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未来のポジションは幻影


思えば、椅子から立ち上がるだけでやけに立ちくらみが生じた。
朝はいつもよりも気だるく、ここ最近本調子でもなかった。
何をしているわけでもないのに眩暈も起こって、下腹部に痛みも覚えた。

それでも「今思えば」と振り返って初めて気づいたのは、やはり忙しかったからか。
多忙さに自分の体を二の次にしてしまうのは、久々だと感じた。
暖かい布団の中とひんやりとした人のぬくもりを味わいながら、意識が浮遊していた気がする。


「――ん……。」


そんな意識が不意に浮上する。
ぼやけた視界も次第に焦点が合って、自室であることを認識できた。

……あれ?
おかしい。確かまだ仕事中で、そう、新しい企画を練っていたはず。


「なぜ自室。」


体のだるさが抜けない。
瞼を開けているのすら体力を使う。


「千奈ちゃん?」


ゆっくりと視線を横にやれば、ベッドに俯せになっている千奈ちゃんの姿が視界に入る。
どうして彼女が部屋にいるのだろう?
そんな疑問を持っていると、彼女の目がうっすらと開いた。


「ナマエさんっ、ナマエさぁん!!」
「ぅぐっ!」


まさに真ん丸と目が開かれると同時に、体に重さが加わる。
変な声出た、喉の奥から変な声出たじゃないの。


「よかったぁ! ナマエさん急に倒れちゃうから、心配したんですよお!」
「倒れた? 私が?」
「覚えていませんか? 息抜きしようって公園に行って、そこで倒れたんですよ!?」
「あー……。」


言われてみれば、千奈ちゃんから昼食がてら休憩のお誘いを受けた気がする。
企画を練れなくて行き詰っていたから、彼女と一緒に許可得て近場の公園に行ったんだった。
ベンチに座って、彼女が飲み物買うっていうからついていこうと立ちあがって――


「くらりしたわ。」
「くらりじゃなくて、ぐらりしてました!」
「ごめんね。」


でもどうして自室にいるんだろうか。
千奈ちゃんが運んだとは思えないし……。


「なんで、自室。」


そう短く問うと、心配そうな千奈ちゃんの表情が一変した。


「んも〜、ナマエさんってば私に秘密はずるいですよ!」
「は?」
「正直、彼氏いなかったら狙ってました……。」
「はい?」


なに? どういうこと?


「黙ってるなんて水臭いっ!」
「いやいや、何が?」
「今更隠さなくても良いんですよ? 千奈は口堅いですから!」
「全然理解できてない私がいる。」


隠すも何も、そもそも何を指して言っているのかがわからない。


「えぇ〜?」
「えぇ〜じゃなくてね、私をここまで運んでくださったのはどなた?」


千奈ちゃんだけでは大人一人を運ぶのは難しいと思うし、
職場の人を呼んだのなら、今頃病室か職場で目を覚ましているはずだろう。
誰が運んでくれたのかは分からないけれども、お詫びとお礼を伝えなければならない。


「今、買い物行ってきてくれてますよ!」
「え。」


運んでもらって、買い物まで?
さすがにそれはない……。


「ちょ、ナマエさん寝ていてくださいよぉ!」
「見ず知らずの人に迷惑かけて寝てられますか。」
「見ず知らずの人じゃないですってばぁ! とにかく寝ていてください!!」
「見ず知らずの人じゃないって、じゃあどんな人だったの?」
「え? えーっと、イケメンです!!」
「……。」


まったく参考にならない……。
気だるさもあって思わずため息がこぼれる。

すると、タイミングよく玄関が開かれる音がした。
知らない人が部屋に出入りするのは気が気ではないが、決して悪い人ではないのだろう。
みるみるうちに千奈ちゃんの表情は明るくなって、


「来ましたよ、彼氏さんっ!!」
「……は?」


彼氏?
……誰の。私の?


「あはは、近い未来のポジションですよ。」
「帰れ。」


声が届いた瞬間手は枕に。
姿が見えた途端に腕は振り下ろされた。


「っと……熱烈な歓迎ですね、ナマエさん。」
「なんで安室さんがいるんですか、なんで平然と家に出入りしているんですか。」
「あはは、」
「そもそも何が近い未来のポジションですか。死んでもあり得ないです。即刻帰れ。」
「どうやらお元気そうで。安心しましたよ。」


平然とした様子でコンビニ袋と家のカギをテーブルの上に置くのは安室さん。
ピンク色のシャツがやけに似合うのが憎たらしい。


「ナマエさんの辛辣さすらをも笑顔でスルーするなんてさすが彼氏さん……!」
「誰が彼氏。」
「照れますね。」
「照れないでください。」
「息ぴったり……!」


目を輝かしてこちらを見るんじゃありません。


「はぁ……。」


確かに見知らぬ人ではなかったけれど、まさか、安室さんだとは……。
どっと疲れが押し寄せて、ベッドのスプリングが悲鳴を上げた。


「経緯を教えてくださると嬉しいです。」
「所用で公園の近くを通ったら、彼女の声が聞こえたんですよ。しきりに貴女の名前を呼んでいたのでまさかと思って立ち寄ったら、ベンチの傍で倒れている姿を発見したんです。」
「……それで、私を部屋に?」
「ええ。彼女には勤務場に電話をしていただいて、タクシーで運ばせていただきました。」
「……ご迷惑をおかけしました。」
「とんでもない。僕は当然のことをしたまでです。」


