U,スモーカーBirthday
 海軍本部にあるここはスモーカーの自室。葉巻の煙を纏った彼は不機嫌そうに手元の書類を睨んでいた。今日は早く帰宅する予定が、直前で舞い込んだ書類の処理に追われる羽目になったのだ。こうして机に向かってからかれこれ三時間近くたとうとしている。時刻はもうすぐ二十二時。デスクの上に置かれた時計で時刻を確認すると、その横に置かれた卓上カレンダーが目に入った。そして改めて今日がなんの日であるかを認識し、ため息をこぼす。最もそんなことに浮かれるような歳でもないのだが。
 今日くらい…、と思ったのにはわけがあった。三月十四日、それは彼が祝われるべき日であった。しかし彼の頭にあったのは自分とは別の人物のことだ。この海軍本部にはもう一人、今宵祝われるべき人物がいる。このタイミングで自分のところに仕事が舞い込んだということは、おそらくその人物も足止めを食らっていることだろう。彼は書類を持ったままデスクの上に手を置き、ぼんやりと前方を眺めた。そうして目を閉じると、煙草をくわえ眉間に皺を寄せながらデスクに向かう人物の姿が頭に浮かんだ。彼は背もたれに深く身を沈めた。ギシリと椅子が軋む。彼は書類を放って頭の後ろで手を組み、天井を仰いだ。そろそろ疲れの色が出始めた顔も、こうして目を閉じるといささかマシになっているような気がした。モクモクと煙を吐き出しながら目を開けると、煌々と燈る照明が疲れた目を刺激した。スモーカーは今度はグッと目を閉じると、少し勢いをつけて背もたれから体を離した。残りの書類を確認すると、全て片付け終わる頃には日付が変わっているだろうと予測された。せめてもう一人、手伝ってくれる奴がいれば話は別だが…。こんな時に限ってどこかに出払ってしまった部下に舌打ちをこぼし、彼はもう一度時計を確認した。二十二時八分、確実に時は進み今日という日は終わりへと向かっている。待ってはくれない現実に苛立ちながら、彼は再び書類に手を伸ばした。
 仕事を再開してからちょうど四枚目の書類ができ上がったタイミングでドアがノックされた。この忙しい時になんの用だ、心の中でそうこぼすとノックに対する返事が遅れた。声をかけようと口を開いたところで、待ちかねたようにもう一度ノック音が響く。チッと舌打ちをこぼし乱暴に声をかけると、ドアが開いてその向こうにクザンの姿が見えた。珍客に驚きつつも疲労によるストレスの方が勝ったスモーカーは、上司の訪問を前に立ち上がることもせず書類に視線を戻した。
「なんの用だ?」
そう短く訊ねた。クザンは自分の後ろでドアを閉めたあと、やれやれと頭を掻いた。
「様子を見にきただけだが…。恐いねェ、またずいぶんと不機嫌じゃない」
「誰のせいだと思ってやがる。帰りがけにこんな面倒な仕事よこしやがって」
クザンがのんびり告げると、怒りを通り越し呆れかえったスモーカーは書類から顔を上げた。
「だが……仕事は仕事だからな」
そう言って書類の一番下にサインをすると、左手にあるボックスに放って新たな書類に手を伸ばした。そのままソファにでも座って図々しく居座る気かと思いきや、クザンはポケットに手を突っ込んで突っ立ったままスモーカーを眺めていた。最初は無視を決め込もうとしたスモーカーだったが、こうして目の前に立っていられるのも気が散るというものだ。彼は苛立ってため息をこぼすと少々乱暴にデスクに手を置いた。
「様子を見にきただけなんだろう?用がないならさっさと出てけ」
そう言うとクザンは言いにくそうに顔を下げた。
「正直、もう帰ってると思ったんだけどね」
「あァ?」
理解しかねたスモーカーは眉間に皺を寄せた。クザンは再び頭を掻くとこちらに顔を向けた。
「書類の片付けなんて途中で放り出すんじゃないかと思ってた。まさかここまで熱心にやってくれるとはね」
この言葉にスモーカーは冗談じゃないと椅子の背に身を預けた。
「だったらなんだ?おれのこの数時間は無駄だったってわけか?」
勘弁してくれと言わんばかりに彼は顔を両手で覆った。仕事だからと割り切り保っていた集中力が一気に切れた。
