小説 | ナノ


あの夜何があったのか、名前は誰にも話そうとしない。
Aは肩を落とした。ここ数ヶ月、やっと島を出る前の明るさを取り戻し始めたところだったのに。恋人を亡くして島へ帰ってきた、あの日に返ってしまったようだ。
一人で連絡船のタラップを降りてきた幼馴染。港で働くAは、何気なく目にしたその姿を忘れることができない。

それでもやはり朝は来る。
名前は見舞人用の椅子で目の下に隈を作ったAに気付くと、申し訳なさそうに「おはよう」とはにかんだ。

「傍にいるから」

あいまいに頷いた名前はどこか穏やかな表情で、Aは落ち着かなかった。白い病室をぐるりと見回して、古い机の下や花瓶の影、どこにも不吉な影のないことを確かめる。

勤め先を休むのは難しいことではなかった。なにしろ、Aが働く花屋は名前が生まれ育った家のはす向かいにある。
『彼』について上手く伏せた事情を話せば、引退したミセスは休暇を快諾して、見舞の花束を用意してくれた。

「店に出るのは久しぶりね。すっかりAさんに任せっきりだから」
「すみません」
「いいのよ。もし気になるなら休暇じゃなくて、出張だと思ってくれればいいわ。花束、お願いね。名前ちゃんも、色々あったから。火事のショックで思い出しちゃったのかもしれないわね」

遠慮はあったが、Aは自分の考えを素直に話すことにした。

「しばらくは一緒にいて、様子を見られたらと思っています」
「それがいいわ。今はどうしてるの」
「Cが……看護師の友人が非番だったので、お願いしてきました」
「そう。なら安心ね。でも、幼馴染のほうがいいでしょう? はやく行ってあげなさいな。もうすぐ夜よ。元気な人だって、心細くなるわ」


.

今日は夜勤ではない。友人の頼みで個人的に病室の扉を叩くと、件の彼女は少し困ったような表情で迷惑を詫び、親切の礼を言った。
どうやら、彼女、名前はなかなかの好人物だ。確かに疲れた様子だが、心地よいテンポで会話は続き、時には声を出して笑うこともある。

「Cさん、詳しいんだ。あの化粧水、懐かしいなあ」
「ボトルが可愛いのよね。軽いし、私もよく使ってたわ」
「島を出る時にもね、……ポーチに入れてたっけ。まだ売ってる?」
「ええ、でも手に入るかは微妙なの。在庫があるかどうかね。今もかなり人気があるみたいだから」

Cは通い慣れた化粧品店の景色を思い浮かべた。同い年の名前と同じく、Cも学生の頃にはよく使っていたブランドだ。前回の入荷は……

「二週間くらい前だったかしら」
「そうなんだ? なら売り切れちゃってるかな」
「そうかもしれないわね。あ! そうよ、今ポーチに新しいのが入ってるわ。試してみない?」
「……いいの?」
「ええ、ちょっと取って来るわね」

もうすぐ来るはずのAを交えて、夜通したわいない話に花を咲かせるのもいいだろう。Cはそう思った。
数分後。病室へ戻ったCの悲鳴が、その後ろ姿へ手を振りかけたAを走り出させた。


.

誰が、病室の明かりを消したのだろう。
この季節にしてはつめたすぎる夜風がカーテンを揺らす。青白い月光が『彼』の白い肌を、ほのかに浮かび上がらせていた。
『彼』だ。Aには一目で分かった。

ピエロのような化粧を施された顔に血の気はなく、悲し気な目はどこかこの世のものとは思えぬ色を帯びている。
窓辺に腰掛けた『彼』はその膝に乗せるようにして、眠る名前を抱いていた。

恐怖のあまり凍りつくAとCを気にする様子はない。彼は名前だけを見つめている。
動かない名前の体は黒いコートに埋もれて所々が見えず、ただ、投げ出された左腕の白さだけが目に焼き付くようだった。

月光の下で、世界はモノクロにほど近い。だが男のシャツに広がる黒は、本当は、赤い色をしているのだ。
Aは気を失ったCを支えた。頭のいいCは、きっとAより早く事態を理解してしまったはずだった。

「……名前……」

意識のない名前の首を、鎖骨を、肩を、男の長い指がゆっくりと滑る。
悲しげに、口惜しげに。
ふと、男が顔を上げた。びくりと震えたAを、男はじっと見ている。

「あんたは……」

Aはこの時自分が何と答えたのか、覚えていない。男は沈黙の後「名前の友達か」と呟いて、また黙り込んだ。
そうだ、Cの悲鳴はあんなに大きく聞こえたのに、どうして誰も来ないのだろう!

「おれの手紙、見たんだよな」

頷いてから、Aはこぶしを握り締めた。やはりあのメモは、死者からの手紙だったのだ。

「おれは、名前を連れていく。お前らに邪魔されない時に……」

窓辺から腰を上げ、立ち上がった男は随分と大きい。男は名前をベッドに寝かせ、へたり込む二人のすぐ側を横切って、病室を出た。
扉が閉まる。安心しかけた瞬間、廊下から轟音が聞こえた。何か重いものが落ちたような音にAは震え上がったが、何も起こらない。

突然、夜の町のわずかな気配が部屋に戻った。壁に縋るようにして照明をつける。Aはゾッとした。今まで、それが全く聞こえていなかったことに気付いたからだ。

名前は静かに眠っている。

……

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