五話
『失礼しまーす……』
「はい、どうぞ」
にっこりと笑うしのぶちゃんに迎えられて屋敷の中に入る。お館様の屋敷に負けず劣らず大きなここは、“蝶屋敷”と言うしのぶちゃんの家らしい。
本日私は、蝶屋敷で簡単な検査を受けることになった。血を調べさせて欲しい、とのことらしい。
断る理由もないので、二つ返事で頷いた私は、例のごとく目隠しをされてお館様のお屋敷から蝶屋敷へ。「少し検査の準備をするので、お好きなように過ごして待っていて下さい」と言われ、蝶屋敷を見学させてもらうことに。
時折黒い忍者のような格好をした人や、白いエプロンを付けた女の子たちとすれ違いながら屋敷の中を見て回っていく。この蝶屋敷は、隊士たちの療養施設も兼ねているらしく、部屋の多くは病室で、中には怪我人で埋まっている部屋もある。
そうして暫く屋敷の中を歩いていると、中庭まで辿り着いた。小さな池があり、可愛らしい花も咲いている。花の周りには蝶が集まっていて、なるほど“蝶屋敷”にピッタリだと小さく笑ってしまう。
「…………なんで笑ってるの?」
『っえ!?』
ふふ。と一人微笑んでいる所に、背後から掛けられた声。慌てて振り向いて声を掛けた相手を見れば、どこかぼうっとした様子で立つ男の子の姿が。……男の子、でいいのだろうか?声は低めだけれど、とても中性的な顔立ちをしている。髪も長いし、女の子だと言われても不思議じゃない。
それに、見覚えのある顔だ。この子も確か、
『あ、柱の……!えっと………時透無一郎くん、だよね?』
「……そうだけど?」
それが何?とでもいいたげな顔をする時透くん。幼い顔立ちに、つい敬語を外してしまったけれど、もしやそれが駄目だっただろうか。
『あ、あの……敬語じゃなくて、気分を悪くさせちゃったかな……?』
「別に。話し方なんてどうでもいいよ」
『そ、そうですか………』
「…ていうか誰だっけ?」
え。そこから??ひくりと頬を引き攣らせた私に、時透くんは更に首を傾げる。どうやら悪気は全く無さそうだ。そんなに私の印象は薄かっただろうか。
「苗字名前です、お館様の屋敷でお世話になってます」と改めて自己紹介をすれば、「お館様の屋敷で?」と初めて時透くんの表情が変わる。
「……いたっけ?君みたいな人??」
『……この前からお世話になってるので……』
ダメだ。多分彼の記憶の中からあの時のことは綺麗さっぱり消えてしまっている。ふーん、と興味無さそうに返した時透くんは中庭へと視線を向ける。「……あれってなんて蝶だっけ?」と首を傾げた彼の意識は、既に私から外れてしまっているようだ。
「そもそもなんで僕ここにいるんだっけ?」と遂には自分がここにいる事にさえ首を捻り出した彼に、この子は大丈夫かと呆れよりも心配が勝ってきてしまう。
『えーっと……診察とか何かじゃないのかな……?ここは診療所と兼ねてるみたいだし……?』
「……あ、そっか。俺、定期検診に来たんだった」
何かに納得したように頷いた時透くん。そこへ「時透さん!こんな所にいたんですか!!」とツインテールの女の子が現れる。「探したんですよ!」「なんで?」「検診の時間だからです!!」とやり取りをしながら、時透くんを引っ張っていく女の子。ぽつんと残されて固まっていた私は、「名前さん、どうかしましたか?」としのぶちゃんに声を掛けられるまでその場に立っていた。
*****
「時透くんは、少し記憶障害があるんです。ですから、忘れられていても気にすることはありませんよ」
『記憶障害……』
なるほど。だからあんな不思議な言動を繰り返していたのか。「採血しますよ」と言う声の直後にチクリと注射針が腕に刺さる。血が抜かれていくのをぼんやりと見つめていると、「気になりますか?」としのぶちゃんが眉を下げる。
「今のところ、治し方は分かっていません。おそらく、本人の潜在的な意識によるものも大きいと思います」
『潜在的な意識……無意識に自分の記憶を忘れようとしてるってこと??』
「あくまで、可能性ですが。………誰だって、忘れてしまった方がいい記憶だってあるでしょうし、」
そう言って目を伏せたしのぶちゃん。口元には笑みが浮かんでいる筈なのに、その微笑みはどこか寂しげだ。まるで、あの時、茶屋で見た時の笑顔のようだ。
「しのぶちゃん、」と思わず彼女の名前を呼ぶと、ぱっと表情を切り替えたしのぶちゃんは「何ですか?」と首を傾げた。
『……ううん。確かに、忘れたい記憶はあるよね。生きてたらいい事ばかりじゃないし』
「ええ」
『…でも、忘れないからその人で居られる』
「え?」
『過去があるから、今のその人がある。私も、しのぶちゃんも、想い出があるから今の自分で居られる』
注射針を抜いて血を試験管に移そうとしていたしのぶちゃんの手が止まる。何かに思いを馳せるように目元を和らげたしのぶちゃんは、「そうですね」と頬を緩めた。
『時透くんも“今”があるなら、きっと“今”の彼を作ってる過去がある筈なんだよね。…思い出したくない辛い事もあるのかもしれないけど……忘れた中には、素敵な想い出だってあると思う』
「…名前さんは、温かい人ですね」
『っえ??』
なんで急にそんなことを??
キョトンとした顔でしのぶちゃんを見れば、脱脂綿を注射痕に当てられる。「痛くないですか?」という問いかけに、大丈夫だと頷けば、ふっと笑みを零したしのぶちゃんは血が止まった事を確認して、小さく切ったガーゼを貼ってくれる。
慣れた手つきに見蕩れていると、「胸の音も聞かせて下さいね」と今度は聴診器が取り出された。
「…時透くんの記憶に関しては、戻りますと断言は出来ません。でも、彼が取り戻したいと願うなら、きっといつか戻る事があると思います」
『……そっか……そうだよね。というか、他人の私があーだこーだ言ってて意味ないよね』
「いいえ。そんなことはありません」
首を振ったしのぶちゃんが聴診器を耳にかける。
広げた着物の襟ぐりから胸元に聴診器が当てられると、「大きく息を吸って吐いてください」と言う声に、深呼吸を数回繰り返す。後ろを向いて同様に深呼吸をすると、「大丈夫そうですね」としのぶちゃんが聴診器を取る。着物を整えてホッと息を吐くと、鉛筆を握って何かを書いていたしのぶちゃんがそのまま手を止める事無く唇を動かした。
「私は、名前さんのそういう所は、とても素敵だと思います」
『そ、そうかな……?』
「ええ、すごく。……今度、私の継子(つぐこ)にも会っていただいて良いですか?カナヲにも名前さんと話してみて欲しいので」
『継子??』
「柱が育てる隊士のことです。…カナヲは、少し感情表現が苦手な子ですが……良い子なんです」
カナヲちゃん。その子がしのぶちゃんの継子らしい。
「私でよければ」と頷く私に、しのぶちゃんは嬉しそうに笑ってくれた。
prev next