07
校舎内を走り回る。地面に伏せて、鼻をひくつかせる。走る。また匂いを嗅ぐ。
放課後になって間もないこの時間は、まだ人がたくさんいる。誰かが接近する気配を感じる度に、立ち上がって何食わぬ顔をし、やり過ごす必要があった。
しかしやがて、その繰り返しが面倒になった。わずかな時間も無駄にしたくなかったのだ。取り繕うことを諦め、匂いをかぐことに集中し、周りを気にせず廊下を這いつくばって進む。通りすがりの誰かが仰天して足を止めたり、ぶつかりそうになって、迷惑そうに避けていったりした。その後、何度も振り返りながら進む人もいれば、鼻で笑って後ろ指をさす人もいた。「あれってみょうじさん?」というひそひそ声が聞こえた時はどきりとしたけど、気にせず懸命に匂いを追った。探し物が見つからない焦りに、心臓はどんどん速度を増していく。
「……みょうじさん!何してるの?」
バタバタと足音が近づいてくる。階段で四つん這いになっていた私は反射的に体を起こしていた。振り返ると、狛枝先輩が目を丸くしながら階段を駆け上がってくるところだった。私は急いで立ち上がると、きょうつけして彼に向き直る。
「こ、狛枝先輩……えっと……こんにちは!」
「下着、見えそうだったよ。女の子なんだから気を付けないと」
狛枝先輩は呆れているというよりは、焦っているような表情だった。途端に先ほどまでの自分を思い返し、その羞恥心に熱がこもる。
「お恥ずかしいところを、お見せしました……」
「何か探してたの?」
全てを見通すような瞳に覗き込まれ、思わず唾を飲み込んでしまう。彼にだけは探し物の内容を知られるわけにはいかなかったけど、ずっと一人で不安を感じていたせいで、気が緩むのを感じた。じわりと涙がにじみ、狛枝先輩が目を見開いた。私は素早く顔を伏せて、「大丈夫です」と誤魔化した。
「ボクには言えないこと?」
「そういうわけじゃ……」
言いよどんだ途端、カーディガンの袖に引っ込めていた手を、引っ張り出すようにして握りこまれる。
「……ボクなんかじゃ頼りないかもしれないけど、キミの力になりたいんだ」
握られたのは手のはずなのに、心臓をつぶされた心持ちがした。張り詰めていた気持ちが解けて、涙があふれだす。ぼたぼたと堰を切ったようにこぼれるので、狛枝先輩はさっき以上に驚いているようだった。私は情けなくも泣きじゃくりながら、謝った。
「こ、狛枝先輩……ごめんなさいっ!狛枝先輩にもらったキーホルダー、なくしちゃったんですっ!私、最低ですよね。こんな、狛枝先輩が、せっかくくれたのに……!」
動揺をあらわにした彼に、ますますショックを受けた。狛枝先輩は運の振り幅が大きい人で、良いことも悪いことも含めてハプニングがつきない。そのせいか、ちょっとした事件が起きても笑ってやり過ごしたり、たいして気にした様子も見せない。そんな彼が目に見えてうろたえるぐらい、私は最低なことをしてしまったのだ。申し訳なさからますます泣きじゃくると、彼はハッとしたように頭を撫でてきた。
「なんだ……そんなこと?気にしないでいいよ。なんなら、代わりのものあげるし……」
優しい言葉が身に染みたけれど、私は懸命に首を横へ振った。
そうじゃないのだ。あの、アメーバのキーホルダーじゃないといけないのだ。だけどそれをうまく説明する術はなく、ごめんなさいを繰り返すことしかできないもどかしさにまた泣けてきた。こんなの迷惑だと分かるのに、涙はいつまでも引っ込まなかった。
狛枝先輩はしばらく私をなだめようと頭を撫ぜつけていたけど、ふと何か思い立ったような顔つきになる。
「みょうじさん。今までどこを探してた?」
顔をあげると、ちょうど階段をのぼってきた人が、いぶかしげにこちらを見ているところだった。恥ずかしくて泣き顔を隠すためにうつむくと、狛枝先輩が一段上がって距離を詰める。私のことを周りから隠すために位置を変えてくれたようだった。
