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 元気でやれよ、と人ごみの中へ男性達が去って行き、テントの入り口に一人残される。
 また一人、タンカで傷だらけの患者が運ばれてきた。邪魔になるだろうと一歩、痛む足をごまかして脇へ退く。確かに怪我はしているが命に関わるものではない。血も止まっている。明らかに医者の手が足りていない中に入っていくのは気が引けて、テントの柱に寄りかかって道行く人を眺める。患者が空いたら入ろうか……いつになるだろうか……。
 左脚を見下ろすと、傍目にはグロテスクな赤黒い血の痕。洗い流せる場所でも探しに行こうかと、寄りかかっていた柱から自立する。

「キミは、入らないのか?」

 隣から声がして、見ると片手に紙袋を抱えた少年が私を見ていた。

「私よりも重症な人、いっぱいいるから。入りづらくて」
「だが、その脚は……」
「けっこう、見かけだけだから。平気。ねえ、水の補給場所ってどこにある?」

 先ほど水の入った瓶やタンクを運んでいた人を何人も見たから、水が引いてあるわけではなく数か所に補給所があるのだろうと予想していた。

「それなら、この先にあるが……その怪我で水は運べないだろう」

「傷口流すだけだから。ありがとう」

 少年が指さした先へ一歩、踏み出す。怪我のある左脚に重心を掛けた瞬間、つま先からてっぺんまで激しい痛みがつんざいた。思わずよろける。これは思ったより骨が折れそうだ。いや、実際折れてるのかも。

「キミさえ良ければうちへ案内する。補給所までよりは近いし、傷を流すだけの水ならある」

 背後から呼び止める提案がひとつ。顔だけそちらに向けると、それに、と少年は続けた。

「そのままのキミを、放って置けない」






――――――――








 少年の宣言通り、彼の住まうテントは医療テントからさほど遠くない所にあった。少年の肩を借りながらの移動だったので時間を食ってしまったが。
 
 簡易ベッドに座らされ少し、少年は濡れタオルを手に戻ってくる。礼を言って受け取ろうとすると彼はそれを無視して跪き、私の脚を持ち上げ怪我の具合を見る。見ても気持ちのいいものではないだろうに。少年は痛ましげに表情をゆがめた。
 そうして、つま先から丁寧に血と、埃と、塵を拭き取り始める。

「いいよ、そこまでしてもらわなくても、自分でやるから――いっ!」
「、すまない」
「大…丈夫…。自分でやるから」
「……そうか」

 泥と血まみれになったタオルと、見られるぐらいには肌色を取り戻した脚。その脚を伸ばして具合を見る。見ず知らずの人間を助けたり面倒見てくれたりと、今日出会った人々は皆とても人が良い。
 用済みのタオルを洗おうにも洗い場が分からない。どうしようかとぼんやりしていると、少年がさっさと奪い取ってしまった。

「そこまで、やらせるわけには」
「構わない。今はあまり動かない方が良い」
「…ありがとう。助かった。えっと…」
「ユートだ。キミは」
「ユート。ありがとう。私は、」

 自分が最もよく知る、当然として出てくるはずの固有名詞。
 意識せずとも自身の一部として馴染んでいる筈のそれ。だからこそ深く考えずに口を開いた。

「私…」

 開いた口からは、何も出てこない。

「……?どうしたんだ」
「ちょっと待って」

 もう一度口を閉じたり開いたりしながら自身の名前の取っ掛かりを求めてみるも、出てこない。
 自分の名前だけ口の動かし方を忘れてしまったかのようだと感じながら、もっと別の問題があることに気付く。口の動かし方を忘れたのではない。そもそも自分の名前を忘れているのだ。
 空白とも違う。塗り潰されているとも違う。無だ。自身の名前など最初から無かったかのようで。

「私は……私は」

 親に散々呼ばれていた筈の名前。何人もの友人に呼ばれた筈の名前。記憶の中に自分の名のヒントを探ろうとしても、何一つ思い出されない。
 ――それどころか、自分を構成している筈の記憶さえ、脳のどこにも無い。

「名前……名前……んん」
「まさか、思い出せないのか?」
「あー……うん。いろいろ?」

 どこか他人事な自分より、赤の他人のユートの方が辛そうな顔をするのが、少し可笑しかった。