狂気


鬼の棲む城の最上階。
小さな部屋で、燃える刃が鬼の首を落とした。
ボロボロに朽ちる鬼を見つめ、煉獄杏寿郎は刀を鞘に収める。

(先刻から嫌な気配がする。)

城内に蔓延る鬼の気配より更に際立った、鳥肌が立つような本能が警告を鳴らす険悪な気配だった。
なまえを一人で帰らせるべきではなかったか、とよぎる不安。
先刻感じたものが鬼の気配ではないなら、人間だろうか。だが、この様な異様な威圧感を放つ隊士もいなかったはず。
……なまえは無事だろうか。
ばさりと羽織をひるがえし、煉獄は張り詰めた面持ちで部屋を出た。



1人走る城内は静けさに満ち、暗闇には煉獄の足音と呼吸音だけが響き渡る。
何匹もいたはずの触手鬼の気配は全て消え去り、つい先刻まで肌身に突き刺さっていた険悪な気配もぴたりと無くなっていた。
静かだ。
異様に静かなのだ。
生き物の息遣いなど微塵もない。死の感覚が城の壁に、床に、染み付いている。
無事に城から出たとは思うが、あちこちに残る血溜まりに、もしなまえがやられていたら、1人で帰すべきではなかった、と煉獄の心は落ち着かず、人の気配を見過ごさぬよう神経を張り詰めた。
不気味な静謐に包まれ、嫌な予感ばかりが煉獄の心をざわつかせる。
とある階下に足を踏み入れた瞬間、その予感が現実となって煉獄の目下に広がった。
見渡す限りの血の海。肺を満たす生臭さ。
同じ血の色に塗れた、赤黒いものがそこに居た。

気配を探るべく神経を集中させていた煉獄は、最初、何の気配も放たないその赤黒いものを視線で捉えることはなかった。
ただ視界を滑りゆくその物体に、見慣れた何かを感じた気がして、ふと視線を戻す。

ーーーーー人間。

そう気付けば、脳裏になまえがよぎり、ぽつんと小さなその物体に駆け寄った。
近づくほど血に濡れた黒髪がよく見えた。鮮烈な赤は打掛の色だと分かった。なまえかもしれない、という思いが急速に確信へと変わっていく。
胸の内から、燃え猛る後悔が沸き立つ。

「なまえ!!!!」

名前を叫び、飛びつくように肩を抱いてもピクリとも動かない。サァッと全身の血が引いた。
なまえの顔に張り付く髪を掻き分けると、蒼白の頬が現れ、力無く閉じた瞼が見えた。
血の気の失せた唇から息遣いは感じられない。
折れた日輪刀を支えに膝立つなまえの手首を取った。
……とくん、………とくん、と、弱々しい脈が指の皮膚を震わせた。
良かった、生きている。安堵の息が漏れた、その時。

「っヒュ…」

掠れた呼吸音が耳を掠め、本能が走らせた鳥肌の一瞬後に、折れた日輪刀の切先が目先を切り裂いた。

「!?」

間一髪で避けた煉獄に、先程まで死んだように動かなかったなまえがぴたりと距離を詰める。目前のなまえが放つ気配は、煉獄が先程まで気にかけていた異様な気配だった。ゼロ距離で繰り出される折れた日輪刀の斬撃を本能的に避け切った煉獄は、整理しきれない頭のままなまえを見た。
乱れた黒髪から覗く蒼白の顔。白眼を剥いてふらりふらりと立つその姿は、もう意識は無いのだろうと見て取れた。
ヒューヒューと、なまえから聞こえるのは胸を掻き毟りたくなるような呼吸音だ。
ごぶりと口の端から血泡が流れ、蒼白の顎を赤く染める。
肺が破れているのだろう。あの吐血量は内臓も傷つけている筈だ。それどころか、なまえの腹には穴が空いているのだ。
最後に見たなまえからは想像を絶するほど痛ましい姿に、煉獄は息を呑んだ。

「……何故、それほど。」

分かっている。
おそらくこの広間で、触手鬼と対峙したのだろう。なまえの体力は戦うには限界が来ていた。だから、懸命に抑え続けた奥底の自分に身を委ねたのだ。仲間を助ける為だったのかもしれない。だが、死神と畏れられるほどの力に身を委ねたのならば、仲間と共に逃げることもできたはずだ。それほど傷を負う前に、意識を飛ばすほど血を流す前に。
……何故逃げなかった。

