優しい鬼
(に)
「円、小百合……」
湯飲みを両手で持ちながらお茶を飲むその女の名前は、あの時とっつぁんが言った名前と同じ物だった。
それを思い出して口に零れた言葉にそいつは至極驚いたようで、何も言わずに目を丸くしてこっちを伺っていた。
やがて少し震えた声で、訊ねる。
「……なんで、私の姓を知ってるの…?」
「あぁやっぱりお前、円なのか…。 …お前を捜してる奴が居るって言ったろ? そいつから聞いたんだ。」
絞り出されたそれを不思議に思いながらも、俺は返事を返す。
何に気分を害したのか、円は機嫌悪そうに額にシワをよせた。みるみる内に、空気は悪くなっていく。
…なんか、悪い事したか俺?
「円?」
「その名前で呼ばないでっ!」
円は急に声を荒げて、湯飲みを机に置いた。
割れんばかりの勢いで置かれたそれは、ギリギリ中身を溢さずに静止する。
名前の呼び方なんか気にしなくてもいいじゃないかと思ったが、コイツにとってはかなり重要な事らしい。
「円の名は…、その名前は…嫌いなの」
何かに堪えるように切れ切れに言った声は物悲しくて、悪気なんかないのに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
短くなった煙草を灰皿に押し付けて、その黒髪を撫でようと手を伸ばし、思い止まって座り直した。
「…小百合…」
空気を変えようと小さく言えば、円…じゃなくて…小百合はありがとうと言って、ふわりと微笑んだ。
(儚い、それでいて綺麗な笑顔…っていうのは、こういうのを言うんだろうか)
何で『円』の名前が嫌なのか訊ねたかったが、呼んだ時の悲しい顔をもう見たくなかった。
きっと、嫌な思い出でもあるんだろう。
そう思い、俺は新たな煙草に火を点けて全ての説明を始めた。
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