ノーダウト(1/3)


「蛇のあやかし?」
男はグラスを口から離した。
グラスの中には薄黄金色のシャンパンが注がれており、沸き立つ細かな泡の様子から、乾杯して間もないことを告げていた。
「そう、出るらしいぞ。なんだって人の血を求めて夜な夜な鳴くらしい」
「やめてくれ、蛇は昔から苦手なんだ。話を聞くだけでも鳥肌が立つ」
宵闇に包まれ、外は暗い。しかし政府が催した審神者懇親会の会場は眩い光りに溢れ、呼び寄せられた各地の審神者達は用意された食事や酒、別地区の審神者との会話等、各々パーティーを楽しんでいた。
「そもそも蛇は鳴かない」
「だからあやかしなんだろう?」
シャンパングラスを片手に持った二人の男審神者達も、今日ばかりは髪を整え、スラックスとジャケットという装いで着古した普段着から脱却していた。
「時間遡行軍だけでも大変なのに妖怪退治なんてやってられるか」
「同感。今日だって提出催促きてる報告書投げ出して参加してるのに……」
「やめろ、俺だって明日帰ったら報告書三つ仕上げなきゃならないんだ」
審神者に必要なのは懇親会で振る舞われるタダ酒タダ飯ではなく、出陣も報告書提出も何もないただの休日だ、と肩を竦める男を同僚の男が肘で小突く。
「だったら懇親会なんて参加しなければ良かっただろう」
「おいおい冗談言うなよ……。わざわざ本部様が用意してくだすった場だぞ? 男まみれの職場で唯一女性と接点が持てる会を逃す愚か者がいるのか?」
「いない!」
「まったくだ!」
本丸で過ごしても側に居るのは歯軋りしてしまうほど飛び抜けて美しい同性の臣下。職場に華はあるが男達の心に華はない。ゆえに男審神者達は自身の心を潤す華を探すため、提出を控えている報告書を押し退け、審神者懇親会へと参加していた。
「職場恋愛大歓迎!」
「目指せ職場婚!」
そして審神者に必要なのは懇親会で振る舞われるタダ酒タダ飯ではなく、日々の出陣で荒んだ心を癒し、共に支えることのできるパートナーだ! と、まるで決起するかのごとく、男審神者達がグラスを掲げた時だ。
「……っと」
盛り上がる男審神者達の合間を縫うように、一人の女が通り抜けていく。
甘い香りが男審神者の鼻を擽った。
柔らかそうな髪を揺らした女は真珠のネックレスと黒のニット、膝下まである白いスカート姿の女審神者であった。黒と白のモノトーンで纏められた格好であったが、シンプルがゆえに女審神者の雰囲気が如実に伝わる。慎み深い丈のスカートから伸びる足は白く眩しく、清楚でありつつもそれが男達の視線を誘った。
「あ……、ごめんなさい」
ぶつかりそうになった肩先に女審神者が立ち止まっては振り返り、小さく頭を下げた。
頭を下げた女審神者は飛び抜けて美人……ではなかったが、小花を散りばめたかのような可愛らしさがあった。
こちらに振り返った瞬間、スカートの裾と両鬢に下がった後れ毛がふわりと翻り、男審神者の胸を甘くくすぐった。男の殺伐とした心に、まさに華やかな春風が吹き込む。
「すみません、ジャケットを汚してしまいました……」
暖かい春風に吹かれた男審神者へ、女審神者が歩み寄ってきた。いや、吹いた春風は彼女が吹かせてくれたのだろうか。
小さなハンドバッグから綺麗にたたまれたハンカチを取り出し、男審神者の肩にそのハンカチを軽く当てる。小さな爪がついた手は白く、思わず握り締めたくなるほど華奢だった。ぼうっとその手元を見詰めていると、女審神者が小首を傾げていた。
「あっ……す、すみません……!」
女審神者とハンカチを交互に見て、それが濡れたジャケットへのものだと理解するのに三秒ほど費やした。いやそれ以上かかっていたかもしれない。
どうやら手にしたグラスから飛び散った飲み物がジャケットに付着したようだ。それを彼女は拭ってくれていたのだと思うと、気付かず不躾に見詰めてしまったことと、わざわざハンカチを取り出して拭いてくれた親切に男審神者が微かに頬を染める。
男審神者の反応に女審神者が少しだけ口角をあげ、その優しそうな笑みに思わず見惚れてしまう。
「いえ、こちらこそ。一言声をかけて通れば良かったところを申し訳ございません。クリーニング代を……」
「と、とんでもない……! 俺……、私が勝手にこぼしただけなので……!」
実際、男が大仰にグラスを掲げなければシャンパンは飛び散ることもなかっただろう。幸い、シャンパンは濃い色のものではないし、かかった量も少量で、すぐに彼女が拭ってくれたおかげで全く目立っていない。
「でも……」
「本当……っ、大丈夫なので! 気にしないでください……!」