「今夜中に終わらせなきゃなんねェって言ったのはてめェだろ」
「それはそうだが。明日の夜でも構わねェ」
「ふざけんな……」
本当は怒るところだがここまでくるともはやそんな気力もない。スモーカーはデスクの上に脚を乗せて腹の上で手を組んだ。行儀が悪いとこぼしたクザンに舌打ちをくれ、彼は疲労に目を閉じた。
「まァ、そういうわけだ。帰りたければ帰ってくれて構わねェ」
「帰るに決まってんだろ。バカバカしい」
スモーカーは天井に顔を向けたまま疲れきった声で言った。クザンは背を向け、ドアノブに手をかけたところで彼を振り返った。
「お前と同じように律義に居残ってる大佐がいる。その子にも帰っていいと伝えてやれ」
「あァ?てめェで伝えろよ」
顔を上げしかめっ面でそう言うと、クザンはポリポリと頬を掻いた。
「今更帰っていいなんて言えねェだろ。彼女、怒らせると恐いじゃない」
そう言って部屋を出ていく背中を、スモーカーは忌々しそうに睨み付けた。完全にドアが閉まってから、机の上の時計に視線を向ける。二十二時二十七分。さっさと野暮用を済ませて帰宅しようと彼はデスクの上を片付け始めた。手を付けかけの書類はそのままに、引き出しに使っていた文具をしまっていく。右側の引き出しを開けたところで、十五センチほどの箱がチラリと見えた。彼は手を止め、その箱を見下ろした。そして少し迷った後、彼はその箱をポケットに入れた。そして必要な物をまとめると、ジャケットは羽織らず黒のタンクトップ姿で部屋を出た。

 海軍大佐のシエルは煙草をふかしながらデスクに向かっていた。かれこれもう四時間はたつだろうか。部下を帰らせ、自分もすぐに本部を出るつもりだった。それが上司の一言でこんな時間まで居残ることになってしまった。仕事は仕事と割り切ってはみたものの、いつまでたっても終わりの見えないこの単純作業に彼女は苛立ち始めていた。とはいえ、この仕事を片付ける人間は自分以外にいない。帰らせた手前、今更部下を呼び戻すのも不憫に思えた。しかし…、徐々に薄れていく集中力を完全に崩壊させるかのように彼女の腹の虫が静かに鳴いた。彼女は豪快にため息をこぼすと、それまで持っていたペンを叩きつけるようにデスクに置いて席を立った。部屋の右側にある収納棚の引き戸を開けてみると、そこにはドライフルーツ入りのシリアルの箱が入っていた。彼女は皿を用意するとシリアルを入れ、冷蔵庫から取り出した牛乳をかけてスプーンで軽くかき混ぜた。そして再びデスクに戻り、椅子の背に身を沈めるとモシャモシャとそれを食べ始めた。正直味気ないが、食べないよりはマシだろう。三回ほどスプーンを口に運ぶと、彼女は皿をデスクの隅に置き、再び書類に目を通し始めた。食事をしながら仕事をするのもどうかと思ったが、このくらいは大目に見てもらおうと考えを改めた。チラリと時計に視線を向けると、時刻は二十三時六分。家に帰れるだろうか、そんなことを考えているとふいにドアがノックされた。こんな時間に一体誰だろう、検討のつかないままとりあえず返事を返す。随分と無愛想な返答になってしまったことに自分でも気付きはしたが、この際それは気にしないことにした。ドアが開き、一人の男が中に入ってきた。男は閉めたドアに寄りかかると、モクモクと葉巻の煙をはきだした。やってきたのはスモーカーだった。彼の姿を見て、ペンを動かすシエルの手が止まった。少し驚きながら彼女は口を開いた。
「スモーカー…。あなたまだ帰ってなかったのね」
彼女は書類に視線を戻し、ペンを走らせた。
「なんの用?」
そう短く訊ねる。スモーカーはすぐには答えず、彼女の様子を眺めた。彼女が次の書類に手を伸ばしたところでようやく口を開いた。
「自分の誕生日に仕事部屋でそんなもん食ってんのか。見るに堪えねェな」
「あら、こんな時間にここにいるあなただって人のこと言えないんじゃない?」
