融ける境界 01 「馬鹿、早く逃げろ!!」 殿を務めていたアンリ・ユハ少尉の声を聴いたのは、それが最後だった。 突き飛ばされた場所を銃弾の雨と土煙の雲が覆った。 命令に従って、仲間を担いで必死で逃げた。 それから戦争は、一時的に止まっている。停戦でも休戦でもない。単なる睨み合い。この5年で幾度となく繰り返された小休止だ。 「…少尉、無事かな」 命を拾った兵がひとり、敵陣の方を見遣って呟いた。 与えられたのは小さな天幕。 その出入口たる布を跳ね上げて、軽い足取りで男が簡易ベッドへと近付いて来る。 「意識が戻ったと聞いて参りました。ご加減はいかがですか?」 軽薄な声音の若造。傷ひとつない美しい顔は、前線に立つ人間ではないことを示している。俺は傷に響かないよう気を付けつつ身を起こす。 じゃら、とベッドと足を繋いだ鎖が音を立てた。 『これはこれは、高名なロベルタ少佐殿がわざわざ』 ハインツ・ロベルタ。その非情なまでの効率化された用兵で最年少で少佐にまで昇りつめた男だ。苦い味が舌の奥に広がる。厭な男に捕まったものだ。 捕虜への非人道的な扱いは禁止されている。だが俺は現在『生死不明』だ。拷問に掛けて殺そうが、バレなければ──。 警戒を全身に張り巡らせる俺に構わず、ハインツはぽふりとベッドの端に座った。そしてにっこり笑った。 『ユハ少尉。我が国の言葉がお上手ですねぇ!』 『…そりゃどーも』 こちらの名と階級も知られているか。まずい、どこまで知られている? 俺の他には誰か捕まっているか? どこまで不利になっている? ベッドの上でじりりと距離を取ろうとする俺の脚を、ハインツが掴んだ。 「ぐッ…!」 痛みが脳天まで走り抜けた。捕虜に対する処置としてか、簡単な治療は受けているがもちろんすぐに治るはずもない。くっついてるだけで奇跡だ。 『ああ、そのカオ…!』 ハインツはそう言って薄っぺらい毛布を剥ぎ取る。 「っ!?」 「申し訳ありません、こんな傷を貴方につけるつもりではなかったのですが。どうにも低級な兵が多いようで」 「俺に…? …私の部隊はなんら特殊任務は帯びておりませんが」 「まあ、そうおっしゃいますよねぇ」 ハインツの掌が徐に俺の膝から腿にかけて撫で上げる。「〜〜っ」ぞわぞわぞわッ、と全身に怖気が走った。 『ああ、いい…。××したい…』 「ア? んだって?」 聞き慣れない単語に思わず地金が出た。ハインツも俺の雑な発音が聞き取れなかったようだが、雰囲気は伝わったらしい。きょとんとしたあと、またにっこり笑った。 「これより貴方に拷問を致します」 [*前] | [次#] 『雑多状況』目次へ / 品書へ |