93話 菅原 の 話
「ま、マネージャー志望の苗字名前です!よろしくお願いします!」
初めて会った名前は、とても緊張していて、顔を真っ赤にしながら挨拶をしてきた。「そんなに緊張しなくても大丈夫大丈夫」と笑ってやると、名前はキョトンとした後、ホッと安心したように笑ってくれた。
きっと、その時に出来上がってしまったのだろう。
名前の中の、俺の、“優しい先輩”というイメージが。
***
「…は?え…今なんて言った?」
「だから!名前のヤツ、音駒の主将と付き合ってんすよ!!」
ガツン。と思いっきり頭を殴れたような感覚。嘘だ。信じられない。そんな言葉が脳内で反芻されていると、話題の中心である彼女が「失礼します、入っても大丈夫ですか??」と部室の外から声をかけてくる。恐らく救急箱などを取りに来たのだろう。
田中の言葉に動揺を隠せない大地が慌てて「いいぞ」と返すと、いつもと変わらない様子の名前が中へ入ってきた。
『あ、すみません…。スガさんと大地さん、まだ着替えてなかったんですね』
「え?ああ、いや、それはいいんだが、…」
『?大地さん?』
目を合わさずに答える大地を不思議そうに見上げる名前。大きな瞳を瞬かせる彼女に「名前、」と声をかけると、「なんですか?」と柔らかく笑って振り返ってくれる。
ああ、好きだな。
笑顔1つ見れただけで、こんなにも想いが溢れてくるなんて。ドクドクと煩い心臓の音を宥めるように、1度だけ大きく深呼吸をして名前と目を合わせると、「スガさん?」と首を傾げる彼女にゆっくりと口を開いた。
「…音駒の、…黒尾と、付き合ってるのか?」
『えっ…!た、田中が言ったの??』
不意打ちだったのであろう問いかけに、目尻を赤く染めて田中を見た名前。そんな彼女に歯切れ悪く田中が頷き返すと、怒るでもなく、「そっか」と呟いた名前は、赤くなった顔を少し俯かせ、ゆっくりと唇を動かした。
『実は…その…えっと…鉄朗と、付き合うことになったんです』
照れながらも、何処か嬉しそうに告げられた名前の言葉の後に、ドサッと何かの落ちる音がした。音の方を見ると、今入ってきたのであろう月島と山口がいて、目を丸くしていると月島の足元には、月島のカバンが落ちていた。部室に来ていきなり自分の好きな相手が他の男と付き合ってる、なんて聞かされれば誰だってカバンの1つや2つ落としたくなるだろう。
聞くんじゃなかった。と後悔する一方で、目の前で擽ったそうに頬を緩める名前を見ると、黒尾を責める気持ちも萎えていく。どれだけ羨ましいと妬んでも、結局、名前が選んだのは黒尾だったということなのだ。
「…そっか…。…名前も、黒尾のこと、好きなのか?」
『…はい。私も、鉄朗が大好きです』
照れくさそうに、けれど幸せだと言わんばかりの表情で言われてしまえば、「そっか、」としか返せないではないか。下手くそな笑顔で「よかったな」なんて言いながらいつものように名前の髪を撫でると、溢れんばかりの笑顔で頷き返してくるものだから、なんとも言えない気持ちが溢れてくる。
必要な道具を手にして「失礼しました」と出ていく名前。それに続くように田中も部室を出ていくのを見送り、バタンとドアが閉められた事を確認してから大きく息を吐きだす。
そうか。名前は、黒尾を選んだのか。納得出来なくはない。GWの練習試合や夏の合宿を通して知った、黒尾という男は、悪い奴ではない。むしろ、他校の後輩である日向や月島の面倒を見てもくれたし、慣れない場所で戸惑う俺達の事もなんだかんだ気にかけてくれていた。つまり、良い奴なのだ。
「…黒尾が、“悪い奴”なら良かったのになあ」
「…そうだな」
ポツリと零した言葉に、大地も眉を下げたまま小さく頷く。
黒尾が悪い奴だったなら、俺も、大地も、黒尾から名前を奪うことも出来ただろう。けれど。
“私も、鉄朗が大好きです”
あの幸せそうな名前を見れば、そんなこと出来なくなる。「仲良く失恋だな」「ああ」と大地と目を合わせて頷き合っていると、落としたカバンをゆっくりと拾い上げた月島が不機嫌そうに声をあげる。
「…案外、あっさり引くんですね」
「そうでもないよ。暫くは、諦められそうにないし」
月島の声に苦く笑って答えれば、それでも納得出来ないとばかりに顔を歪められる。けれど、きっと、月島だって思っているはずだ。ここで自分の気持ちを名前に押し付けたところで、ただ困らせるだけだと。だから、今は名前と黒尾が上手くいくならそれでいいと自分を納得させるしかないのだと。けど。
「…もし、もしも黒尾が名前の事を傷つけたら、その時は今度こそ遠慮なんてしないけどな」
そう言った俺に、月島はほんの少し目を見開いてみせから、「…そんなの当然ですよ」と小さく小さく頷いたのだった。
“菅原先輩、”
“そんな硬っ苦しい呼び方じゃなくてもいいべ?”
“え、で、でも…”
“田中たちみたいにさ、スガって呼んでくれていいから”
“……菅原先輩って、ほんと、優しいんですね。…じゃあ、お言葉に甘えて、スガさんって呼ばせて頂きますね”
なあ、名前。俺が、本当は優しいだけの先輩で終わらせたくなんてなかったんだと伝えたら、お前はどんな顔をしたんだろうな。
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