「こ、校内はもう、二周しました……」
「二周?」
繰り返された声に驚きがにじんでいる。私はうなずき、補足した。
「四時間目に気づいて、昼休みに一周して、放課後……さっきやっと二周おわったところです」
一時間目には確かにあったはずだ。数学の時間、苦手な問題をみんなの前で解くはめになり、緊張からブレザーのポケットの中で握り締めたのだ。しかし四時間目、体育から戻ってきたら、キーホルダーは消えていた。それからずっと校内を探し続けているけれど、そもそも自分の香りが常に周辺に漂っていて探しにくく、全く見当たらないのだ。
狛枝先輩は私の話を聞いて、考え込むように目を伏せた。あごに手を添え、数秒の沈黙を作った後、ふと何かひらめいたような顔つきになり、私の手首をつかんだ。
「みょうじさん。一つ思い浮かんだ場所があるよ」
「え?」
「ついてきて」
振り返った狛枝先輩は、とても穏やかな顔つきをしていた。それを見た途端、嘘のように涙が止まった。私は最後に鼻をすすると、強くうなずいて彼に従った。
連れられて来た場所は室内プールだった。普段は水泳部が活動しているのだけれど、今日は休日なのか遠征なのか、閑散としていた。
「先輩……私、ここも探しました」
季節は秋と冬の半ば。プールの授業はないけれど、念のため確認していた。
「プールの中は?」
予想外の問いかけに口ごもる。思わず視線を向けた先には、穏やかな水面があった。
素直に首を横へふると、「やっぱりね」と彼が私の手を放す。解放感と同時に涼しさを感じ、ほんの少しのわびしさを覚えた。
「みょうじさんほどの能力を持つ人が探しても見つからないんだ。匂いを嗅いでもわからない場所にあるとしか思えないよ」
狛枝先輩はそういうと、プールサイドの端に進んだ。角にある用具入れのロッカーを開くと、中から虫取り網のようなものを出す。以前、体育の先生が水面のゴミを拾うのに使っていた気がする。彼はプール際に立つと、用具を潔く水中へ突っ込んだ。
そこでようやく、かけられた言葉の意味を理解する。どうやら狛枝先輩は、ずいぶん私の嗅覚を信用してくれているらしい。嬉しいような恥ずかしいような気持ちとは別に、申し訳なさを抱く。もらったものをなくした上に、泣いてわがままを言って、こんな風に付き合わせるなんて。私は彼の方へ歩み寄りながら、カーディガンの袖を伸ばした。
「狛枝先輩、大丈夫です……。水泳部の人がいたら、探してもらったりできるけど、あるかもわからないのに、それじゃ時間かかっちゃいますから――」
「あ、ひっかかったよ」
「え!?」
にわかには信じられなかったけれど、狛枝先輩が持ち上げた網には、確かにキーホルダーが入っていた。彼は柄の部分をどんどん手繰り寄せると、網をひっくり返して中のキーホルダーを取り出す。おろおろ待ち構える私に反して、狛枝先輩はずいぶん落ち着いていた。おもむろに網を足元へ置き、ポケットからハンカチを出す。丁寧に水気をふき取る間中、まったく目が離せなかった。ようやくキーホルダーを差し出されたころには、すっかり待ちくたびれて、お預けを食らっていた犬のように飛びついた。
「狛枝先輩……すごい!すごすぎです!ありがとうございます!本当に……よかったぁ〜!」
「あはは。よかったね」
「本当に……ありがとうございます!」
ぎゅうとキーホルダーを握り締め、胸元に抱いた。もう二度となくさないようにしないといけない。私は目じりに浮いた涙を瞬きで引っ込める。
「……みょうじさん。もしかしたらなんだけど、誰かに嫌がらせを受けてない?」
狛枝先輩の真剣なトーンに、思わず顔を上げた。あ、と口を開きかけて、すぐに閉じる。最近、何かと物がなくなったり、陰口を言われることが増えていた。しかしそれを伝えることははばかられ、何と答えるべきかためらっていると、彼は察したように眉尻を下げた。
