十話
「鬼は、陽の光に当たると消滅してしまうので、日中は姿を隠している事が多いのですが……いつの間にか曇って来てしまったんですね……」
そう言って格子窓から空を見上げた千寿郎くん。今日は雲が多いと思ったけれど、この店に入る前は青空も垣間見えていた。でも今は、太陽どころか空も見えない。どんよりとした曇り空に変わってしまっている。
煉獄さんと不死川さんが出ていってからどれくらい経っただろうか。時計がないため性格な時間は分からないけれど、30分も過ぎていないような気がする。千寿郎くんは“柱”である二人なら大丈夫だと言っていたけれど、鬼がどんなものか分からない私はどうにも不安を拭うことが出来ない。
ゴクリと息を飲んで、曇った空を見上げていると、ポツリポツリと雨粒まで落ち始める。
「…降ってきましね…」
『うん……』
曇り空が雨空へと変わる。厚く大きな雲のせいで、外はかなり暗い。不安に眉を下げたまま、少しでも落ち着こうと水に手を伸ばそうとしたその時。
ガタガタッ
「?何の音だろうね?」
「物置の方か??」
そう言って不思議そうに首を傾げた店の奥さん。「鼠か?」と眉根を寄せた旦那さんが音の正体を確かめる為に足を向けたその瞬間、
真っ赤な液体が、弾け散った。
『……え?』
「う、ぁ゛ぁ゛ぁ゛!!あ、あしがあ!!お、俺の、俺のあしがああああ!!!!!」
「い……いやああああああぁぁぁ!!あんたっ、あんたあああ!!!」
店内に悲鳴が木霊する。
今の、何。一体、何が起きたの。
じわりと床に広がった真っ赤な血。それを流しているのは、さっきまで景気よく腕を振るって料理をしていた旦那さんだ。おかしい。この人はさっきまで元気に働いていたじゃないか。それなのに、なんで、なんでこんな血だらけに。
痛みで声を荒らげる旦那さんに奥さんが駆け寄る。旦那さんは立ち上がろうとしない。いや、出来ないのだ。なぜなら、旦那さんの右足は、
『っう゛っ……!』
「名前さん!!」
口を抑えて蹲る私に千寿郎くんが駆け寄ってくる。
初めて、みた。人が、人の肉が、切り落とされる所を。ガタガタと唇が震える。足に上手く力が入らない。呼吸が浅くなる。「名前さんっ、立てますか!?名前さん!!」と千寿郎くんが必死に声をかけてくれるけれど、立ち上がることはおろか、返事を返す事さえ出来ない。なんとか声を発しようと顔を上げたその時、
「美味そうだなァ。美味そうな女が居るなあ……!」
「ひっ……!お、鬼……!なんでっ、なんでここに……!!」
ノシノシと人間の倍はある大きく気味の悪い足を動かして店の奥から現れた“ナニカ”に、千寿郎くんが小さな悲鳴をあげる。
鬼。
そうか、これが、コイツが、“鬼”なのか。
形(なり)は人型をしているけれど、どう見ても人間じゃない。皮膚は濁った泥水のような色をしているし、つり上がった目は黒も白もなく真っ赤だ。血管の浮き出た身体はやけに大きく、青紫色をした爪は鋭く長い。
「きゃあああああああ!!」と店内にいた人達が外へと駆け出ようとする。しかし、それを見咎めるように真っ赤な目を細めた鬼は、濁った緑色の腕をその人たち向けて突き出した。すると、
「ぎゃあああああああああ!!」
「うぐっあ、あ、あ、あああああぁぁぁ!!」
『っひっ………!』
突然伸びた鬼の腕が扉に群がっていた人達を串刺しにくる。あまりの光景に目を逸らすと、「ひっひっひ!」と鬼は愉しくて仕方ないとばかりに裂けた口で弧を描いた。
「いいねいいねえ…!今際の叫びは最高だぜえ……!!」
伸ばした手を引き戻した鬼が己の腕についた血を舐めとる。ばたばたと連なるように倒れて行く身体。