いいや、違う。
何故俺が、なまえを守ってやらなかった。
鬼を倒すべく、俺はなまえの身を顧みずに、安全とは言えない城内になまえ を1人追い出したのだ。負傷者を庇い戦うよりも、早急に鬼の首を取ることを優先した。
強さとは弱い者を助ける為の力では無かったか。
鍛錬を重ね、柱の名を冠したと言うのに、大切な継子1人守れなかった。俺を慕ってくれた、愛すべき愛弟子を守れなかったのだ。
鬼からも己に巣食う弱さからも守ると、俺が守ると誓ったのに。

なまえは、覚束ない足でふらりふらりと立っている。陶器のように真っ白な手は硬く刀を掴んで離さない。口や腹から生々しく血を流しながら。
ぐらっと身体が前傾した、と思えば、刀を構え懐に飛び込んできた。

「……っもうやめろ!!」

俺の叫びは広間に響くばかりで、なまえの耳には届かないようだった。なまえの折れた刀は確実に急所を狙い、対して俺は傷つける事を恐れて刀を抜くことも出来ない。
だがこのままでは、なまえは血を流しすぎて死んでしまう。
俺の首皮一枚を掠めた刀。その柄を握りしめるなまえの手首を掴んで引き寄せ、腕の関節を固めた。
滅多に使わない対人の格闘術、勿論なまえに使ったことも無く、その腕の細さに胸が潰れる。
なまえが逃れようともがくたび、ぎり、ぎり、と骨の軋む音が肌に伝わった。

「なまえ、やめるんだ。…折れてしまうぞ!」

焦るままに俺が声を荒げると、ビキビキっと筋膜が歪に張り詰める。まさか、と目を見開いた瞬間、ボグリと鈍い音と共に、なまえが俺の目の前から消えた。
唖然とした俺の視界に、関節の外れた腕がゆらゆらと揺れて映る。
意識は無いはず。それでも俺の命を刈り取らんと襲いかかるなまえ。死神、と文字が脳裏に浮かぶが、死に瀕した身体でもなお日輪刀を手離さないのは、意識が飛ぶ寸前まで触手鬼との死闘の中にいたからだろう。この場で、己以外に存在するものは全て敵だと、その心髄に染み付いてしまったのだ。そして今、俺を敵と認知しているのだ。
正気を失った死神が、なまえの命を守るために、きっと俺を殺すまで向かってくる。
敵を殺し尽くしたと確信するまで。
見開かれた白眼は俺を捉えたまま。生き残るため、無惨な姿に変わり果てたなまえに否応なく胸が締め付けられた。
俺を殺せば、なまえは助かるだろうか。
脳裏にチラつく思考が現状打破の唯一の答えであるかに思えて、俺は静かに息を吸った。
………早まるな。
俺が死んでどうする。
なまえを、この世界に1人残すつもりか。
俺を殺した罪を背負ってしまったら、なまえはもう生きてはいけないだろう。
俺が、隣で君を信じ続けると決めたんだ。
なまえの構えられた日輪刀を見据える。

「死神よ!俺は煉獄杏寿郎!!君達を必ず救い出す!!
来いっ!!!!」

俺が叫ぶのとなまえが地面を蹴ったのは同時だった。
一瞬で目の前に現れたなまえの手には、折れた刃。腹部を冷酷に狙う切先を見つめ、柄を握る白い手に俺の手を重ねる。
そしてーーーーー。
ずち、と鈍い衝撃が腹の皮膚を食い破った。
奥歯で痛みを噛み殺しながら、重ねた手に力を込める。
思っていたよりも傷は浅い。
全力で体当たりをしてきただろうに、驚くほど衝撃は軽かった。隊服から伸びる足は今にも力が抜けそうだとブルブルと震えている。それでも、刀を握る手は硬いまま、俺の胸にぶつけた肩をぐい、ぐい、と押しつけてくる。だがその力は赤子のようだ。
もう力など振り絞っても一滴も残っていないのだろう。死神の気迫だけで立ち向かってきていたのだ。
床の血に踏ん張りが効かなかったのか、ずるりとなまえの足裏が滑り体勢が沈んだ。が、グワッと顔を上げ、俺を睨み付ける。
手を重ね腹に刺さった刀を固定したまま、俺は静かにその目を見返した。

「……死神よ。礼を言う。
君がいたから、なまえは生き残れたのだろう。」

俺の語りかける声は聞こえていないようだ。更に深く刺そうと込められる力を、俺は抵抗することなく受け入れた。ずち、ち、と刺さっていく刀。強烈な痛みが皮膚の内側を焼き付けた。
限界を超えた体で力んだせいか、なまえの口端からはとめどなく血が溢れ落ちていく。

