夢幻
事故にあってから初めて目が覚めた時、先ず目に入ったのは、涙を流す両親の姿だった。
“もう、いいのよ、名前”
“そうだぞ。無理して思い出す事なんてないんだ。忘れた分は、また新しく作ればいい”
そう、哀しそうな笑顔を見せる2人に、あまり何も考えずに頷いてしまった。それを、今、酷く後悔している。
『…あれ?黄瀬くん?』
「え…名前っち…?」
夜中、いつまでたっても眠れないため、渇いた喉を潤そうと食堂へ出れば、何故か黄瀬くんが椅子に座っていた。もしかして彼も眠れなかったのだろうか。
『黄瀬くんも眠れないんですか?』
「え…あ、はいっス」
『そうなんですね。私も、目が覚めちゃったんです』
苦笑いを浮かべて見せて、キッチンの方へ向かう。冷蔵庫を開けると都合よくお茶のペットボトルが入っていたので、それを2つ手に取り再び食堂へと顔を出す。
「はい、どうぞ」「え、いいんスか?」「飲み物は好きに飲んでいいって言われてるので」
だからどうぞ。と笑ってペットボトルを差し出せば、少しの間を空けてから、黄瀬くんはゆっくりとペットボトルを受け取ってくれた。
「どうもっス」
『いえいえ』
お礼を言ってくれる彼に軽い調子で返事を返して、持ってきたお茶を1口含む。それに倣ったのか、黄瀬くんも同じようにお茶を飲み出した。
冷たいお茶にホッと息をつくと、座ったままの黄瀬くんが隣の椅子を引いた。座ったらと言う事だろうか。伺うように彼を見ると、「座んないんスか?」と尋ねられたため、お礼を言ってから彼の隣の椅子に腰掛ける事にした。
『黄瀬くん、明日も練習ですよね??大丈夫なんですか?』
「…まあホントは寝た方がいいんスけど…ちょっと夢見が悪くて、」
『…そっか…』
「…あと、敬語はいらないっスよ。同い年だし」
黄瀬くんの申し出に有り難く頷かせて貰う。
すると、黄瀬くんの綺麗な顔が逸らされるように俯いた。まるであの時の赤司くんみたいだ。手に持ったペットボトルを見つめたまま、黄瀬くんが徐に唇を動かした。
「…名前っちは、怖くないんスか?」
『え?』
「…赤司っちにあんな風に言われて、俺たちの事怖くないんスか?」
黄瀬くんの言葉に、先ほどの赤司くんの言葉を思い出す。
“君が失った記憶がどういうものか…分かるさ”
「…あんなの、誰だって気づくっスよ」
自嘲気味に笑いながらも、ペットボトルを握る黄瀬くんの手に力が篭ったのが分かる。
そうだね。誰だって気づくよね。
私が知らない記憶をどうして知っているのか、そんなの答えは1つしかないのだから。
『…ねえ、黄瀬くん。聞いても…いいかな?』
「…何を、ッスか?」
『…最初に会ったとき、言ってたよね?“私が知り合いの子に似てる”って』
「っ…あれは、」
『どんな子だった?』
「え…」
『“私に似てる”っていうその子は、どんな子だった?』
その子が誰なのか分かっているくせに。我ながら、なんともずるい聞き方だ。
驚いたように顔を上げた黄瀬くんのレモン色の瞳をじっと見つめると、眉を下げて困ったように微笑んだ黄瀬くんが柔らかく目尻を下げた。
「…普通の子っスね」
『普通?』
「そう、普通。あ、もちろんいい意味でっスよ?俺たちの中学ってバスケのスゲエ強豪で、マネージャーも結構いたんスけど、その子は、桃っちと2人で1軍マネージャーをしてくれてたんス」
さつきと1軍マネージャー。
確かに練習を覗いた限り、さつきはマネージャーとして動きがテキパキとしていた。慣れもあるのだろうけど、彼女が採っていた選手のデータを見れば、さつきがどれだけ凄いのか一目瞭然である。
それなのに、“普通”だと言う“その子”は、さつきと1軍マネージャーだなんて、本当に務まっていたのだろうか。
口にはしなくても、こちらの疑問に気づいたのか、小さく笑った黄瀬くん。そんな彼に首を傾げると、黄瀬くんの目が優しく細められた。
「普通だけど、それが良かったんスよ」
『…えっと…どういう…』
「桃っちは、確かに特別っスよ。あんなマネはそうそういないっス。だからこそ、そんな桃っちに嫉妬とかそういうの無しに“普通”にマネージャーの仕事をこなすって、ある意味凄い事だったんじゃないかなって」
『嫉妬って…自分に出来ないことを嫉妬しても仕方ないよね?適材適所って言うし、』
そうだよね?と言うように黄瀬くんを見つめ返すと、口元を緩めた彼が、どことなく嬉しそうに笑った。
「…それも、言ってたっス」
『え、』
「“適材適所なんだから、さつきと自分を比べたって仕方ない”って」
「同じ事、言うんスね」と言う黄瀬くんはやっぱり嬉しそうだった。
そんな事、言ったのだろうか。ポカンとしたまま固まっていると、柔らかく笑んだまま、黄瀬くんが更に言葉を紡いだ。
「…俺、最初は“なんでこの人が1軍マネなんだろう”って思ってて、でも…それを聞いた時、単純に凄いなって思ったんス」
『…そうかな…そんなに凄いことなんかじゃないと思うけど』
「凄いっスよ。モデルしてるとよく分かるんスよ。自分と人を見比べて、自分の方が優れてるって思いたい人とか。俺だって、バスケしてると青峰っちや火神っちと自分を比べて、自分の方が強いって思いたいっスもん。だから、自分は自分、他の人は他の人だって受け入れられるその子が、俺にとっては凄かったんス」
以前雑誌で彼を見かけたとき、綺麗な顔をしていると思ったけれど、今の彼の表情は、言葉では言い表すのが勿体ないくらい綺麗だ。
彼の表情につい見惚れていると、そんな黄瀬くんは再び視線を落とした。
「…赤司っちは、ああ言ってたけど…でも、俺は……出来ることなら、思い出して欲しい」
『っ、黄瀬、くん…』
「赤司っちの言ったとおり、名前っちにとっては嫌な思い出もあるかもしれない。でももし、もし名前っちが全部思い出して、俺たちの事が嫌になったとしても、それでも俺は、忘れたままで居て欲しくないんスよ」
昼間とは違い、閑散としている食堂に黄瀬くんの声が響く。そんな事を言ってくれる彼に、嬉しいと思ってしまう自分がいた。
『…ありがとう、黄瀬くん』
はい、でも、いいえでもない卑怯な返し。
それをどう受け取ったのか、黄瀬くんは小さく頷いてくれたのだった。
思い出したい。でも、思い出していいのか分からない。
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