暗がりから手が伸びてくる
頭がガンガン痛い。
あの脅迫状以降も、毎日手紙が届いた。言葉は重くのしかかる。時々、例の小瓶が入っていて、その度に悲鳴を上げてしまう。もう手紙を開けるのも、手紙を取るのも、怖い。今やポストにすら触れられない。
どうしよう。どうしよう。
警察には言えない。でも、この後どうなるの? このまま犯人が手紙を寄越してくるだけだなんて考えられない。そのうち、きっと会いに来る。
私、どうなるんだろう。……嫌だ。なんで頭にあの変態最低男が浮かぶんだ。もうバッサリ縁を切ったんだし、関係ない。梓ちゃんにだって暫く絶対に会いに行ってはいけない。梓ちゃんにまで矛先が向いたら、もう私生きていけない。
「ミョウジ」
「高砂子さん……?」
「また来たぞ、金塚課長」
「ああ……」
最近、よく来るなぁ。
重い腰を上げると、高砂子さんに肩を叩かれた。心配そうな表情を浮かべている高砂子さんは、私が金塚さんへ苦手意識を抱いていることを知っているのだろう。
「俺から上手く断っておこうか? 金塚課長なら、多少話したことはあるし」
「気になさらないでください。大丈夫ですよ」
もはや金塚さんの部屋じゃないか、ここ。
入室すると、窓辺に立っていた金塚さんがこちらを振り向く。ここが高層フロアなら多少の貫禄がこれだけで出るんだろうなぁ。
「本日もご足労いただき恐縮です」
「例の企画は順調か?」
「……何故、金塚さんがその件を?」
例の企画、というのは私が任されているそれに他ならない。やっぱり金塚さんの耳にも入ってたんだ。だったら助けろよ、と叫びたくなる。そんな気力もうないけど。
「都内のみならず、ゆくゆくは全国へ拡張していく予定だからな。当然、私の耳にも届く」
初めて聞きましたけど。
「だが良い機会だ。ここで功績を上げれば、君もこちらへ来られる」
「私はこの支店で働くことを望みます。金塚さんのご期待の沿えず申し訳ございません」
「何も今すぐとは言わないさ」
嘘つけ。恋人云々だって、勝手に上層部へ「未来の」とか付けて、さりげなくアピールしたくせに。
どうせ今回の業績をいいネタに、私を本部へ異動させるに違いない。異動が嫌なのではなくて、金塚さんの傍で働くのは勘弁していただきたい。毎日鳥肌ざわつく。
何より、もっと、狙われるかもしれない……。
「脱線してしまった。今回は仕事でな、企画について本部からの要望や訂正を伝えに来た」
「あ、そうなんですか?」
いつもそういう仕事で来てほしい。来るならの話だけれど。
金塚さんは、こんな変質者だし強引だけれど仕事は出来る。本部からの要望には頭を抱えたけれど、親身に一緒に考えてくれた。私だけでは想像もつかないアイディアに、頭が新鮮味を帯びて覚醒する。異動をすれば、こうやって仕事が出来るのだろうかなんて、少し考えてしまう。
「と、いうわけだ」
「なるほど……確かに。異なる着眼点からのアドバイス感謝いたします」
「いや。今回の企画は大事なものだからな。全て丸投げというわけにもいかないだろう」
ほぼ丸投げされていた記憶しかないけどね。
「しかし、経験の浅い君にはここまで大変だったろう。良く頑張っているな」
「高砂子さんが助けてくれたんです」
「高砂子……? ああ、ここに異動だったか」
「はい」
一枚一枚、金塚さんの持ってきた資料に改めて目を通していく。ポイントには丁重にマーカーと書き込みがされていて、これだけでも十分すぎるほどだ。口頭で言われるとその場で質問も出来るし。
今日の、あくまで今日の金塚さんは素晴らしい。
「なるほど。……惜しいな」
「え?」
「いいや。上からの要望してまた別件があってな」
ソファに座る金塚さんの表情が一気に硬くなるものだから、何かまずかっただろうかと心がひんやりする。高砂子さんはむしろ手伝うように言われてるって……。
「締め切りが早まるってどういうことですか!」
「予想より早いペースで仕上げてきてくれたが、こちらのスケジュールよりも遅れているという話だ」
「そんな! でしたら早めに教えて頂ければ、私たちだって対応出来ました。それを、今になって……しかも金塚さんの仰った件も追加するなら、尚更早められると厳しいですよ」
「ああ、それは私も理解している」
上に振り回されるのは今日が初めてなわけではないけれど、いくらなんでも酷すぎるし、横暴だ。これじゃあ毎日徹夜したって終わる気がしない。
「ナマエくん」
「失礼ながらここ職場なのですが」
「周りには誰もいなかろう」
「どこで聞かれているか分かりませんし、勘違いをこれ以上されても困ります」
そうだ。どこに犯人がいるとも分からない以上、あまり長い間一緒に居ると犯人を逆なでしてしまうかもしれない。仮に金塚さんが犯人だとしたら、もう逆上させているかもしれないけれど……写真に載せられていたし、違うよね。
「ナマエくん」
「ですから――っ、あの、距離近いです」
向かいのソファから立ちあがったかと思えば、堂々と隣に座って来やがった。いや本当に勘弁してほしい。オペラの席でもソファ席で隣だったし、手紙や安室さんの件もあって、全然集中できずに嫌悪感マックスだったんだから。
「困っているだろう」
「……困らせたのは、金塚さんです」
「私が期日を早めろといったわけではない。あくまでも伝達しに来ただけだ」
一緒だわ!
