うやむやな純真
(さん)
「じゃあ…お願いがありやす…」
見上げてくる小百合の頬を、空いていた右手でなぞる。くすぐったいのか、小百合は一瞬肩を竦めた。
なぁに?と返した声もまた、子供に向けるようなそれで、本気で掛からなければいけないだろうかと少し前途多難さを感じる。
(道は遠くなりにけり、ってか)
けれど、弟キャラなら近付きやすい。
覆せるかは、俺次第だけれども。
「ねぇ小百合、俺も名前で呼んでくれやせん?」
「名前、で?」
「…ダメですかィ?」
首を傾げる小百合と同じく、俺も少し首を傾ぐ。
小百合は小さく唸り、視線を泳がせる。から、と下駄が一度だけ鳴った。
「…総ちゃん」
ぽつりと呟く。
そしてまた唸って黙り込み、今度は俺に言い聞かせるように普通の音量で繰り返す。
この際、姉上と同じ呼び方になるのは致し方ない事だとしよう。
何故なら、咲いていく表情が、本当に綺麗だったからだ。
「総ちゃん、今から沖田君じゃなくて、総ちゃんねっ」
それはもう楽しそうに言ってのける小百合に、思わず顔が綻ぶ。
小百合も嬉しそうに笑い、繋がれた手を大きく振った。
「そーうちゃんッ」
「何でさァ」
「えへ、なんでもない」
恋人同士のような甘ったるい会話が、こんなに嬉しいと感じるなんて、思ってもいなかった。昔はそんな会話をするのが馬鹿げていると思っていたのに…。
このまま時が止まればいいのに。
そんなメルヘンな事まで頭を過ぎる。
けれど、それは長く続かなかった。
はたと、小百合は俺の後ろに目を向けた。何かを見つけたのか、あ、と漏らすと、途端パァッと微笑んで駆け出す。
勿論繋いでいた手はいとも簡単に解かれ、俺は必然的に掴ませられた空虚に虚しさをおぼえた。
「銀ちゃんだぁ!」
「小百合! 良かった、まだ無事だな、まだ食べられてないな!」
ぱたぱたと離れていく小百合の背中を追って、俺も駆け出す。
腹いせに、小百合にしか目が行っていない旦那に飛び蹴りをかました。
奇怪な叫び声と、地面に肢体が擦り付けられる音が耳につく。
「そ、総ちゃんどうしたの?」
「ちょっとムカついたんでねィ…」
「ちょ、沖田君ひどくない!? 善良な一般市民に飛び蹴りって!君の予想より遥かに痛いからね?!」
「うや、ぎ、銀ちゃん、痛いの痛いの飛んでけー!」
蹴りの入った旦那の脇腹をさすりながら、小百合はそう言った。
子供扱い、というよりも、あれはきっと普段からやっているのだろう。なんか、流れが自然だったし。
「小百合、早く行きやしょう」
旦那の傍らにしゃがむ小百合の手を引っ張って、前へと歩き出す。
しかしその手は思い切り引き返された。
「コラ待て。何処に行く気だ何処に! 家帰るんなら、俺が居るからイイって!」
引いたのは、小百合ではなく旦那だ。
ぐい、と引けば、ぐい、と引き返される。俺と旦那に挟まれて片手ずつ掴まれた小百合は、困ったなぁと笑った。
綱引きの綱状態なのに笑っていられるなんて、スゲェでさァ。
「んん〜。とりあえず手を離してもらえると助かるな。」
小百合は少し間を置いて、そう言った。
その言葉に、俺と旦那は黙って手を離す。
フリーになった両手首を振りながらにこりと笑うと、小百合は帰ろうかと旦那を見た。そして申し訳なさそうに眉根を寄せて俺を振り返る。
「ごめんね総ちゃん、明日の朝迎えに来てもらっても良いかなぁ?」
上目使いでそう言うと、少し背伸びをして俺の頭を軽く撫でた。
言い聞かせようとしてるのだろう。本当に弟のようにしか思っていないのが、よくわかる。
「…仕方ねェや」
これ以上小百合を困らせたところで、利点なんてないだろう。
俺が承諾の言葉を放てば、小百合は破顔してその場でくるりと回って見せた。
楽しそうなそれに、思わず俺も笑ってしまう。
「じゃあ、また明日。よろしくね総ちゃん」
「何時に行っても、怒らないで下せェよ?」
「うん、わかった!」
きゃらきゃら笑うと、小百合は旦那の手を引いて歩き出した。
俺はそんな二人の背中を見ながら、夜の帳を一人淋しく帰るのか。
スゲェ虚しいや。
でも、明日が楽しみでさァ。
これからしばらくは、退屈しなくてすみそうだ。
To be continued.
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