決断
苗字さんには何も言わない。
それが、僕らの決断だった。
あの後。僕らを各部屋と、体育館へ案内してくれた苗字さんは、「抜か喜びさせて、ごめんなさい」と申し訳なさそうに謝って、次の仕事へと行ってしまった。
謝る必要なんてない。抜か喜びなんかじゃないのだから。僕らが探していたのは、紛れもなく彼女なのだから。
小さくなっていく背中を見ながら、ソッと目を細めていると、「黒子、」赤司くんに呼ばれた。振り向いて彼を見ると、キセキの彼らが集まっていた。
“なんですか?”
“……苗字のことなんだが…彼女は、俺たちの知る苗字本人で間違いないと思う”
“…そう…ですね…”
“…黒子、俺は彼女に、何も言わないつもりだ”
“なっ…!なんでっスか赤司っち!!漸く、漸くまた会えたのに!なんで…!”
“……僕も、それがいいと思います…”
“っテツくん……”
“今、彼女があんな風に笑えるなら…それで、いいと思います”
青峰くんと紫原くんは何も言わなかった。桃井さんと黄瀬くんは少し不満気だった。緑間くんは悲しそうだった。赤司くんは、どこか、寂しそうに笑っていた。
忘れられてしまうのは、僕も寂しい。
けれど…彼女は笑っていた。僕たちのよく知る、あの笑顔で笑っていた。それなら、僕は。もう、それだけでいい。これ以上は望まない。望めない。
初日の練習前に決まった僕たちの決断。
それを聞いていた他のメンバーの反応はそれぞれ。ただ、火神くんと高尾くんは納得できなさそうに眉根を寄せていた。
『お疲れ様です。夕食できてますよ』
練習を終えて食堂に行くと、件の彼女が笑顔で出迎えてくれた。まるで、中学の頃に戻ったようだ。合宿のときは、いつも彼女が料理係を担っていた。
ニコニコしながら、僕らが席につくのを見守っていた苗字さんだったけれど、「あのさ、ちょっといい?」そんな彼女に、高尾くんが話しかけていた。
『?はい。なんですか?』
「あー…あの、もしよければ一緒に飯食わない?」
『え?』
急な提案に驚いたのは苗字さん本人だけでなく、端で聞いていた僕もだった。一体何を考えているのだろう。
眉を下げて高尾くんを見ると、高尾くんの視線が一瞬だけ緑間くんに移った。ああ、そういうことか。
『私は、管理側なので…』
「あらあら。楽しそうね〜。一緒に食べさせてもらいなさいな」
『え?で、でも……』
「同い年くらいの子たちと、仲良くしなさいな」
管理者であるおばあさんに背中を押された苗字さん。それを聞き逃すはずのない高尾くんは「よっしゃ!こっちこっち!」と彼女の腕を引いていく。
僕の後ろを通り過ぎて、隣のテーブルにやってきた苗字さんは、まだ困った顔をしながらも、渋々席についていた。
彼女の向かいには緑間くんがいる。
高尾くんはこれを狙っていたのだろう。侮れない人だ。チラリと伺うように緑間くんを見れば、余計なことをするなと言うように高尾くんを睨んでいた。
「んじゃ、自己紹介からな!俺は高尾和成!4月から高2です!」
「大坪泰介だ。4月から大学1年だ」
「俺は木村信介な。大坪と同い年だ」
「宮地清志。以下同文」
「宮地裕也。4月から3年だ」
その後もレギュラーメンバーの自己紹介を終えると、秀徳メンバーの視線が、自然と残りの1人に集まった。「ほらほら!最後は真ちゃんだぜ」と笑いながら言う高尾くんに、大きくため息をついた緑間くんは、ずっと合わそうとしなかった視線を、漸く彼女と合わせる。
「…緑間真太郎。そこの馬鹿と同い年なのだよ」
「ちょ!馬鹿とか!真ちゃん酷ぇ!!」
「本当のことだ。このお節介め」
ふんっと鼻を鳴らして一足先に箸を進めだした緑間くん。それを見た高尾くんは小さく息をつくと、時折苗字さんと談笑しながらも食を進めた。
僕も早く食べてしまおう。あまり気にしていては食いっぱぐれてしまう。
漸く視線を秀徳のテーブルから自分のトレーに乗った料理へ移す。パクパクと箸を進めて食べていると、不意に高尾くんの、恐らく苗字さんに向けての問いが耳に届いてきた。
「苗字さんっていくつなんすか?」
『16です』
「え、てことは同い年か!学校は?」
『あ、私高校には通ってなくて…』
「え…」
テンポよく会話をしていた高尾くんが、言葉を詰まらせた。
『中学の…3年の秋、らしいんですけど、私、事故に合ったみたいで。それで、記憶もそのときに失くして、通信教育で中学過程の勉強してました。あ、でも脳が覚えてるのか、意外とすんなり終えちゃって、今は高校1年生の範囲を勉強してます』
「そう…なんだ……」
『はい。だから、そろそろ何処かの高校に編入しようかなあ、とは考えてます』
「試験受かればですけど」と明るい口調で言う苗字さんに、高尾くんは黙ってしまった。もしかすると、申し訳ないと思っているのかもしれない。
会話を聞きつつ、山盛りの白ご飯から1掬いして白米を頬張っていると、「あのさ、」今までよりもどことなく真剣な声色の高尾くんの声が聞こえてきた。
あれ、これは拙いのではないだろうか。
ハッと顔を上げてそちらを見ると、険しい顔をした緑間くんと目が合った。
「…あのさ、苗字さん、思い出したいとは思わねえの…?」
「…高尾、」
「中学の記憶、全部ないんだよね?それ、思い出したいとは思わねえの??」
「高尾!!」
緑間くんの高尾を咎める声が食堂に響く。あまり声を荒げることのない彼のそれに、離れた位置に座っていた陽泉の人たちまでなんだなんだと彼らを見る。
ジッと答えを待つ高尾くんに、ほんの少し目を丸くした後、苗字さんは眉を下げて笑う。
『…最初は、思った』
「っそれなら、『けど、やめたの』え…」
『思い出そうとすると、酷く頭痛がするの。それに……中学の私のことを聞こうとすると、父さんや母さんが、辛そうなの』
苗字さんの言葉に、中学時代何度か会った彼女の両親が思い浮かんだ。
きっと、苗字さんが中学の記憶を取り戻そうと質問する度、彼女の両親は中学の頃の苗字さんを思い出すのだろう。僕らが傷つけてしまった、あの頃の彼女を。そんなもの、答えたくないに決まっている。思いださせて、またあんな顔をさせるくらいなら、いっその事、このまま忘れたままでいい。そう望む苗字さんの両親の気持ちが痛いほど分かった。
顔を俯かせて、テーブルの下で拳を握ると、向かい側にいた火神くんがゆっくりと立ち上がった。
「…じゃあ、あんたに忘れられて傷ついてるヤツらのことは、もういいのかよ?」
「なっ!おい火神!!」
「あんたが中学で仲良かった奴だっていたんじゃねえのかよ。そいつらのことも忘れちまったままでいいのかよ?」
火神くんにしては、随分と静かな声。けれど、いつもより真剣味を帯びたものだった。
火神くんの問いかけに、少しだけ間を空けたあと、苗字さんはゆっくりと答えた。
『入院中、御見舞に来てくれた人たちとは、今でも連絡をとったりしてます。でも……何か足りなくて、』
「…足りない?」
『…多分、一番来て欲しいと望んだ人は、来てくれなかったんだと、思います』
食堂に響いた彼女の答えは、まるでナイフのように、僕たちの心臓へと刺さった。
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