SEVENTH HEAVEN(1/3)


交際している女性がいる。
線が細く、寂しそうに笑う人だ。
でも、「膝丸君」と俺の名を呼ぶ声は心に染み入るように優しい。嬉しくなってすぐに駆け寄ると、「そんなに急がなくても」とおかしそうに笑う顔は一つ歳上だというのに幼くて、可愛くて、何処か放っておいてはいけない気にさせる人だ。
ありきたりな紹介になってしまうのだが、彼女はとても控えめな性格で、優しい人だ。
例えば、偶数人で料理を頼んだとき、出てきた料理が奇数だったら「私はいいから皆で食べて」という人で、食べているショートケーキの苺を見ている子がいたら「はい、あげる」と微笑んでその苺をあげるような人だ。
後輩の面倒見もよくて、この部署に異動してきてそろそろ一年は経つ俺にあれこれ気を使ったり、声をかけてきてくれる。彼女に気にかけられるのは嬉しいのだが、もう一年も経つのだから一人でも大丈夫だというところを見せたい気持ちが半々。……いや、彼女の声が聞きたくて呼ばれるのをわざと待つことがあるので、半々どころじゃないかもしれない。
そんな俺と彼女だが、出会い、というか初対面はなかなかに悪い印象だった。
何故かというと、彼女は、異動してきた俺が挨拶をするなり、まるで幽霊でも見たかのように目を見開き、固まり、顔を歪めては泣きそうな顔をしたのだ。
……確かに、俺は少々つり目で印象がキツいと言われることが多々あるが、「はじめまして」と自己紹介しただけで泣きそうな顔を向けられたのは初めてだ。
そんなことで俺と彼女の初対面はなかなかに悪かった。
その後も彼女は俺を避けるように距離を取るし、人づてに仕事を頼まれるしで俺の中の彼女への評価は散々だった。人のことを避けるくせに仕事はきっちりとしてくれるから尚更だ(まるで仕事はきちんとします、仕事は。と言わんばかりで)。
同じ部署の人間には「お前何かしたの?」「彼女があんな風になるなんて、相当だけど」なんて言われてしまい、何故俺が彼女に何かをした前提なのだ! と憤慨したものだ。
そんな周りの目が堪えきれず、俺は彼女をなんとか呼び出して二人きりで話し合うことにした(本当に『なんとか』だ。一人を呼び出すのがこんなに大変だとは思わなかった)(まあ、それほど彼女は俺と二人きりになりたくなかったという話なのだが……)。

『俺は、君に何かしただろうか』

自販機と丸机が何個か置いてある会社の休憩スペースの端。パーテーションと観葉植物に区切られた場所で俺は苛立ちを僅かに滲ませながら彼女にそう告げた。
彼女は俺が買ってやった紙コップの飲み物を前に石のように固まってはずっと俯いていた。

『仕事上、必要最低限のコミュニケーションは必要だと思うのだが』

この状態では、周りの人間が俺達の雰囲気を察して気まずそうだ。そう告げると、彼女は小さく『申し訳ありません』と答えた。またその返答に苛立ちながら俺は彼女を睨むようにして俯いた旋毛を見る。

『君が俺を嫌いなのはよくわかった。しかしだな……』

周りに迷惑をかけるようでは……、と続けようとした時だ。彼女が勢いよく顔を上げた。

『きっ、嫌いなんかじゃないです……!』

『………………』

はじめまして以来だ。彼女と目を合わせたのは。
キッと眉尻を上げた目が俺を見詰める。丸い目に、うっすらとかかる膜は涙であろうか。彼女の目は確かに潤んでいた。
突然顔を上げた彼女を驚きで見張ると、彼女はハッと息をのんではすぐに俯いた。
彼女の目を久々に見たことと、そんな顔もするのかと(俺が見る彼女の顔はいつも苦しそうで悲しそうだった)意識を奪われていた俺だが、再び俯いた彼女に俺はどう声を掛けていいのかわからなくなった。しかし彼女は俺を嫌って俺を避けていたわけではないらしい。

『では、何故…………』

そう問うと、彼女はたっぷり間を取ってから、おそるおそる唇を動かした。

『……こ、個人的なことで……、大変、申し上げにくいのですが…………あ、あなたが、忘れられない人と、よく、似ていて…………』

……驚いた。
忘れられない人と濁してはいたが、確実に男女のことがあったのであろう人の存在を彼女の口から聞かされたからだ。どんなに避けられようとも、対自分ではない時の彼女の様子を見ていれば、彼女がどんな人間か、どんな言葉を使ってどうやって話すのかくらいわかる。
そんな彼女が、こんな場面で、忘れられない人がいると口にするとは。
驚いたと同時に困ったものだ。そんな話を切り出されて俺はどうすればいいのかわからなくなった。むしろ今まで彼女に避けられていた苛立ちに対しての仕返しかと思ってしまったくらいだ。

