エピローグ
「それで?その後、宮地さんとはどうっすか?」
ウィンターカップ終了から約1ヶ月。先輩が、宮地さんと付き合ったという報告を受けたのは、2週間ほど前だった気がする。照れくさそうに、でも、嬉しそうに「清志くんのことが好きになったんだよ」と笑った先輩の首からは、いつの間にか、指輪はなくなっていた。
『うん、順調だよ。さすがに受験勉強の邪魔は出来ないから、デートとかは出来ないけどね』
「そっすか。…で?俺とはこうして2人で会って大丈夫なんですか?」
『一応伝えたよ?日向くんとマジバに行くねって』
「…そしたら?」
『…………分かったとは、言ってたかな』
…嘘、ではないのだろうけれど、恐らくその言葉を吐き出すまでに宮地さんには色々と葛藤があったのだろう。額に青筋を浮かべて睨んでくる宮地さんを想像して顔を引き攣らせていると、マジバのコーヒーを飲む苗字先輩が苦笑いを零した。
「嫉妬されてる…ってことくらいは気づけるようになってくれて何よりです」
『あはは…まあ、付き合うまでは、“お姉さん”を取られて寂しいのかなあって思ってたんだけど』
ただ、“姉”のように思っているだけなら、あんな射殺すような勢いで俺を睨んできたりはしないだろう。再び頭の中に現れた般若のような宮地さんの顔を打ち消そうと頭を振ると、先輩が「日向くん?どうしたの?」と至極不思議そうに首を傾げてきた。あんたの彼氏さんのせいだよ、と言わない俺は大人だと思う。
「なんでもないっすよ。……それより、1つ、気になることがあるんすけど、」
『?なに?』
「…先輩が、宮地さんの事を好きだと思うようになったきっかけは、やっぱり例の合コンに行った日なんすか?」
2人が付き合うようになってから、ずっと疑問に思っていた問い。その問に先輩は、数回瞬きを繰り返すと、小さく微笑んで頷いた。
『うん、そうだね。あの日がきっかけにはなってると思う。』
「…なら、もし、もしもなんすけど……その時、助けに来たのが宮地さん以外の人だったら、先輩は、“その人”を好きになってたんすかね?」
少し、意地の悪い質問をしているという自覚はある。けれど、どうしても聞いておきたかったのだ。先輩が、宮地さんを好きになったことを、どう受け取っているのか。
誰かを好きになるタイミングは人それぞれだ。だから、それを非難するつもりはない。けれど、先輩には市ノ瀬和也という忘れられない人がいた。それでも宮地さんを好きになることが出来たというのなら、前に進む事が出来たのだから喜ぶべきことなのかもしれない。しれないけれど、それは、その想いが、“本物”だった場合は、である。吊り橋効果や和也さんの“代わり”としてでは、意味がないのだ。
じっと真っ直ぐに先輩を見つめる。少し目を丸くさせた苗字先輩は、次の瞬間、まるで俺の意図が分かっていますとばかりに穏やかに笑った。
『…あの日がきっかけになってる事は確かだよ。だから、他の誰かが助けに来てくれていたら、清志くんを好きにはなってなかったかもしれない。でもね、』
「…でも?」
『助けに来てくれたのは“清志くん”だったんだよ』
カラン。とグラスに入った氷の音がした。やけにハッキリと聞こえる先輩の声に、迷いや不安なんてものは一切ない。
『もしもや、例えばの事はいくらでも考えられるけど、でも、それはやっぱり、“もし”の話であって、“事実”とは違う。
清志くんが、私を助けてくれた。それがきっかけで、私は清志くんを好きになった。…それが、私にとっての“事実”。変わることのない、“今”なの。だから私は、それでいいと思う。それが分かってれば、いいかなって思うの』
愛おしそうに目を細めてカップを見つめる先輩は、きっと、宮地さんのことを想っているのだろう。なんて幸せそうな顔をするのか。こんな表情してる人に、さっきの質問は愚問だったな。
「すんません」と頭を下げると、「謝らないで」と先輩は首を振った。
『日向くんが、私を心配して聞いてくれたんだって分かってるから』
「…けど、余計なお世話だったすね。…おめでとうございます。ちゃんと、幸せにして貰って下さいよ」
『…ありがとう、日向くん』
「次は日向くんの番だからね」と笑う先輩に、「余計なお世話っすよ」と顔を逸らして返せば、苗字先輩の口から楽しそうな笑い声が零れる。
初めてあったのは、体育館。指輪を失くしたこの人は酷く泣きそうな顔をしていた。和也さんのことを聞いたのは公園で。苗字さんは愛おしむように、でも寂しそうな顔で指輪を見つめていた。離れていった時も、和也さんの事を思い出にして忘れてしまうのではないかという先輩の声は、怯えたように震えていた。
でも、今、先輩は笑っている。
川で指輪を失くしたあの日から、先輩は少しずつ変わっていった。和也さんのことを忘れたくないと嘆いた人が、俺たちのことを和也さんと同じくらい大事な存在だと言ってくれたのだ。けれど、先輩が、先輩の心が、和也さん以外を漸く愛すことが出来たのは、紛れもなく宮地さんがいたから。
きっと、先輩が和也さんのことで胸を痛めることはもうない。それはつまり、そろそろ俺のお役目御免と言ったところだろう。頼られている自覚はあった。気にかけている自覚もあった。だから、少し、ほんの少し、
「……幸せそうで、ほんと、何よりです」
『え?ごめん、今なんて?』
「いいえ、別に。それより、携帯なってますよ」
『あ、ほんと。清志くんかな?』
寂しくないと言ったら、嘘になる。
だから、もし、この先宮地さんがこの人を泣かせるような事があれば、その時は遠慮なくぶん殴らせてもらう。まあでも、目尻を下げて嬉しそうに電話に出る先輩から察するに、そんな日が来ることはきっとないのだろう。
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