口付けるーkiss
嘘をついて仕事を休むのはこれが初めて。会社に風邪をひいたので休む旨を伝える時、ほんの少し罪悪感を感じた。でも、これでいい。京治くんと過ごす時間の方がずっとずっと大切なのだから。
『よし!それじゃあ行こうか』
「はい」
自然と差し出された手を握り返す。こうして彼と手を繋ぐのは何度目だろうか。何気なく外出するときや、京治くんの練習の帰り道。他にも色んな場面でこうして彼の手を握り締めたのに、それも、もうすぐ出来なくなる。
ソっと込めた力に気づいてくれたのか、離れないように、京治くんも力を込めてくれた。
『はい。これチケットね』
「すみません」
先ず初めにやって来たのは、最近話題の水族館。前々から興味はあったけれど、1人でくる勇気はなかったので、この機会に京治くんと行くことに決めた。
2人で入口を通って中へ入ると、色々な形の水槽に包まれた空間はほんの少し薄暗い。
「何見たいんですか?」
『んー…順路に沿ってみようか』
「分かりました」
ゆっくりとした歩幅で奥へ進んでいく。平日ということもあり、水族館の中は思っていたより静かだ。
色々な水槽を見て談笑しながら進んでいると、こっそり楽しみにしていたラッコのコーナーにたどり着く。
可愛いなあ。気持ち良さそうに浮かぶラッコを見て微笑んでいると、小さな笑い声が横から聞こえてきた。
『…京治くん、今笑ったでしょ?』
「っすみません。名前さんのこと見ていたら、可愛いなあと思って」
『…ここは水族館だから、ちゃんとラッコを見て下さい』
拗ねたふりをして、視線をラッコに戻すと、また小さな笑い声が漏らされた。それに内心苦笑いを浮かべていると、二匹のラッコが楽しそうにじゃれ合っているのが目に入った。
『…ねえ京治くん、知ってる?ラッコってね、眠るとき群れから離れないように、互いに手を繋ぐんだって』
「へえ。始めて知りました」
『…私も…ずっと京治くんを離さないように出来ればいいのにね』
ちょっとだけ、零してしまった弱音。ああ、もう何をやってるんだろ。
笑って誤魔化そうとすると、握られていた左手が持ち上げられて、先日貰った指輪がキラリと薄暗い中で光る。優しく笑んだ京治くんは、中指に1つキスを落とすと、柔らかく目を細めた。
「繋いでおきますよ、俺が。この指輪がある限り、離したりしませんから」
『…ふふっ…京治くんは何をやっても絵になるね』
「ありがとう」と笑ってみせると、京治くんも嬉しそうに顔を綻ばせた。
十分に堪能してから水族館を出ると、ちょうどお腹が空いてきたので、すぐ近くの定食屋さんに行くことに。
注文をして待っていると、「ここで良かったんですか?」京治くんが不思議そうに首を傾げる。
『もっとデートらしい所の方が良かった?』
「いえ、俺は名前さんとならどこでも…」
『うん、私も。京治くんと一緒ならどこでもいいよ。それにカフェのご飯も美味しいけど、ここの方が沢山食べられるし、現役バレー選手くんにはこっちの方がお得でしょ?』
ね?なんてちょっと悪戯っぽく言うと、一瞬目を丸くしてから、おかしそうに笑われてしまった。
それから、定食屋さんを出ると、2人で街をブラブラ散策。お気に入りの家具屋さん。行ったところのないような、小さな路地で見つけた雑貨屋さん。今話題のクレープ屋さん。とにかく色々な所を歩き回ったのに、不思議と疲れないのは、隣にいる彼のおかげ。
ああ、やっぱり、この人が愛しい。
口に出すことのできない想いが胸の中に溢れて、つい目尻から零れそうになるのを必死で抑えた。
漸く日が暮れて来た頃、何気なくたどり着いた公園のベンチに座ると、そこで遊んでいた子供たちはお母さんに手を引かれて帰って行った。
公園にしては静かな空間が流れる中、京治くんを見ると、彼の腕がまた透けていることに気づく。
『…京治くん、っ、腕が…』
「……また、透けてますね……」
自分の腕を悲しそうに見つめる顔も、だんだんと色素が薄くなっていく。きっと、彼はもうすぐ消えてしまう。分かっていたはずなのに、その時が来てしまえば、堪えていたものが頬を伝った。
「…名前さん、すみません…」
『謝らないで…私、京治くんと一緒にいれて良かった…だから…』
「…はい。俺も…幸せでした」
誰もいない公園を照らしていた太陽が落ちていく。その動きに伴うように、京治くんの姿は薄れてしまう。
行かないで。
たった一言を飲み込んで、涙で濡れてしまった顔に無理矢理笑顔を作る。
『京治くん、大好き』
「俺も、愛してます」
最後の最後に重ねた唇は、甘くて愛しく、でも涙の味がした。
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