目の前の女審神者はこれといって男審神者の好みでも、特別可愛いわけでも美しいわけでもない、ただの女の子だ。しかしどうしてか、申し訳なさそうに顎を引く仕草や控えめな話し方、雰囲気が愛らしく、つい目がいってしまう。
「あ……、新しい飲み物を……」
近くを通ったウェイターから、女審神者が新しいシャンパンをひとつもらってはグラスを男審神者へと手渡そうとした。
男審神者はそれにぶんぶんと首を振る。
「い、いえっ、手持ちのやつがまだ残っていますし、あ、あのっ、良ければ貴女が……!」
新しいシャンパンを差し出した手を断り、そのまま貴女が飲んで欲しいと告げると女審神者は手元のシャンパンを見詰めては少しだけ困った表情を浮かべた。
「いえ、私は……」
酒はあまり得意ではないのだろうか。苦笑した女審神者にそれならジュースでも用意させようと男審神者が考えた時。
「――少し、飲み過ぎだ」
シャンパングラスの小さな口に、黒い指が蓋をする。いや、よく見るとその手には黒い手袋がはめられている。
女審神者の肩口から黒い衣服を纏った腕が華奢な体を後ろから抱くように伸びていた。
女審神者が顔だけ振り返ると、そこには白に近い薄緑の髪の刀剣男士が立っていた。
黒を基調とした丈の短いジャケットと、すらりとした黒袴を履いた男は源氏の重宝、膝丸だ。
膝丸は女審神者の顔を見るなり、グラスに蓋をした手で審神者の頬を撫でた。
「顔が赤い……。俺のいない隙に何を飲んだ」
「隙って……。の、飲んでないよ。乾杯の一杯しか飲んでない」
「なら、酔いが回ったか? 大人しく側にいればいいものを」
「あ、空いたグラスを戻しに行ってただけだよ……」
指の背で頬を撫でられた審神者が擽ったそうにも、恥ずかしそうにも身を捩ったが、膝丸の手は構わず審神者に触れていた。
膝丸の登場に先程の楚々とした女審神者の表情は砕け、幼さを滲ませた、どこか放って置けないものとなった。それは二人の信頼関係を見せ付けられているように男審神者は感じられた。いや、信頼というか、これは……。
「――何用か」
男審神者が女審神者のことを見続けなければ、膝丸はこちらに目を向けようともしなかっただろう。
刺すような鋭い目が男審神者へと向けられる。
「あっ、いや、その、な、なんでもないような、あるような……」
先程まで麗らかな春風に吹かれていた男審神者だったが、膝丸に向けられた視線で一瞬にして冬の嵐に晒された心地になった。膝丸に睨まれ、すぐに勢いを失してしまった男審神者は、どうか吹雪よ過ぎ去ってくれ、と心から懇願せざるを得ない。
目を泳がせた男審神者に、膝丸は女審神者の方へと視線を戻した。
「何かあったのか」
「あ、うん。ちょっと……」
膝丸に何かあったのかと問われ、女審神者は男審神者の方をちらりと一瞥したあと言葉を濁した。
すると女審神者の視線につられたように膝丸の目が再び向けられる。梔子色の目は男審神者へと向くなり途端に冷やかなものへと変わり、男審神者は思わず『気を付け』の姿勢を取ってしまう。
すると女審神者が本当に何でもないのだと、膝丸の視線を遮るよう二人の間に立った。
「あ、えっと……少し休憩しに行こう、膝丸。疲れたよね?」
「俺は別に……」
「いいから、ね?」
膝丸から不穏な気配を感じ取ったのか、女審神者が膝丸を出口へと連れ出そうとした。
「……あっ…………」
女審神者が踵を返した。そのまま何処かへ行ってしまいそうな女審神者を男審神者が残念そうに眺めていると、先程まで話していた別の男審神者がその脇を突く。
見れば顎先で「行け」「今行かずしていつ行く」と示しており、男審神者はそれに「いや、だって膝丸が……」と弱気な顔を見せたが、焚き付ける友人はそんなことなどお構い無しだ。
「いいから行け!」とばかりに男審神者の背中が叩かれた。なかば押し出されるようにして前に出た男審神者はなけなしの勇気を振り絞り、再度口を開いた。
「あ、あの!」
向けられる視線に男審神者の心臓が痛いくらいばくばくと鳴り出した。……主に膝丸の視線に。
「少しだけ、お話しませんか……! お手元のシャンパンが無くなるまで……!」
お酒が駄目なら、ジュースでも! と男審神者は慌てて付け足し、多少強引であっただろうかと思いつつもそう声を上げた。
「…………」
すると女審神者は手元のシャンパンと男審神者の顔を見比べた。
……下心が見え見えだったであろうか。
「あのっ、その、べっ、別地区の審神者とお話しする機会なんて、なかなか、ありません、し……」
下心がない、とは言わない。むしろ下心しかない。しかし下心無くして関係など築けるわけがない。だいたい、懇親会の知らせにだって書いてあった。審神者相互の親睦を深めるまたとない機会、だと。
それはつまり、そういうことだろう……!
