あなただから知りたい―1
「ナマエさーん、コレどうします?」
「あー……。」
ひらりひらりと紙が目の前で踊った。
それを横目で見ながら、お気に入りのマグカップに口付ける。
「それ、いつまでだっけ。」
「明後日なんですよね。」
「うわ、最悪。」
「今日明日は帰れませんよぉ。」
新人研修の時から面倒を見てきた後輩が重々しく溜め息を吐く。
しかし、その処理は私がするということを忘れないでほしい。
「辞めるのはいいんだけど、後始末させないでほしいわ。」
「紀本さんが結婚だなんて今でも信じられませんねぇ。」
「やっぱり驚くよね。一生独身ってイメージだったし。」
つい先日、どこぞの診療所に勤める医師と結婚した紀本。
盛大に送別会を行って彼女が退職した後日、彼女が書いた書類にミスが見つかった。
当然、本人がいないのだから別の人間がその処理に回る他ない。
「それにしても、まさか紀本が結婚とは……。」
無駄なことが一切嫌いでなかなか癖のある性格な彼女。
大学時代からの同期であるから、他の同僚よりも彼女を知っているつもりだ。
紀本は、男を作るくらいなら自分のスキルアップをするというタイプだった。
なによりも彼女の背後に男の影なんて一瞬たりともちらついたこともなかったのに。
「運命だったのかも。」
「え?」
「あの紀本が結婚だもの。きっとその相手が運命の人だったんじゃない?」
「…………。」
え、なに?
なんで急に黙るのよこの娘。
「言いたいことがあるのならどうぞ。」
「……いや、……ナマエさんがそんなこと言うなんて意外で。」
「ちょっと、どういうこと。」
思わず彼女の顔をジトっと見ると、顔を引き攣らせた。
私、そんな睨みつけてはいないんだけど……。
「ナマエさんにはいないんですか?」
「何が?」
「運命の人ですよ〜!」
「まさか。」
自分で始めに発した言葉とは言え「運命の人」だなんて気持ち悪い。
なんだか鳥肌が立ってしまった。
「即答具合が逆に怪しいですねぇ〜!」
「ちょっと千奈ちゃん。」
「ごめんなさーい!」
てへっ、と小首を傾げる千奈ちゃんは可愛いけれども。
さて。これ以上休憩時間を延ばしてはいけない。
「はい、千奈ちゃん戻るよ。」
「えぇ〜? ナマエさんの運命の人は誰なんですか?」
「いません、いません。支店長に怒られても知らないからね。」
いつぞやの事件から、支店長が変わった。
今度来た人はどうにも怒りっぽくて、正直付き合い難い。
空になったマグカップを素早く洗いしまうと部屋を後にする。
後方で慌てて千奈ちゃんが追ってくるのが分かった。
にしても、だ
――……運命の人、ねぇ。
そんな人がいるなら一度でいいからお目にかかってみたいものだ。
「どう思う?」
気になって目の前の彼女に聞いてみると「ん〜?」と可愛らしく悩み始めた。
ああ、可愛い。千奈ちゃんも可愛いけど、やっぱり梓ちゃんが一番だ。
「本当に出会えたら、凄く素敵よね。」
「出会えたら、ね。」
「えぇ〜?」
え、なに?
「…………。」
「……梓ちゃん?」
「…………。」
「ちょっとー梓ちゃん、なあに?」
凄く、何か物言いたげに梓ちゃんが見てくる。
なんだろうこの視線。つい先日も感じたことのあるこの視線。
「ナマエにはちゃーんといるじゃない。」
「いる? 何が?」
「運命の人!」
「…………。」
…………え?
運命の人って、誰?
「え、誰?」
「え?」
「いやいや。……え?」
「…………。」
「梓ちゃん?」
「…………。」
「……ちょっとー、何その目。」
千奈ちゃんの時よりも酷く疑い深い瞳だ。
それでいて、どこか楽しさを含ませていて。
あれ? 梓ちゃんってこんな悪女のような瞳してたっけ?
「ただいま戻りました。」
そんな中で、からんころんと客を招き入れる鐘の音と共に声が響く。
本来ならばお客だと思い、梓ちゃんも歓迎の言葉を放つはずだが相手が相手だ。
「あれ? ナマエさんじゃないですか! いらっしゃい!」
「どうも。」
いつまでアルバイト続けているんだこの三十路手前は。
と、思わず暴言が零れてしまいそうになるほど、憎たらしい笑みを浮かべている安室さん。
両手には少し離れたところにある大型ショッピングモールの袋が握られていた。
「お2人で何を話していたんですか?」
袋の中身を取り出しながら、安室さんが興味ありげに訊いてくる。
誰が教えるか。そう返そうと思った刹那にまさかの梓ちゃんが口を開いた。
「ナマエの運命の人について、ですよ!」
「あ、梓ちゃん!」
「もう、そんな照れなくてもいいじゃない。」
「そういう問題じゃないってば。」
ただでさえ好奇心旺盛な安室さんのことだ。
どうせ「え、誰ですか!」と更に深く掘ってくるに違いない。
これは話しが長くなる前に退散した方が――……。
「……魂飛んでる。」
呆然と立ち尽くす安室さんの手からは、真っ赤な林檎が転げ落ちた。
あーあ、もったいない。
「えっと、それは、つまり。」
てっきり暫く飛んでいてくれるのかと思っていると、すぐに覚醒したらしい。
口元を引き攣らせながら、なんとか弧を描いている姿が滑稽だ。
「まさかと思いますが、ナマエさん、その人を見つけたと?」
「…………。」
待てよ?