スモーカーの言葉にカチンときたシエルは、ため息のような笑いをこぼして彼を見た。まぁな、とスモーカー。正直彼とお喋りしている時間はない。彼の用件がわからないシエルは指でペンをクルクルと回しながら椅子の背にもたれた。
「それで、なんの用なの?わたしは朝までに終わらせなきゃならない仕事が山積みなんだけれど」
そう言って彼女は書類の山を手で示した。
「そのことでクザンから伝言だ。仕事は明日の夜まででいいらしい」
スモーカーが告げると彼女の顔色が変わった。一瞬呆けたあと、彼女は眉を寄せた。
「わたしは今夜中に終わらせろって言われたわよ?」
「今夜でも明晩でも、どっちでもいいんだと」
これにはさすがの彼女も動揺を隠せなかった。
「そんな…っ、じゃあ居残りなんて……」
「必要ない。帰りたければ帰っていいそうだ」
呆れた彼女は立ち上がり、あのモジャモジャ頭と毒付いた。彼女の気持ちが痛いほどわかるスモーカーは、なにも言わずにその姿を見つめていた。シエルは髪にさしていたピンを外した。まとめられていた髪が落ち、肩にかかった。長い髪を手ぐしで整え、耳にかかっていた髪を下ろした。そしてシャツのボタンを二つ外すと、シリアルの入った皿を取って立ったまま食事を始めた。
「まだそんなもん食うのか?」
「作っちゃったもの。捨てるのも勿体ないでしょう?」
そう言ってシリアルを平らげた彼女は、皿に残った牛乳を飲み干した。そして椅子の背にかけていたジャケットを羽織り、帰り支度をしながらスモーカーを見た。
「あなたは帰らないの?」
「そのつもりだったが…こんな時間に帰ってもすることねェからな」
そう言って彼は部屋の中央にある二人掛けのソファまで歩いていくと、テーブルの上に大きめの紙袋を置いた。袋に描かれたロゴを見てシエルが目を輝かせた。
「ゴートンじゃない」
それは彼女のお気に入りの料理店だ。少々値が張るものの、それに負けない味と斬新なメニューが好きで、シエルは特別な日は決まってこの店に出向いていた。
「せっかく同じ誕生日なんだ、一緒に飯でもどうだ?こんな時間じゃ大したもんは買えなかったが……」
スモーカーはソファに座り、袋の中からサラダやパスタ、ムニエルなどの入った容器を取り出してテーブルに並べた。それを見たシエルは曖昧な表情を浮かべた。
「スモーカー、わたし……」
彼女は言い淀み言葉を探した。こうして彼とまともに話すのはどれくらいぶりだろうか。昔のこともある。そんな相手と食事をするのはいかがなものかというのが彼女の意見だった。スモーカーは一度手を止め、彼女を見上げた。
「食事くらいいいだろう。減るもんじゃねェし」
シエルはスモーカーに悩ましい視線を向けた。スモーカーは視線を外し、袋から最後の容器を取り出した。
「腹減ってんだろ?」
少しの沈黙が流れた。どうするべきか悩んだシエルであったが、やがて諦めたように肩をすくめると先ほどシリアルを出した収納棚へと行き食器を用意した。途中、背後から声をかけられ了解した彼女は加えてグラスと氷を用意し、それらを木製のトレイに乗せてテーブルへと運んだ。テーブルに食器を置くと、彼は容器のフタを開けて皿を手に取った。一見するとがさつそうな男だが、実際は意外と几帳面である。そのへんの男なら容器から直接食べそうなものを、彼はきちんと皿に盛り付ける。皿を並べ空になった容器をまとめる様子を見ながら、彼の隣に腰を落ち着けたシエルは懐かしさからフッと笑った。氷の入ったグラスをスモーカーと自分の前に置き、トレイはテーブルの脚に立てかけた。スモーカーは紙袋の中から瓶を取り出し、酒を彼女のグラスから順に注いだ。言葉のないまま、二人はカチンとグラスを当てて乾杯した。
「ずいぶんと豪華ね」
手を伸ばし、テーブルの上に置かれた灰皿を引き寄せた彼女が料理を眺めた。彼女はそこに煙草を置き、スモーカーの方にずらした。彼もまた、そこに葉巻を置いてグラスに口を付けた。
「このお酒も買ってきたの?」
「いや、おれの部屋にあったもんだ」
スモーカーの横でグラスを傾けた彼女は、口に含んだ酒を飲みこんで眉をひそめた。
