混沌に溺れる
(いち)
「俺は永倉。永倉新八だよ」
腹を探るような、いまいち溶け切れていない笑顔を浮かべて、男はそう名乗った。
新八。たしか、小百合の大切な奴の名前も新八だったハズだ。
そして定春いわく、こいつの袖から出てきた手鏡から小百合の匂いがしたのだから、永倉新八、こいつは小百合の想い人なんじゃないか?
俺はそう、仮定を建てた。
俺の手の中にある、やたらと古風な赤い漆塗りのそれは綺麗に光って、椿を思わせる。
ガラスの裏に水銀を塗っただけの、映りが悪い小さな鏡。確か俺が幼い頃の鏡は、こんな感じの歪みの多い代物だった気がする。
そんな手鏡を、俺と永倉の間に置く。
すると、永倉は驚いた様に目を丸くした。
「……コレ、どこにあったノ?」
「てめぇの袖の中だよ。そっから落っこちたんだ」
「そう…か。ありがとネ、拾ってくれて」
戻って良かったヨ、と永倉が柔らかく笑った。
安堵したと言った方が正しいだろうか。
とにかく永倉は表情を緩めて、机に置いた鏡を握りしめて胸に抱いた。
「……それ、女物じゃねぇの?」
「え? ああ、これは俺のじゃなくて、俺の大切な子のなんだ」
幸せそうに笑う永倉。
隣に座っている新八も、そんな永倉の表情に和んだのかニコニコと笑っている。
(へぇ…)
小百合の匂いがするという鏡が、永倉の大切な人の物。
そんで、小百合の大切な奴の名前はこいつと同じ『新八』。
だと、したならば。
(こりゃ、決まりだな)
「永倉、混乱すると思うけど、落ち着いて聞いてもらえるか?」
真剣にそう言うと、奴もそれがわかったらしく、手鏡を袖に仕舞いながら息を飲んで頷いた。
「……えっと、じゃあ俺はどうすれば良いのかネ」
ざっくりとした説明ではあったが、一通り状況を理解したらしい永倉は、頬を掻きながらそう言った。
「…何かしたい事はない訳?」
「あー…やりたい事って言えば…やっぱり小百合に会いたいって事かナ。 この鏡も返したいし」
少し淋しそうに笑い、鏡を入れた方の袖を軽く叩く。
こいつからしたら、小百合は突然隣から居なくなった訳だ。多分、不安やら何やらで、心中平穏ではいられなかっただろう。
なら、永倉と小百合を会わせてやりたい。
小百合も、きっと喜ぶだろう。
漫画みたいな花を咲かせて笑うあいつを想像するだけで、俺は心臓を鷲掴みにされる気がした。
泣かせたり、困らせたりばかりで、俺が小百合を笑わす事はあまりなかったのだ。
運が悪い、というよりも、元々歯車が噛み合わないのかもしれない。
(そういや、最後に小百合の笑顔を見たのはいつだろう)
そう思ったら、無性に小百合に会いたくなった。
いや正確には、小百合と永倉を逢わせて、あいつの喜ぶ顔が見たくなったという方が正しいか。
「あ…無理、か。ここの真選組で保護してるんでショ、確か」
「そう、ですね…。攘夷活動に巻き込まれたら厄介ですし、無理に会いに行くのは止した方がいいかもしれません」
「だよネ…」
眉をハの字に下げて、永倉は頭(こうべ)を垂れた。
新八も、申し訳なさそうに首を倒す。
(こいつら二人は、なんだかモーションがシンクロする事が多いな。)
それはきっと、新八が単純だからだろう。部屋の隅で騒ぐ定春と神楽を一瞥し、俺は目の前に視線を移した。
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