮上してきた。まだまだ、彼女に触れられない――目の前にいるのに。


「ええ、そうです。我々の警備点検が終わり次第、業者点検が入るそうです。その後しか時間がありませんので、頃合いを見計らってお願いできますか?」


仕事に真剣な瞳を見つめていた降谷だが、不意に体全身が震えた。頭では分からないが、体が何かを察知している。なんだ、と降谷は周囲に視線を配る。だが何も変わらない風景が続いている。人の気配もない。ではなんだ、これは。


「……。」
「ふふ、お願いしますね。そうそう、このスマホは上からの支給品でして、暫く使わせていただくので番号をお伝えします。」


遂には電話相手に微笑みだした冴に、本来であれば苛立っていたかもしれない。だが今は――そう、それどころではない! このにおいは、ガスだ!


「冴、走れ!!」


降谷がそう叫ぶと同時だった。

――体全身が、建物全体が轟音と共に激しく振動した。


「っきゃ!?」
「冴!」


身構えすらしていなかった冴の身体が壁にぶつかりそうになる。降谷は咄嗟に彼女の身体を支えた。カタン、と音が鳴り視線を追えば、支給されたばかりのスマホが転がり落ちていた。小さなその端末から焦燥に満ちた相手の声が聞こえるが、とても対応している余裕はない。


「爆発!?」
「くそっ、どこからだ……!」


だが、今は原因を突き止める時間はない。後方では炎が燃え盛り、頭上からは天井が落ちてきそうだ。降谷は冴の腕を掴むと、目指していた非常口へ向かって走り出した。

非常事態に一瞬身体が追い付かなかった冴も、瞬時に頭を切り替えて駆ける。降谷は掴んでいた手を離し、目の前に見えた非常口のノブへとそれを伸ばした。


「っ後ろから来てますっ!」
「分かっている!!」


爆発によって崩れたコンクリートが、炎上の勢いで炎を纏ってこちらへと迫ってくるではないか。降谷はドアを躊躇なく開き、冴の身体を抱き寄せて飛び出した。


「っ、」


頭上をコンクリートが飛びぬける。密度の高い物体が叩きつけられる重音と共に、次はみしりと何かが軋む音が耳に入った。慌てて体勢を立て直した2人は休む暇もなく駆け出す。炎によって生まれた黒煙の合間から、鉄柱がミシミシと音を立てながら傾いてくる。2人はそれをなんとか避け、舞う土煙を浴びながら無残にも崩れ去った国際会議場から逃げ延びた。


「……ああ、なんてことでしょう……。」
「っ、最悪だな。まさか当日ではなく今爆発するとは。」
「せっかく支給されたばかりなのに。」
「……そこではないだろう。」


だがこれで、確実にテロの可能性が増した。早急に対策を立てなければならない。誰が、何のために仕組んだのか。だが爆発したこのタイミングはあまりにも悪かった。これでは捜査をする時間は長く与えられないだろう。時間を稼がなければならない、そう、あまりにも残酷な手段を用いてでも。


「冴。」
「なんですか?」
「時として、非情な判断をしなければならない。それが我々公安だな?」
「……。ええ、お付き合いしますよ。」


降谷の考えを察したのか、冴は一度眉を下げるものの、すぐに小さく頷いた。我々は、何としても首謀者を捕らえなければならない。この国を、守らなければならないのだ。





×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -