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 晴天の眩しい陽光が降り注ぐ彦根藩世田谷領、その天守の広間に煉獄杏寿郎は座していた。先の戦でかくも敵藩の軍兵を退けた武勲を授けるため、己を招いた城主を待つ煉獄は、穏やかな春の空に囀る鳥の鳴き声に耳を傾けている。高く澄んだ鳴き声に馴染んだ鼓膜が、女の軽い足音と衣擦れの音を捉えた。

(殿はまだ伏せておられるのか…)

 男のものとは似ても似つかぬ足音に、昨年から病床に伏す殿と臨時城主を勤め上げる姫君を思い出し、少しばかり痛む頭を垂れて主を待つ。
戸に張り付いていたお女中がしんなりと頭を下げれば、衣摺れの音とともにふんわりと香の香りが漂って煉獄の鼻腔をくすぐった。
しずしずと床を擦る着物を視界の端で見やりながら、いやはや幼少より野に原に駆け回っていた少女も立派な姫になられたと、誇らしさのなか幾分寂しさが胸中に滲む。

「面を上げよ。」

 凛とした声が降りかかった。変わらぬ姫の声も城主となってからは聞こえの色は様変わりしており、凛々しく鋭く、聞く者の鼓膜を震わす姫の心情は煉獄には伺い知れない。

「恐れ多くも。」

「よい、面を上げよ。」

「は!!」

 ゆったりと起こした上体に、なお遅れて視線を上げれば、姫の黒い双眸に視線を捕らわれる。

「勝ち戦、祝着であった。」

「恐れ入ります!」

 人には大きすぎると苦言を受ける煉獄の声も、武勲を授ける姫には頼もしく聞こえるらしい。品良く口角を上げ、強い眼差しでひとつ頷く様子はすっかり城主としての振る舞いが板に付いているようだった。

「褒美を。」

「はい。」

 姫に付く乳母の指示に、煉獄の目の前に一枚の和紙が差し出された。そこには馬やら米やら、褒美の定番とも言える品々が書かれている。最後に小さく「芋」と見慣れた上品な字で付け加えられており、ふっと煉獄の口元が綻んだ。

「先の戦の話が聞きたい。
仕事を抜けて来た者もいるでしょう。みな持ち場へ戻りなさい。」

 姫の言葉に、次々と頭を下げ腰を上げる者たち。暫し時を待てば、がらんとした広間に残るのは姫と乳母に侍女1人、そして煉獄のみとなった。
馴染みの深い顔触れである。幼少より共に育った煉獄、姫、そして侍女の胡蝶。彼らを我が子のように見守ってきた乳母の吉野。先程とは打って変わって、今日の陽気に似た空気が漂った。

「杏寿郎!大儀である!
よくぞ無事に戻った!!」

「姫様、はしたのうございますよ。」

 身を乗り出し、声高くにっこりと笑いかける姫をいつものように吉野が諫めるも、嬉しい心中は通っているのであろう。許せ、と笑う姫に吉野も静かに微笑んでいる。

「俺にはもったいないお言葉です!
此度の勝利も姫様の采配があったからこそ!!」

「そうですよ??皆もっとなまえ様に感謝するべきです。」

 唇を尖らせ話に割り込んできた胡蝶が口調を強めた。おや、と自身に集まった視線に、拳を握りしめ我が意を得たり!!とばかりに口を開く。

「ただでさえ、数年前から亡くなられた奥方様のお仕事を代わられているのに!殿のお務めまで果たされて、私はなまえ様がいつお休みになられているのか心配で堪りません!…煉獄さん、聞いてます!?」