うそ。嘘だ。そんな、こんな簡単に、人が、人が……死んでしまったというのか。呆気なく一瞬で動かなくなってしまった人々の姿に心臓が嫌な音をたてる。私もこうなるのか。今、目の前にいるコイツに、私も直ぐに殺されてしまうのか。恐怖で身体が動かなくなる。悲鳴さえもあげられない。代わりとばかりに涙だけが落ちていく。
一歩。また一歩と鬼が歩み寄って来る。ニタニタと嘲笑うように鬼の手が動こうと時、「名前さん!!」と千寿郎くんが庇うように前へ。
「や、やめろ……!!この人に、手を出すな!!!!」
「ああん?小僧…?貴様、自分から死にたいのかァ…??」
「っ……お、お前など怖くない!!お前なんて、お前なんてきっと、兄上が斬るに決まってる!!」
「なァに言ってんだ、この糞餓鬼。俺はなあ、女の肉が好きなんだよ。若い女の肉だ!テメェみてえな男の餓鬼の肉はいらねえんだよ!!!邪魔すんなら……
まずはテメェから殺してやるよ!!!!!」
咆哮と共に千寿郎くんに向かって鬼の手が伸びる。
だめ。だめだ。このままじゃ千寿郎くんが殺されてしまう。私が居なければ、彼は逃げられていたかもしれないのに。それなのに、私が動けないから、こうして前へ出て守ろうとしたくれているのだ。やめて。やめてくれ。
どうかその子を、殺さないで。
『っやめて!!!!』
気づくと足が動いていた。
鉛のように重く動かなかった足が動いて、千寿郎くんの身体を押し倒すように飛び付いた。空を切った鬼の腕が店の壁に突き刺さる。鬱陶しそうに顔を歪めた鬼の視線から逃げるように立ち上がると、「っ出ましょう!」と千寿郎くんが腕を引いてくれる。しかし、
「逃がすか!!二人まとめて食ってやるわ!!!!」
『っ千寿郎くん!!!!!』
「!?名前さん……!?」
耳まで裂けた大きな口が迫ってくる。咄嗟に千寿郎くんの身体を突き飛ばすと、千寿郎くんの目が大きく見開いた。
そして、
『ぅ、っあ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!』
「っ名前さあああああああん!!」
千寿郎くんを突き飛ばした腕に鋭い牙が食い込む。皮膚を食い破る激しい痛みに悲鳴が上がる。
ニタリと鬼の瞳が愉しげに細まる。ぎちぎちと更に歯を食いこませた鬼に、腕ごと千切られる事を覚悟したその時。
「っあ゛………う ぎゃ あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!な、なんだ!!なんだこれは……!?ウ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛!!!」
『っ………え……?』
突然絶叫した鬼が、腕から口を離したのだ。
何が起こったというのか。己の喉を抑えて苦しむ鬼に瞠目していると、「下がれ!!!!」と店の上から声が。「名前さん!!」と千寿郎くんに腕を引かれ、その場から飛び退くと、天井を突き破るように降り立った背中には“殺”の一文字が。不死川さんだ。
苦しむ鬼に怪訝そうに目を細めながらも、美しく光る鮮緑色の刀を振り下ろした不死川さん。無常に切り落とされた首がゴトリ、と床に落ちる音がし、刀の血を払い鞘へと収めた不死川さんがすぐ様私たちを振り返った。
「っおい、傷は、」
『あ……だい、じょ……』
大丈夫。そう伝えようとした唇が動かなくなる。
焦った様子の不死川さんが歩み寄って来たかと思うと、途端に視界が不鮮明になっていく。ポタポタと腕を伝って落ちていく血の音を耳にしながら、ゆっくりと目閉じると、それを最後に私の意識は失われていった。
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