「まさか仕事中に飲んでるんじゃないでしょうね?」
「仕事が片付いてから飲んでんだよ。お前こそなんで仕事部屋に酒用のグラスがあるんだ?」
そう返されシエルはモゴモゴと言った。
「私は帰りがけに飲んでるの」
「そうかよ。相変わらず酒好きだな」
「あなたに言われたくないわ」
そう言ってグイッと酒を飲むシエルを眺めたあと、スモーカーはナイフとフォークでムニエルを食べやすい大きさに切り分けた。そしてそれを取り皿に乗せると、彼女の前に出した。
「食えよ」
この期に及んで難しい顔をするシエルにスモーカーが言った。ムニエルからは微かに湯気が立っていた。あの店ではできたての料理を出している。おそらくスモーカーはここへ来る直前にゴートンへ出向いたのだろう。要するに、最初からシエルと食事をするつもりだったということだ。そんな彼の行動になんとも言えない歯痒さを感じながら、彼女は差し出された皿を手に取った。
「…いただきます」
そう呟いて料理を口に運ぶ。初めて食べる料理のはずが、この味をなぜかとっても懐かしく感じた。
「うめェか?」
「えぇ、とっても」
穏やかな表情で告げると、スモーカーはそうかと笑った。その横顔を見ながらシエルは正体のわからない感情に支配された。それから逃れるように彼から努めて視線を外し、再び料理を口に運ぶ。料理の味に集中してみると、例の感情は少しばかり落ち着いたように思えた。
 お腹が膨れた頃、二人は酒を飲みながらくつろいでいた。最初に感じた気まずさも、気付けば気にならなくなっていた。互いのことを話し、仕事のことを話し、気付けば思い出にまで話が及んでいた。酒も入り気分がよくなったシエルは、冗談めかしながら自身が当時思っていたことを語った。二人で出掛けた時のこと、夕食の準備をしていた時のこと、仕事から帰った時のこと、休日のこと、楽しい思い出の中にもこういう結果を招いただけの理由が散らばっていた。彼女はもっとこうありたかったと自分の理想を話した。若干皮肉の込められた言葉を聞きながらも、スモーカーは相槌を打つばかりで反論したり彼女の言葉を遮ったりはしなかった。彼はあの頃からこうだった。おそらく優しさであろう彼の態度が、彼女は当時から歯痒くてならなかった。まるで自分がひどく幼稚であるような、そんな気がして、穏やかに聞き入る彼に対し苛立ちさえ覚えたことだってある。言い返されない事で彼女は自分の存在意義を見失った。同時にとてつもない寂しさに襲われることもあった。しかし今は、そんな彼の優しさを素直に嬉しく思った。今だからこそそう思えるのかもしれない。確実に変わった二人の関係と、成長と呼べるのかわからない自らの心の変化がそこにあった。やがて長々と過ぎたことを話す自分を恥ずかしく思い、彼女は口を閉じた。自嘲とも呼べる笑いをこぼし、微かに眉をひそめる。すると彼はシエルの額に手を伸ばして人差指で彼女の眉間に触れた。
「そんなに皺ばっか寄せてると顔崩れるぞ」
数年ぶりの彼の感触に思わず頬が熱を持つ。
「あなたみたいに?」
「うるせェよ」
彼女が笑うとスモーカーは顔をしかめた。
スモーカーは背もたれに肘を置き、壁に掛けられた時計を見やった。二十三時五十二分。誕生日ももうすぐ終わる。シエルも彼につられたのか時計を見たようで、グラスをテーブルの上に置いてぽつりと呟いた。
「早いものね。もうすぐ一日が終わる」
「あァ…」
スモーカーは顔を向けず、時計を眺めたまま頷いた。
「あなた、プレゼントはもらったの?」
ふいにシエルが体を起して訊ねた。スモーカーは彼女の方に顔を向けた。
「いや」
「そう、寂しいわね」
そう言って笑うシエル。
「お前はもらったのか?」
「えぇ、ヒナからね。香水とケーキを…。彼女、本当にセンスがいいわ」
シエルは手首をスモーカーの鼻に近付けた。花のような石鹸のようなフルーツのような、甘く淡い香り。そうだな、とスモーカーは穏やかに笑った。
「食事まで用意してもらっちゃって悪かったわ。お代は半分出すから」