「うむ!?聞いているぞ!?!?」

 まるで自身を姫様の苦労をわかっていない衆の頭であるかのように詰め寄るしのぶに、慌てて煉獄は首を縦に振った。

「ふふ、よいのだしのぶ。」

 春風のように軽やかな笑い声が耳を撫で、煉獄は惹かれるように姫に視線を戻した。口許に袖を当て柔らかく笑う姫は眩しく、そして痛いほどに煉獄の心臓を貫いた。姫の笑顔からはいつだって目を離せない。愛しさが胸をせめぎ合い、この瞬間の瞬きすら惜しいと感じるほど。
 この様な心地は、もう幾度目だろうか。
 物心つく頃より心の内に仕舞い込んだ恋慕の情。武士が姫に懸想するなど有るまじきこと。姫への想いを断ち切るため、剣に、馬術に、戦法に打ち込んだが、日に日に増す姫の美しさが仕舞い込んだ煉獄の恋心を無理矢理引き摺り出すのだった。

(本当に美しくなられた…姫様の名が周辺諸国に聞こえるのも分かる。)

「私ができることで父上の務めを代われるならば、それは幸せなことです。
国にとっても、民にとっても。
それに、私にはしのぶと吉野がいてくれる。敵を蹴散らす強い獅子侍も。なぁ、杏寿郎!」

 晴れきった姫の笑顔に、しのぶと吉野も釣られて笑った。最近涙脆くなった吉野の目はうっすらと潤んでいる。そんな様子に煉獄の頬は自然と緩むのだった。

「姫様のご苦労は、我が藩の者皆が存じております!
しかしその難儀もいざ終わりが見えんと言うもの!!」

 普段と変わらぬ明朗な声で語りかければ、姫、吉野、しのぶが揃って煉獄を見た。2人の間で煉獄を見上げる姫の様は年相応の娘のようであり、煉獄の目にはむず痒いほど可愛らしく映るのだった。

(あぁ、まったくうちの姫様は自覚が無いから困る!!
……そんな隙の多い姿、嫁ぎ先で見せたら危ないだろうに。)

 ぎゅ、と膝の上で拳を固め居住まいを正したのち、煉獄は己の愛しい主人を正面から見据えた。

「縁組が決まったとのお話を聞きました!
お相手は武蔵国でも名の通る藩主、黒塚様であると!!」

 縁組という言葉が出た途端、姫の顔に翳りがさしたのを煉獄は見逃さなかった。吉野は痛ましげに唇を噛み、胡蝶は姫の手を包んで煉獄をきっと睨みつける。それでも煉獄の堂々たる居住まいが崩れる事はなく、熱く想いを堪えた瞳を愛おしい姫に一心に注ぐのだった。
 胸を焦がす炎は消えはしないが、人質として他国に嫁ぐこの姫に、在らん限りの幸福が訪れることを願わずにはいられない。俺には何一つ捧げる術は無い。だからせめて、心からの祝辞を。
 それは、己の分不相応な恋心に始末をつけるためであり、己の忠臣としての言葉を、いずれ去る姫の心に残すためであった。

「どうか、…どうか姫様には一国の姫として」

「よい。」

 ぽつりと漏らされた姫の言葉は、流れる男らしい煉獄の声を止めるには些か小さ過ぎた。聞きたくないとばかりに背けた顔に黒髪がかかるも、美しく褒めそやされてきたそれは続く煉獄の言葉を阻む盾には成り得ない。

「我らが民のため、常しえの繁栄のため、悠久の大義のため。その御身を」

「……よいと言っている!!」

 堪らず煉獄へと顔を上げれば、髪に隠れていた瞳が露わになり僅かに涙を湛えて煉獄を睨むのだった。束の間絡む2人の視線。やがて、姫は僅かに肩を震わせ、力なく目を伏せた。

「わかっております……杏寿郎、お前に言われずとも。」

「……左様でありましたか!!
…差し出がましくも、姫様の御多幸を切に願うこの煉獄の言葉を、ゆめゆめお忘れなきよう。」

「あぁ…もう、下がってよい。」

 もう己を映そうともしない姫の瞳に、湧き立つ後悔と罪悪感が胸を掠める。いや、これが正しい姫と家臣の距離なのだ。俺はただ、姫様が一国の姫として、国と国を繋ぐ役目を果たすと信じていればいい。俺たちの姫は強いのだから。

「…失礼仕る!!」

 深く頭を下げ、背を向けた煉獄には、姫の頬を流れた小さな雫など知る由も無いのだった。


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