▼  分岐と罠





「……やっぱり読めない」

ずらりと整列した古代語を前にレイネは親指の爪を噛む。トマシュから推薦された女神伝説に関する書物を受け取って七日が経っていた。
ある日世界に降り立った女神が神の御業をもってフォドラを繁栄させる――。
おとぎ話じみた神話はしかし、この世界に魔道という科学では説明できない技術が存在することで、完全な絵空事だとは言い切れない。そしてこの“女神”の奇跡が異なる世界を繋ぐほど強大なものであったら?そうでなくとも、科学で説明しきれない現象を知る事は“自分”がここに存在する理由の契機になり得る。そう考えてなるたけ古い文献を書庫から借りて来たものの、突き当たったのは言語の壁だった。
女神が居たとされるのは千年前。言い伝えられたのが以降だとして、それでも現代とは文字が変わっている。多少現代語の面影はあるものの、それを糸口に読み解くのは至難の業のように思えた。
もちろん翻訳機などという便利なものは無い。これでは一冊訳しきるだけでも途方もない時間が掛かることだろう。

理学や女神について調べ回っていたら魔道の技術が勝手に上達するという副産物はあったものの、本題である知りたい情報はつかめないまま。

「ひとまず女神関連は諦めて理学方面からアプローチかな……」
「あぷろーち」
「そう、アプローチ」

独り言に拙い返事。油の切れたブリキじみた動きで振り返れば、そこにはベレトがいた。

「……びっくりした」
「すまない。集中していたから話しかけられなかった」
「あー…えっと、気を遣わせたね。気にしないで話しかけてくれていいのに」

どこか気まずそうに動揺するレイネに対して実は本当に気配を消していたと言い出すタイミングを失ったベレトは、屋上に散らばる書物に目を落とした。

「勉強?」
「いや、個人的に気になる事を調べていて……けど、行き詰まってるところ。昔の本なんて専門学者か当時生きてた人でもない限り無理かな」

ハンネマン先生なら読めるだろうか?大司教であるレア様に接触できればあるいは……。
思考を巡らせる横でベレトは膝の上で開かれた頁を何か思考するように、あるいは啓示でも受けるかのようにじっと注視している。

「ベレト先生なら読めますか?なーんて」

先生とはいえ、つい先日まで傭兵だった身。古代語は教養を超えた学問の領域だ。
感情のごく薄い青獅子学級の教師に対して冗談は効果が薄いという事を知らない金鹿学級の生徒が笑いかけた先で、静かに口は開かれる。

「“かの息吹は人々の傷を癒やさん
 かの声は人々の心を癒やさん
 かの衣は大地を癒やさん”」
「……え」
「らしい」
「まさか、読めるの……!?」

いつもと同じ済ました顔つきを穴が開くほど見つめる。信じ難いが、嘘を言っているようには見えない。彼の変わらない表情には不思議と嘘を言っていないと思わせられる説得力があった。

「でも、でたらめらしい」

――なぜ伝聞調?

「じゃ、じゃあこっちは?」
「分かる」
「こっちは?」
「分かる」
「わー……」

周りが彼を不思議だと評するのも得心がいく。彼を教師に任じたレア司教の慧眼には驚くばかりだ。

「レイネは、どうして女神について調べようと?」
「…女神の奇跡的な力について興味があって」

まさか異世界に渡る力が実在するかどうか調べています、と口にするわけにもいかない。
嘘ではない建前を述べればベレトは口元に手を宛てがって、何か思考しているようだった。

「レイネは、理学と信仰に興味がある?」
「そうだね、個人的な興味ももちろん、理論についても気になるよ」
「…そうか、なら」

手が差し伸べられる。腕を辿って見上げた先で、小さく首が傾げられた。

「青獅子学級に来ないか」