『すみません…………、言うべきではないと、あなたには、…………か、関係の無い…………ことだと、わかっては、いるのですが……』

どうしても……、といったところだろうか。
それほどにまで、俺はその忘れられない人に似ているということなのか。
詰まりながらも話す彼女の様子に、彼女がどれほどの思いで俺に打ち明けているのかが見て取れる。
どう返答しようか迷っていると、その迷いを察したのか彼女がそっと、本当にそっとだ、顔を上げては俺を静かに見詰めた。
透明度の高い目は、戸惑う俺を見て、やはり悲しみを堪えるように揺れていたが、それでも「俯くな、顔を上げろ」と自分自身に言い聞かせるように俺を見詰めていた。

『今まで、失礼な態度を取って、申し訳ございませんでした……。あなたは……、別人なのに……。でも、わかっていても、気持ちが追い付かなくて……』

息を吐き、間を取って「別人なのに」と話す言葉がまるで鉛のようだった。
彼女は、俺に打ち明けることで、ナイフか何かで自分自身を傷付けているかのようにも見えた。自分から聞いておいて、彼女から語られる言葉を聞くのがとても苦しくなっていった。無理をしなくていい、我慢しなくていい、そんな言葉が俺の頭の中に泡のようにぽこぽこと浮かんでは弾ける。

『でも……、いい加減、気持ちを切りかえます……。このままじゃ、皆さんにも、自分にも、駄目ですもんね』

『………………』

くしゃりと、彼女が笑った。
気持ちを切りかえると言った彼女に、今の今までずっと切りかえられなかったものが早々に切れるのかと気にかかった時だ。彼女は、笑った。
決して綺麗な笑顔ではなかったが、ずっと張り詰めていたものからやっと解放されたような、気の抜けた情けない笑顔だった。それでも俺は、はじめてみる彼女の、自分へと向けられる笑みに微かな喜びを感じていた。
真っ暗な部屋の中に、小さな灯りをともしたかのように。……笑った、と小さく喜んだ。

『これまで、本当にすみませんでした。もう一度、最初から私と関係を築いて頂けないでしょうか』

彼女の目が俺を見詰める。今まで向けられることのなかった目が、しっかりと、俺に。
うっすらと膜がはった彼女の目は綺麗で、つぶらで、つい見入ってしまう。何も言わない自分へ彼女が小首を傾げるまで俺はそれに視線を奪われていた。

『もちろんだ……!』

あんなに腹をたてていたというのに、彼女が秘めていた思いを打ち明けてくれたからか、彼女の悲痛な姿を見たからか、俺と目を合わせて話をしてくれたからか、色んな思いから俺は力強く頷いた。
それから、その日から、彼女は、きちんと俺の目を見て話すようになった。逃げなくなった。距離を取らなくなった。当たり前といえば当たり前なのだが、俺はそのことにすごくほっとしたのだ。
彼女の思いを聞いた翌日、俺はおそるおそるといった気持ちを隠しつつ、見付けた彼女の背中へと挨拶をした。

『おはよう』

言うと、彼女は柔らかな髪をふわりと揺らして振り返り、優しく目を細めた。

『おはようございます』

……笑った。
昨日の思い詰めたような彼女の表情がいやに脳裏へ焼き付いているのか、笑顔を見せてくれた彼女に俺は安堵した。それくらい、あの時の彼女の表情は俺の中で心苦しく残っているらしく、笑みを見せた彼女に、ああ今日は笑っていると安心したのだ。