コンビニ袋からは、オレンジゼリーが出てきた。
「食欲は?」との言葉とともに差し出されてので言葉に甘えてそれを受け取る。


「倒れた原因は過労に貧血でしょうね。眠れてますか?」
「最近は、あまり……。」


……。
……いや、どうして過労に貧血って……。


「千奈さんから聞きましたよ。新しい企画で忙しそうだと。」
「ナマエさん、眩暈もたびたび起きていたみたいでしたし……。」
「一度、病院で診てもらうのが確実ですが、大方考えられる原因は想像つきます。」


思えば下半身がやけに重く、鈍い痛みもある。
違いなさそうだ……。


「すみません、ありがとうございます。千奈ちゃんも、ありがとうね。」
「とんでもないです! 私は何もしてませんし……安室さんが来てくれなかったら、何もできませんでした……。」


しょんぼり、と肩を落とす千奈ちゃんに安室さんがにっこりと微笑む。


「千奈さんは職場に電話したり、ナマエさんの介抱してくれたじゃないですか! 僕も安心して外に出られましたし、僕こそ居てくださって良かった。」
「あ、安室さぁん……!」


あ、今きゅんとしたな。
分かりやすい千奈ちゃん。


「そ、それじゃあ私はこれで!」
「ん。ありがとう。」
「いえ! 係長が明日は休暇にしておくと言ってました!」
「そう、係長にもお礼言わないと。」
「きっと心配してますよ。また明日来ますね!」
「ええ。」


千奈ちゃんは安室さんに軽く頭を下げて帰宅していった。
窓を見るともう夜になっていたみたいだ。時刻も遅い。
付き合わせてしまって申し訳ない……。


「ふぅ、」
「体調はどうですか。」
「なんとか……。」
「珍しい、ナマエさんがこんなに崩すなんて。」


それほど忙しかったんですか?
と、安室さんはちゃっかり自分の分のゼリーも出しながら問うてくる。


「まあ、ほどほどに。本当にご迷惑お掛けしました。」
「いえいえ。ナマエさん軽いし細いし、食事もとれていないんじゃないかって心配になりましたけどね。」
「……はあ。」
「僕としてはもう少し肉付いてくれると嬉しいなぁ。やっぱりほら、抱き心地とか大事ですし。」
「誰も安室さんの趣味聞いていません。」
「えぇ?」
「えぇ? じゃなくて。」


ベッドに腰を掛けている状態から動く気にもならずに、ゼリーのふたを開ける。
輝かしい橙色に付属のスプーンを突き刺した。
簡単に固形を掬うも、口に運ぶ前にぽとりと落ちたからもう一度拾って口に含む。


「……拭きましょうか?」
「ふぁい?」


あぁ、ちょうど口に含んだ時に声をかけないでほしい。


「あ、今の可愛い。おっと思わず手が、」
「滑らなくていいです。」
「……。汗すごいなと思って、良ければ拭きますよ。」
「謹んでご遠慮いたします。」
「残念。その姿も十分艶やかで僕は満足なんですけどね。」
「ゼリー投げつけてほしいんですか。」
「勿体ないですよ。」
「安室さん撃退できれば安い犠牲です。」


簡潔に答えると肩をすくめて苦笑された。
自分の発言の末だと分かっているのだろうか。

空腹にはゼリーも貴重な食材であって、するすると胃の中に落ちていく。
スプーンを数回行き来させるだけで容器は空になって、ふぅと溜まっていた空気が零れた。
椅子に腰を下ろしていた安室さんは立ち上がって、そっと私に手を伸ばしてくる。
どうやら容器を回収してくれるらしい。


「ありがとうございます。」
「とんでもない。」


小さな容器が私の手から安室さんの手に移る。
かすかに触れた安室さんの体温は冷たくて、どこかで感じた気がする熱を持っていた。


「千奈さん、いい子ですね。」
「手だしたら彼氏に殺されますよ。」
「僕にはナマエさんだけですよ。」
「千奈ちゃんが安室さんが彼氏だと勘違いしてましたけど。」
「最高ですね!」
「最悪ですよ。」
「えぇ?」
「だから、えぇ? じゃなくて……はぁ、」
「僕はこんなに好きなのに。」
「はいはい。」


体の重さが今ので倍増した気しかしない。
千奈ちゃんへ説明するのはまた明日にするとして、


「安室さんも、遅くならないうちにどうぞ、」
「え?」
「え?」


目をぱちくりとしている姿は少し可愛い。
が、次の瞬間さらに枕を投げた。


「一緒に寝ていいんですか?」
「失せてください。」


どこをどう間違えて解釈したらそうなる……!


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