「ボクのせいだね……」
「え、なんで、ですか!違いますよ!」
焦って否定するけど、彼は斜め下を見つめ、切なげに息を吐き出した。
「きっと、お揃いのキーホルダーを付けてたから、彼女の癇に障ったんだと思うよ……。ボクが君の真似をして同じものを買ったせいだ」
「ま、真似なんて。狛枝先輩がくれたものなのに……」反論しかけて、ふと言葉に違和感を覚える。「……先輩、『彼女』って?」
彼は眉尻を下げたまま、微笑んだだけだった。今の発言について、詳しく話すつもりがないのだと理解すると同時に、なんとなくそれが誰かを察してしまう。私はキーホルダーを握る手に力を込めながら、浮かんだ考えを必死に打ち消した。
「あの。私は……別に、平気です。普段は、別に変なことはないし……。確かに、授業中ペアを組んでとか言われるとちょっと困るんですけど、暴力とかはないし……」しどろもどろに話しながら、言い訳のようだと感じていた。どこか自分が上の空でいるのは、まだ動揺が打ち消せていないからだと実感する。「それより、狛枝先輩は……、その、何か、嫌なこととかないですか?」
「ボクは平気だよ。慣れてるからね。……それにしても、こんなことがあって本当に不幸だったね。ボクのせいでごめんね」
彼の「不幸」という言葉に、彼女の声が重なった気がした。「一緒にいると不幸になる」なんて、そんなことあるはずがないのに。私は狛枝先輩の目をまっすぐに見ると、できるだけいつも通りに笑うことを意識した。
「違いますよ、先輩。むしろ、ありがとうございます!先輩がいなければキーホルダーは見つけられなかったですし、こうしてなくして、きちんと見つけられたことで、ますますこのアメーバに愛着がわきましたから」
だからもう二度とそんなこと言わないでください。そこまでは続けられずに飲み込んだ。きちんと笑えている自信がなかったけれど、彼が嬉しそうな表情を見せてくれたので、きっとうまくいったのだと安心した。ほっと脱力するように肩の力を抜くと、キーホルダーの上から両手を握られる。突然のスキンシップに固まる私などおかまいなしに、狛枝先輩は瞳を輝かせながら距離を縮めた。
「みょうじさんは本当に希望に満ちあふれているね……」
「えっ!?き、きぼう?そうですか?」
「うん。素晴らしいよ」
ここまで手放しに褒められるなんて滅多にない。私はあいまいに笑いながらうつむいた。狛枝先輩がもう一度「本当に、素晴らしいよ」と繰り返すのを聞きながら、こそばゆさと、恥ずかしさと、わずかな不安が入り混じったような妙な気持ちで、彼の手をそっと握り返した。
途端にぎゅうと間の抜けた音が響いて、私はぎょっとした。素早く彼の手を振りほどき、自分のお腹を押さえる。押さえてから、今の行動は自分のお腹が鳴ったと示すようなものだと気づいて、羞恥心に汗がにじんだ。狛枝先輩はくすくす笑うと、「お腹減ってるの?」と首を傾げた。
「は、はい……。お昼休み、ご飯食べないで探してたから……」
「そしたら、寄り道しようか。前にクレープ屋さんを見つけて、みょうじさんと行きたいって思ったんだ」
「クレープ!食べたいです!」
反射で食いついた私に、狛枝先輩はますます笑った。恥ずかしさを誤魔化すようにはにかむと、彼は目を細めて柔らかな微笑を返してくれた。
「わ、私はカスタードのやつ食べます!狛枝先輩は?」
「ボクはツナのやつかな」
「おかずっぽいのが好きなんですね〜」
いつも通りのやりとりに安堵し、胸をなでおろす。良かった、大丈夫だ。そう心の中で呟いて、二人並んで歩き出す。存在を確かめるようにキーホルダーを握りしめ、指先で凹凸部分を確かめらようなぞった。
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