ここで肯定すれば安室さんの執拗なアプローチも少しは落ち着くのではないか?
少しは遠慮して、距離を置いてくれるかもしれない。
「はい、見つけましたね。」
「!」
「あら!」
いないけど。
嘘も方便というやつだ。
珈琲を飲んでから肯定の言葉を発すると、梓ちゃんが楽しそうに微笑んだ。
きっと彼女としては、その運命の相手が安室さんだと思っているのだろう。
この勘違いも早急にどうにかしないといけない。
とは言え、これで安室さんからのアクションも少しは――
「こ、こんなところで公開処刑ですか……。」
「はい?」
「照れるな、まさかナマエさんにそこまで想ってもらっていただなんて。」
「…………。」
……待て。
待て待て、もしかして勘違いされてる?
え、嘘でしょう?
「あの、安室さん?」
「僕の想いきちんと伝わってたんですね。
ナマエさんてば誤魔化すから、てっきり……鈍いし。」
「おいこら最後。」
鈍いとか失礼極まりない。
「僕も、ナマエさんのことは一生を通しての運命の相手だと、そう感じていますよ。」
「ないわ。」
「ナマエさんのその照れが可愛らしい。」
「うげぇ、」
どうやら安室さんはよほど重症のようだ。
誰が相手は安室さんだと口にしたのだろうか。
どれだけ彼の頭は都合が良い方向へと変換する機能を持っているのだ。
「安室さん、嘘ですから。」
「え?」
「運命の人なんて信じていませんし。
いたとしても安室さんとか絶対にありえないんで。」
このまま勝手に自分の世界に入られても困る。
早急に対応せねばと、素直にそう告げると安室さんは目をぱちくりさせた。
梓ちゃんはつまらなさそうに眉を下げ、口元を尖らせている。
正直言って、凄い愛らしい。なにそれ。
「嘘、ですか?」
「はい。こういえば安室さんも黙ると思ってたら逆効果だったという結末です。」
「……あぁ、なるほど。」
こういう面では察しが良くて助かる。
「ナマエさんは、僕にやきもち焼かせたかったんですね。」
「……はい?」
訂正。
全く、助からなかった。
「そんなナマエさんも可愛いですけどね。」
転がっていた林檎を拾いながら、安室さんが言葉を紡ぐ。
「でも、例え理由が嫉妬させるためだとはいえ、
ナマエさんの運命の相手が偽りでも他の男というのは気にくわないですね。」
「いや、理由は貴方を遠ざけるためですから。」
「またまたぁ。」
「思考回路、正常に働いています?」
「もちろん。常にナマエさんを中心に。」
「なんだこの人。」
なんていうか。
こういうのを残念なイケメンというのだろうか。
というか、なんで苦手な人物とこんな長々と話さなければならないのだろうか。
そろそろ家に帰ろう。そう思って珈琲を飲み干すと、携帯が鳴った。
「鳴ってますよ。」
「知ってますよ。」
そんなに耳遠くない。
安室さんをひと睨みして、電話を手に取る。
「はい。」
≪あ、ナマエさん!≫
千奈ちゃんだ。
「どうしたの?」
≪実は私、次の休みに外出なくちゃいけなくて。
出来ればナマエさんに代わりに出てもらいたいんですけど……。≫
「それはいいけど……どうかしたの?」
千奈ちゃんはそこまで長く務めているわけでもない。
後方事務補助員からテラーに上がったばかりが、外に出て仕事だなんて早すぎやしないか?
≪あっ、実はデートで、≫
「今の話やっぱなしで。」
≪あぁあああナマエさぁん!≫
なんだ、この娘は……!!
≪お願いしますよ〜一生のお願いですからぁ!≫
「デート如きで仕事休まないでよ。」
≪如きってなんですか、如きって〜!やっと手に入れられたプレミアチケットですよ!?
これは何が何でも、愛する彼氏と! 行かないわけにはいかないじゃないですかぁ!≫
いやいやいや。
「あのねぇ、そういうのは前もって有休とるとかしといてよ。」
≪だって絶対とれないと思ってたチケットだったんですよ!≫
「まったく……。いい? 今回だけだからね?」
どうせ休日に大した用事もいれていない。
仕方がない。ここは可愛らしい後輩のために代わってあげるか。
そう思い返すと、ぱあっと明るい声が耳に届く。
≪ありがとうございます〜ナマエさんっ!≫
「はいはい。そしたら、楽しんでらっしゃい。」
≪はぁ〜い! 失礼しまーす!≫
……支部長に知られたら、酷いことになりそうだ。
溜め息を零しながら携帯をしまうと、梓ちゃんが柔らかな表情を浮かべていた。
なんだろう?
「ナマエ、優しいのね。」
「とんでもない。」
「そう? せっかくの休みなのに。」
「私が休む時にバリバリ働かせるからいいの。」
「あら、そう。」
珈琲と一緒に頼んでいたチーズケーキの残りも食べてしまう。
この口どけが好きで、本当は紅茶と飲みたいところだけどやっぱり珈琲は譲れない。
「…………。」
電話を切ってから無言な安室さんが地味に気味悪いけれど、無視だ。
そろそろお暇して、明日に備えて早めに休もう。
「それじゃ、私はこれで。」
「うん。ありがとうございましたー!」
「あっ、お気をつけて、ナマエさん。」
「どうも。」
.
次に続く