「…ッもう、ここには敵はいない。
大丈夫だ。俺が必ずッ…なまえを助ける。
……だから、なまえを…っ返せ!!」

俺の声が広間に響き渡り、その残響すら虚空に呑まれたとき。ごぽっと一際大きな血の塊を吐き出して、なまえの力が抜けていった。
落ちるなまえの手に引かれ、腹の刀も抜け落ちた。どさり、と俺の胸に力尽きたなまえが身を委ねる。細く軽いその体をしかと抱き止め、己の腕の中いっぱいになまえを閉じ込めてしまえば、安堵感からか力の抜けた俺の膝は地面を突いた。腕に収めた細い体からは、弱々しい脈打ちが伝わってくる。俺の胸に頬を預けた愛弟子の顔は、眠りに落ちたかのように安らかだった。先程の鬼の形相は見る影もなく消え去っていた。

「………帰るぞ、なまえ。
俺たちの家に帰ろう。」











霞んだ思考がはっきりしてきて、1番に目に飛び込んだのはやつれた陽賀の姿だった。俺の横で背中を丸めて蹲り、ぶつぶつと際限なく呟いている。
ハッと辺りを見回せば、ここは城の外で、数人の隠が俺たちの周りで忙しなく手当の準備をしていた。
ーーー俺は、ずっと呆けて立ち尽くしていたのか。城を出てから、隠が着くまでずっと。
記憶を辿ろうとした瞬間、血だらけの女の顔が脳裏に浮かび上がって、突き上げるように鳥肌が全身を駆け巡った。情けなくも力の抜けた腰が地面に落ちる。
死神……いや、あれは、みょうじだった……
倒れ込んだ俺の視界に、慌てて駆け寄ってきた隠達が映る。大丈夫だ。俺は怪我なんかしてねぇんだ。
それより、…それよりも……。
思い出されるみょうじの身体。血の海に入る前から血だらけだった。腹に穴は空いていたし、足を引きずって俺たちに駆け寄ってきた。

『しずえさん、獪岳さん。逃げて。
鬼は1匹も、ここから先へは行かせない。あなた達を追わせないから。』

『獪岳とか言ったな!?女連れて城から出ろ!!』

虚な記憶にも焼きついているみょうじの言葉。
……まさか、あの身体で戦ったのか?
その通りだと、断片的な記憶がみょうじの戦う後ろ姿を見せつけてくる。

「みょうじはっ…!?
あいつはっ!どこだ!?死んだのか!?!?」

俺の顔を覗き込む隠しの腕を引っ掴めば、ぎょっとした顔の隠がブンブンと首を降った。

「わ!わかりません!
私たちが到着した時は獪岳さん達だけだったので!!」

「……おそらくまだ城の中でしょう。大丈夫です、煉獄様も一緒でしょうから。
きっと生きてますよ。」

宥めるように、別の隠が俺の腕に手を添えた。
隠の言葉にずるずると体の力が抜けていく。
安堵、しているのか…?みょうじが生きててよかったと…?
良いものか、あんな化け物が生きているなど。
目に焼きついた残虐さに怯える一方で、じわりじわりと安堵感が胸に沁みていく。
その時、周りの隠たちがざわりとどよめいた。

「煉獄様!!」

「よくぞご無事で!」

「すぐに手当いたします!!」

駆け寄っていく隠達に誘われるように視線を向ければ、屈強な炎柱が赤い何かを抱いて城から歩み出てくるところだった。

「俺の手当は良い!!
先にこの子を診てやってくれ!!」

俺の継子だ、と名残惜しげに隠に抱えていたものを渡す炎柱。彼の腕から隠へと渡る際、赤い着物から白い腕が力なく垂れ下がった。
ひやりと背筋を冷たいものが流れる。
固まった俺の隣に、トサリとそれは寝かされた。
ぎこちなく隣を見れば、目に映っていくのは赤い着物に、流れる黒髪。雪のように白い顔が、深い眠りに落ちているかの如く安らかに目を閉じている。
ザワッと逆立つ全身の毛。
それは恐怖でも怯えでもなかった。
ただ、胸の深くまでを燃やすような後悔の念だった。
みょうじから目を離すことなどできるわけもなく。白い頬に残った、拭い切れていない赤い血のなんと痛ましいことか。
みょうじを見つめる目の端に白い羽織が映り、炎柱がみょうじの隣に腰を下ろした。こちらが泣きたくなるほどの優しい視線でみょうじを見つめている。
あぁ、俺が、……俺がもっと強かったら。
こんな女1人にあの鬼全てを背負わせることなんてなかった。
こんなちっぽけな女1人が、死んでるかも生きてるかもわからない顔で俺の隣にいることはなかったのに。
俺が強かったら。
胸を抉るような後悔が静かに俺を包んでいく。
みょうじの顔が、熱い雫で滲んで、見えなくなった。




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