「いらねェよ、おれが好きでやったことだ」
「でも……」
そういうわけには、と彼女は財布を取ろうと立ち上がった。しかしスモーカーは彼女の手首を掴んで引きとめた。
「ここは甘えとけよ」
彼は最初からそのつもりだったようで、自分を捕らえる視線に押された彼女は諦めて笑った。
「じゃあ、あなたからのプレゼントっていうことでありがたくいただくわ」
「そうしろ」
「フフ…えぇ、ありがとう」
そう言うと彼女は再びソファに身を沈めた。時刻は二十三時五十七分。スモーカーはポケットに手を入れ、中から箱を取り出した。それを彼女に差し出す。シエルはなにかわからずに首を傾げた。
「なに?」
「ついでにこれも受け取ってくれねェか?」
改まるわけでもなく、自然に差し出された細長い箱。彼女はそれを受け取り、スモーカーに視線を戻した。しばらく彼を見つめてから、彼女は箱の包装を綺麗にはがしていった。箱を開けると、中には白い万年筆が入っていた。
「綺麗…」
思わず彼女が呟いた。手に持って角度を変えて眺めてみると、それは光の反射によって微妙に色合いを変えながら淡く輝いた。まるで綺麗な貝殻のようなその輝きに彼女は顔を綻ばせた。キャップのてっぺんにはS≠ニ彫られていて、その右下に天然石が埋め込まれている。
「あの日お前が出ていかなけりゃ、その年の誕生日に渡すつもりだった」
スモーカーはこちらを向かず話を続けた。
「捨てられなくてな、いらなきゃお前で処分してくれ。おれが持ってたって意味のねェもんだ」
シエルはなんとも言えない笑顔を浮かべた。彼女が家を出ていってからもう五年になる。それ以降は同じ職場にいながらも必要な時以外は口もきかなかった。なにが悪かったわけでもない、誰に非があるわけでもない、ただ二人の辿った結末がこうであっただけのことだ。シエル自身、二人の関係はきっぱり終わらせたものだと思っていた。しかしスモーカーは、沈黙を守りながらもあの頃の記憶に身を置いていた。けじめはつけたと踵を返す自分の姿を、彼はこの五年間どんな気持ちで見ていたのだろうか。そう考え、ふいに胸が痛んだ。彼の家を出て以降、始めて感じた小さな後悔。彼女は万年筆を撫でて小さく言った。
「プレゼント、用意してくれていたのね。わたしはなんの準備もしていなかったわ」
「お前の中で気持ちが固まってたんだろ。出てった時はずいぶんと手際がよかったからな」
「…そうね……」
彼女は微かに笑みを浮かべた。振り子時計が零時を知らせる。誕生日は終わり、楽しい時間が過去へと変わっていく。スモーカーは立ち上がり、シエルの横に立った。そして俯く彼女の頭にポンと手を置いた。
「押し掛けて悪かったな」
「いいえ」
彼女はスモーカーを見上げ、にっこりと笑った。何度繰り返しても答えは変わらない。これが最善であると彼女は今でも思っていた。そしてスモーカーは、そんな彼女の気持ちを尊重するように沈黙を守っている。しかし今夜くらいは、そんな沈黙を破ってくれないだろうか。
「せっかくだ、もう少し飲まねェか?部屋に行けば酒はある」
ふいに告げられた言葉に彼女は目を丸くした。スモーカーは彼女の頭に置いた手を下ろすと、残った料理を一つの皿にまとめ始めた。自室へ向かう準備をする彼を眺めながら、彼女は笑いをこぼした。
「そうね。だったら続きはあなたの部屋で」
彼の持つ皿を受け取ってトレイの上に乗せる。ドアノブに手をかけたスモーカーを呼び止め、冷蔵庫からケーキの入った箱を取り出して彼の元へ駆け寄った。誰もいない海軍本部の廊下を二人は並んで歩いていく。シエルは彼の腕に自分の腕を絡ませると、そっと頭を預けた。

 翌日、仕事のため前日から本部を離れていたたしぎが一日ぶりにスモーカーの部屋を訪れた。部屋に入ると珍しくデスクワークに専念しているスモーカーの姿があり、たしぎは少し驚いた様子で一先ず挨拶を済ませた。
「おはようございます」
「おォ、ご苦労だったな」