そう男審神者はしがみつく思いで女審神者を呼び止める。すると男審神者の必死すぎる思いが通じたのか、少しの間を置いたあと、女審神者が小さく笑いかけた。
「では……、い――」
一杯だけ、であったのだろうか。それともまた別の言葉だったのだろうか。おそらく好意的な返事であったであろうそれは、女審神者のシャンパングラスを取った手に奪われてしまう。
「…………!」
奪われた女審神者が声を上げる間もなく、くいっ、と形のいい唇へとシャンパンが流し込まれていく。
グラス半分まで注がれていたはずの中身が数秒も待たずして無くなり、男審神者を中心にその場にいた審神者達がその光景に釘付けになってしまった。
グラスを奪われた女審神者さえそれを驚いたように眺めていたくらいだ。
「……俺の主はあまり酒が得意ではない。申し訳ないが、失礼させて頂く」
絶対申し訳ないなんて欠片も思っていないだろう。と、シャンパンを飲み干した膝丸が一言告げた。
「行こう、乾杯が済んだら戻ってもいいのだろう?」
「う、うん……いいはずだけど、だ、大丈夫……?」
一気に飲み干したそれに女審神者でなくとも皆が「あの堅物膝丸が……」「イッキ……」「大丈夫なのか」と心配そうに見ていたが、当の本人は顔色を変えず「何がだ?」と首を傾げ、ウエイターへと空のグラスを預けていた。
そして膝丸がパーティー会場の出口へと足先を向け、同時に女審神者の腰に手を添えた。そのまま彼女を会場出口へと連れて行こうと、流れる動作で腰を抱いた膝丸に男審神者は瞬きを繰り返した。な、なんて自然な流れなのだ……、と眺めている場合ではない。
「あっ、いや、ちょっ……!」
唖然としてしまった男審神者だが、なんとか彼女を呼び止めようと声を上げた。
せめて名前が知りたい。そうすれば審神者同士の通信で個別メッセージが送れる。最初は友達からでもいい。なんなら初デートは近侍付きでも構わない。あわよくば良い関係を築きたい、そう向けられた背中を呼び止めた。
「あっ、あの、お酒があれなら、ジュースでも……!」
だから、どうか、一杯だけ。とグラスを掲げて見せた男審神者だが、そんな男審神者の前に膝丸が静かに歩み寄った。見下ろされる視線に男審神者はそのままへたりと座り込んでしまいそうになったが、それよりも冷ややかなに目に体が凍ったかのように動かなくなった。
膝丸はそんな男審神者のグラスを手に取り、それさえも一気にあおった。
「膝丸……!」
さすがの女審神者も黙っていられず膝丸を掴んで止めようとしたが、止めようと袖に触れた後にはもう、グラスは空だった。
膝丸の喉がごくりと上下し、男審神者は思わずそれを見詰めてしまう。黒襟のスタンドカラーから覗く、黒い薄布に巻かれた喉は染みも皺も見当たらないほど美しいが、広い肩幅に見合う首回りは同性の男が見ても羨むほどに逞しい。
刀剣男士は何てことない嚥下の姿さえもいやに美しいのだな、と男審神者はそれを眺めていた。
するとそんな男審神者に空になったグラスが押し付けられ、押し付けられた男審神者は膝丸を見上げた。見上げた膝丸は、剣先を上から真っ直ぐと下ろすように見下ろしており、目が合うとその目をすうと細めた。ひやりとした汗が男審神者の背中に走った。
「みなまで言わんとわからぬか。これはお前とは飲まん」
さくっと、額から突き刺されたような気がした。
膝丸の目が、男審神者をその場で突き刺す。
……膝丸という刀剣男士は、こんなにも冷たい表情をする刀であっただろうか。
男審神者の知る膝丸は、兄者兄者と、髭切の背中を追い掛けては名前を呼ばれぬことを嘆く男士であり、戦場では自前の素早さと元の主譲りの勇敢さで窮地さえも切り開く頼もしい刀だ。兄の髭切同様、綺麗な顔立ちをしているが、どちらかといえば顔立ちは雄々しい。普段は真面目でしっかりとした印象が強いが、文が来たと話し掛けてくれる声は若い青年らしく、実に爽やかなものだ。
そんな膝丸が、こんなにも冷えた表情をするのか……。
「君のいう通り、一度下がろう。ここは人が多くて疲れる」
「えっ、あ、うん……」
再度腰を抱かれた女審神者は気遣わしげにこちらを見ていたが、疲れると口にした膝丸にこれ以上留まることは難しいと思ったのか、申し訳なさそうに小さく頭を下げて出口へと向かった。
「………………」
流石にあれだけ言われ、尚且つ主である女審神者を『これ』呼びする膝丸に男審神者はそれ以上声を掛けることができなかった。
膝丸の案内により、人混みの中をすいすいとすり抜けていく小さな背中はあっという間に見えなくなってしまった。まるで幻であったかのような出来事に男審神者はがっくりと肩を落とし、その肩を同僚の男が叩いた。
「……『蛇』に睨まれたな」
「うっ、やめてくれ……」
男審神者は鳥肌立った腕を擦った。

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