「近頃、他にも頭を悩ませることがあるのではないか?」
「え……?」
心臓がどくりとした。何のことを言っているんだろう。
「……何の、お話でしょうか……」
「この私にまで隠し事をするのか。まあいい。君の抱え込む苦渋の姿もまた美しいからな」
一つひとつの鼓動が大きく、強くなる。金塚さんの瞳が怪しく映って、背筋が凍った。近付く顔立ちに、逃げることが出来ない。
「君の癒し手は、私だけで十分ではないかな」
「っは……」
「好きだよ、ナマエくん。心から愛おしい君に、先日贈ったプレゼントは気に入ってくれたかな?」
「――!」
慌てて立ち上がろうとして、手首を掴まれた。喉の奥から小さな悲鳴が上がる。
声を出さなくちゃ、助けてってすぐ外の人たちに求めなくちゃ。分かっていても、分かっていても声が出てこない!
「その反応だと見てくれたかね? だというのに身に着けてくれないとは、相変わらず焦らすのが好きだな」
「か、かね、つかさん…だったんですか……」
「君を想って頭を悩ませたよ」
逃げなくちゃ。逃げなくちゃ……!
「意地らしい君も好きだけれど、そろそろ応えてほしいところだな。……今夜、迎えに行ってもいいかな?」
「ッ!」
途端、扉が控えめにノックされた。
一瞬、私を掴む力が緩んで咄嗟に逃げる。扉を開いて慌てて飛び出した。係長とすれ違い、係長はこれでもかと目を大きく開かせていたのだけは視界に入った。
「……あ、あのぉ……」
「……なんだね?」
「も、申し訳ございません! 本部長より金塚課長へお電話が……!」
「そうか。ありがとう」
「ところで、ミョウジはどうしたのでしょう……?」
「仕事を増やしてしまってな。サポートを頼んだよ」
「は、はははい!」
慌てて部屋から飛び出してきた私の姿に、一部のスタッフが気付き目を丸められた。何でもないと慌てて手を振っていると、高砂子さんと千奈ちゃんが近付いてくる。そのまま廊下へと導かれた。
ここで、助けてと叫べたら、ここで警察を呼んでもらえば、誰も傷つかないのでは――そう思っていても、脅迫文の言葉が心に鎖を絡めていく。
「どうしたんですか? 慌てて飛び出して」
「まさかと思うが、金塚課長に手を出されたんじゃ……」
「えぇっ!? そ、それ本当ですかナマエさん!!」
「……違うわよ。ただ仕事が増えちゃって」
声は、震えていないだろうか。きちんと二人の目を見つめられているだろうか。
「仕事が?」
「金塚さんは、アドバイスをくれたの。私が、ただ早く仕事終わらせないと、って焦っちゃって」
「それで慌てて飛び出してきたんですかぁ? おっちょこちょいなんですねっ、ナマエさんてば!」
千奈ちゃんは笑ってくれた。高砂子さんも、苦笑してくれている。上手くいった……のかな。
「俺も手伝うぜ、何だって?」
「えっと、……〆が早まったのと、後は――」
金塚さん、言っていたよね。今日、迎えにって……。もしかして、今日が私の命日だったり? はは、まさか……まさか、ね。
今日は家に帰らないで、ホテルに泊まろう。どこか、警察署に近いホテルなら下手に近づいてこないかもしれない。何かあったら、すぐに、逃げ込めば……。
私一人で出来る? 誰かに助けを求めた方がいいんじゃ……。ううん、ダメだ。金塚さんが犯人だなんて、誰も思うわけがない。職場の人で頼れるのは、……でも、千奈ちゃんは巻き込めないし。
――「次何かあれば、頼ってください」
どうして、こういう時に頭に過ぎってくるんだろう。止めてよ……!