部屋に入ってくるなり、たしぎは荷物を自分のデスクに置くとスモーカーのためにコーヒーを淹れた。カップを用意し、淹れたてのコーヒーを注いで彼の元へと運ぶ。スモーカーが礼を言うと彼女はにっこりと笑った。
「そうだ。スモーカーさん、一日遅れですけど…」
たしぎはそう言うと、自分のカバンの中から小さな包みを取り出した。そして彼の元へやってくるとそれを差し出した。
「お誕生日、おめでとうございます。簡単な物ですが…」
受け取ってみるとそれはお菓子のようだった。おそらく出先で用意してくれたのだろう。健気な部下の心遣いにスモーカーは表情を緩めた。
「ありがとうな」
そう礼を言うとたしぎは嬉しそうに笑った。彼女は再び自分のデスクに向かって歩き始めた。しかし途中で足を止めると、彼女はなにかに気付いたように鼻をクンクンと動かした。
「なんだ?」
不自然な部下の行動に思わず仕事を再開したスモーカーの手が止まった。
「いえ…、」
たしぎは答えたあと少し間隔を開けて言葉を続けた。
「この香り、わたしどこかで……。そうだ、シエルさんっ」
思い出した、とたしぎはスモーカーを振り返った。
「この香り、シエルさんですよ。そう言えばあの方も昨日お誕生日でしたよね。一緒にお祝いしたんですか?」
楽しそうに話すたしぎを前に、スモーカーは返答に困ってしまった。まァな、とだけ言って言い淀むスモーカーを前に、再びなにかに気付いた様子のたしぎはスモーカーの方へ歩いてくると彼の肩に手を伸ばした。
「失礼します」
そう言ってなにかをつまんだ彼女は、それをスモーカーの前に出した。
「髪の毛が…。これ、シエルさんのじゃないですか?今朝お会いした時、昨日は本部に泊まったとかで……」
そこまで言って、たしぎは硬直した。
「なんだ?」
たしぎがどうしてそうなったのか理解できないスモーカーは声をかけた。しかし彼女はそれに答えず、代わりに顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「てめェ、なに赤面してやがる」
「いえっ、すみません!!!わたしったら立ち入ったことを…!!!」
おそらく間違った解釈をしたであろう部下をスモーカーは怒鳴り付けた。
「くだらねェこと考えてねェで仕事しろ!!!」
「すみません!!!」
慌ててデスクに向かう部下を尻目に、スモーカーは鼻を動かした。微かに香った淡い香り。ふいに明け方眠りに落ちた彼女の顔が頭をよぎり、彼は微かに笑った。ソファに座り、自分の肩に頭を預けた彼女は気持ちよさそうに眠っていた。

 お昼時、食堂へ向かって廊下を歩くシエルの前方に見覚えのある背中を見付けた。彼女はその人物の方へと歩いていき、不機嫌そうに声をかけた。
「クザン」
呼び止めると彼は足を止めてこちらを振り返った。
「あらら、シェリーちゃんじゃない」
シエルを見下ろすクザンを、彼女はキッと睨んだ。
「あなたのお陰で昨日は大変だったわ。今度きちんと埋め合わせしてちょうだい」
腕を組みそう告げると、クザンはのんびりと謝った。
「悪かった。今度ランチでもご馳走するよ」
「言い逃げはなしよ」
「あァ」
まったく、とため息をこぼすシエル。
「でもそのお陰で楽しい誕生日が過ごせたんじゃねェの?」
「え?」
シエルはよくわからない、と言った様子でクザンを見つめた。彼は彼女の胸ポケットに手を伸ばすとそこから万年筆を抜き取った。
「本当はおれが祝ってやりたかったんだが…」
そう言ってクザンはパチリと片目だけ閉じて見せた。全てを理解した彼女は頬を染めながらクザンを睨んだ。彼は満足そうに笑うと彼女のポケットに万年筆を戻し、その場をあとにした。残された彼女は腰に手を当て、ため息をこぼすと食堂へと向かった。頬の熱が冷めきるまでには少し時間がかかった。

【♪:The Story Left Untold−Every Avenue】
http://www.youtube.com/watch?v=3EhwMf2oe70


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