『今日はぽかぽかのいいお天気ですね』

お昼食べ終わったら眠くなっちゃいそうです、なんて話し続けてくれる彼女に、おはよう以外も話しかけてくれるのだな、と驚きつつも、なんだかぽかぽかしてきたのは俺の心だと一人思った。
彼女が笑ってくれると安心する。
またあんな辛そうな顔は見たくなくて、向けられたくなくて。そんな風に笑えるのなら、できるのなら笑っていて欲しくて、その笑みを見せて欲しくて、もうあんな顔をさせたくなくて。
不思議と、彼女の笑みを見てから俺は彼女の笑みをよく探すようになった。
今まで避けられていたせいか、何気ない会話を彼女としていると、彼女と会話をしている! としばらくは感動していた気もする。
彼女は、誰からも親しげに声を掛けられ、作業が詰まっているとすぐに気付いてくれたり、困った人のフォローも角がたたないように優しく諭したりと、とにかく面倒見がよくて、優しくて、朗らかな人だ。
あまりにも人が出来すぎていて『何か以前にプロジェクトリーダーとかやっていたのか?』と聞けば『そんな大それたものじゃないよ』と苦笑した。その笑みの向こうに悲しみを滲ませているのを見て、俺はそれ以上聞くことができなかった。
多分、おそらく、その向こうには彼女の忘れられない人がいると思ったからだ。
あんなにいい人である彼女へ爪痕を残すような男とは、一体どんな男なのだろうか。彼女の『忘れられない』が、どういった忘れられないのかはわからないが、おそらくあまりいい別れ方をしなかったのだろう。推測しかできないが、推測しかできないことに俺は微かにもどかしさを感じていた。
何故なら、彼女はとてもいい人だからだ。
避けられてはいたが、話し合いをしたあとの彼女は周りにそうしているように、俺にも優しく接してくれている。笑いかけてくれる。柔らかくと目を細めてくれる。
そして俺はそのことに、安心と、ぬくもりと、幸せを感じ始めていた。
彼女が笑ってくれていると嬉しい。俺にその笑みが向けられるともっと見たくなって、もっと彼女の声が聞きたくて、もっと話をしていたくなる。
この感情は、この気持ちはきっと、間違いではない。
でも、それを告げたら優しい彼女は困ってしまうかもしれない。
それでもいい。
それでもいい、と俺は思った。
困らせてもいいじゃないか。
困って、困って、たくさん困らせれば俺のことをそれだけ考えてくれるということだ。
忘れられない人がいてもいい。それ以上に俺のことを考えてくれたら。
そう思って、俺は彼女へ距離を縮めてみることにした。警戒されないよう、少しずつ。朝の挨拶の他にも雑談を交えたり、好きだと言っていた土産を出張先で買ってきたり、然り気無くランチに誘うことが成功したら次はディナー。休日の映画、買い物、そして俺の部屋。

『君に、もっと触れていい権利が欲しい』

少しだけ臆病な君が、逃げないように。
当たり前のように君へ触れていい繋がりが欲しくて、俺は彼女にそう告げた。
連れ込んだ自分の部屋に彼女を閉じ込めて、行き場を塞ぐようにソファに腰掛けさせて、俺はその横に座って、逃げないように細い指と指を握って、顔を近付けた。

『だ、だめ……。だって、わたし、わたしは……』

『いい。忘れられない人がいることも、俺がその人に似ていることも、君がそのことに対して俺へ気遣っていることも、全部承知で言っている』

握った指が頼りなく震えていた。
どんどん冷たくなっていく指先を吐息であたためて、その手を自分の頬に寄せて温度を移す。
泣き出しそうな目が言っていた。『お願い、やめてくれ』と。残念ながら、願い下げだ。ここまで俺の気を引いた君が悪い。勝手に惹かれてしまったのは俺だが、そう振る舞った君も悪い。
俺に好かれた君が、悪い。
その日、俺は彼女を抱いた。
彼女は最後まで駄目だと泣いていたが、彼女が涙を溢した分、俺は彼女を優しく抱いた。
いい。全部わかっていてやっていることだ。君が罪悪感を覚える必要はない。それでも抱きたいとこの俺が思ったのだから、と。
俺は、彼女の忘れられない人の記憶を上から塗り潰す気持ちで彼女を抱いた。しかし、触れた彼女の肌、香る匂い、伝わる熱に全部を持っていかれた。意識も、体も、呼吸も。体全てが、ずっと、ずっと彼女を求めていたかのように熱くなって、血が沸騰するかのように気持ちが昂った。
涙の分だけ優しく抱いたとか、多分それは嘘だ。
彼女に触れれば触れるほど、声を聞くほど、艶めいた表情を見るたび、切なく締め付けられるたび、ひどく興奮した。元々番いだったのでは、と思うほどに彼女の体と俺の体はぴったりと合わさって、一つに蕩けた。もう放せないと思った。
彼女は言った。

『私は、忘れられないよ……。絶対に重ねるよ。絶対膝丸君を傷付けるよ。絶対……、ぜったい……』

続けられる言葉を俺は塞いだ。
だから、なんだというのだ。
俺がいいと言っているのだ、黙って俺に好かれていて欲しい。
そうでもしないと俺は君の心の中に入ることもできない。挑むこともできやしないではないか。隙間がないというのなら、入れたくないというのなら、俺は無理矢理入り込むまで。
絶対を重ねるなら俺も重ねよう。
絶対、俺に塗り替えてやると。

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