02
「狛枝先輩!勉強教えてください〜!」
理科室の床に座りお弁当を広げていた彼を覗き込むため、私は長机に肘をついて、上半身をのりあげた。顔をあげた彼は目を丸くし、やがてクスクス笑った。
「すごいね、みょうじさんは。ボクがどこにいたって見つけられるんだ」
「えーっと、勘です、勘!」
カーディガンの袖の部分をぎゅっと伸ばして、私は笑った。机からおりて、ぐるりとその周りを回った。彼の横にひざをついて、隣り合うように腰をおろす。持っていたお弁当箱を置くと、地面をすべらせ横にずらし、教科書とノートを出した。
「さっきの授業なんですけど、この部分が分からなくて……」
「数学か。どれ?」
言いながら身を乗り出すので、お弁当の香りに混じって、彼の匂いが運ばれてきた。思わず深く呼吸して、胸一杯にとりこんでしまう。
狛枝先輩の匂いが、大好きだ。できるだけ傍にいたいと思うぐらいに。
食堂でぶつかって以来、私たちはすれ違うたび声をかけあう仲になった。廊下、学食、帰り道。だんだんと話す機会が増え、すっかり顔見知りになった。
ある日、図書室で宿題に苦戦している私を、狛枝先輩が助けてくれた。彼の教え方は“上手い”というよりは、“手際が良い”印象で、その時は宿題がいつもよりずっと早く終わった。感動して、ひたすら感謝の言葉を伝えたら、彼は「大げさだよ」と笑った。そして、「分からないことがあったらまた聞いてよ」と優しい言葉をかけてくれた。それ以来、真に受けた私は、質問があるたびに彼の元を訪れるようになった。
「――つまり、こういうこと。どう、分かった?」
「はい!とても」
「じゃあ自分で一回解いてみて」
その場でノートを広げ、正座したまま体を丸めた。必死にガリガリやっている私を、狛枝先輩が眺めている。彼がおかずを口に運ぶ動作を視界の外に意識すると、いつもより勉強がはかどった。
「やったー!できました!」
「良かったね。じゃあお弁当でも食べようか」
「はい!あ、でもその前に、忘れないようにメモしておきます……」
また丸まってノートの隅っこに書きだすと、狛枝先輩が息を漏らすように笑った。それが気になって顔だけ向けると、彼はお弁当箱の縁に箸を置く。
「みょうじさんみたいな一生懸命な子を見てると、なんだか元気になるね」
「えっ!本当ですか?ありがとうございます……!」
それなら私はいつでも一生懸命でいようと、心の中で固く決意した。
「うん。これ、頑張ってるご褒美」
彼がポケットから出したのは、ビスケットだった。両手で受け取って、今一番お気に入りのお菓子だと気づく。
「狛枝先輩、ありがとうございます!すごく嬉しいです!あ、何かお礼……」
慌ててブレザーのポケットをさぐるけれど、なにも見つからない。消しゴムや友達と回していた手紙しか出てこなくて、申し訳なくなった。
「お礼なんていいよ」
「でも」
「そしたら、聞きたいことがあるから、それに答えて欲しいな」
狛枝先輩は視線で、私にお弁当を広げるよう促した。私はお弁当箱を開きながら、「良いですよ!何ですか?」と尋ねる。
「ボクのことどうやって探し出してるのかなって気になっちゃって」
にっこり笑った先輩の笑顔がいつもと違う気がして、心臓が跳ねた。「だから、勘ですよ」と視線を落とし、カーディガンの袖を伸ばした。伸ばしてから、そろそろ長袖には暑い季節だなと考える。お弁当箱の位置を整えるふりをすることで、うまくごまかしたと思ったのに、彼は食い下がった。
「気づいてる?みょうじさん、嘘つくときいつも目を伏せるんだ」
「えっ……うそ!」
咄嗟に狛枝先輩を見ると、「うん、嘘だよ」と笑った。びっくりして、目をぱちぱちしていると、「今の反応は、やっぱり嘘だったってことかな?」とほほ笑んだ。私はそれで、カマをかけられたのだと理解した。
「本当のこと教えてくれる?」
覗き込まれた際に漂う香りに、心音が増していく。深く呼吸をしても、まったく気分は落ち着かない。ますます彼の匂いを意識して、思考速度がゆるやかに落ちていくだけだ。
答えるのは、ためらわれる。今まで繰り返してきた経験が、私にそうさせた。
「鼻がいい」ことは、私にとって、恥ずかしい事だった。誰かの助けになることなんてほとんどないし、得をした経験は少ない。電車やエレベーターなどの密室が苦手だったり、匂いのきつい場所や物のせいで気分を悪くなったりと、良くないことの方が多い。
良い匂いを前にすると夢中になりすぎてしまうのも、難点だった。それが原因で周りに距離を置かれた経験もある。今ではこの嗅覚のことを、限られた友人にしか打ち明けていない。
狛枝先輩に話すべきか、私は思い悩んだ。それはつまり、今後の彼との交流が続くか続かないかに関わってくるのだ。
「みょうじさん」優しい声音が促すように呼ぶ。「ごめんね、無理強いしたいわけじゃないんだ。言いたくないならいいから」
はっとして顔をあげると、彼はすでに視線を外していた。「唐揚げ好きだったよね、食べる?」なんて問いかける横顔を見て、初めて彼に出会った時、自分が取った行動を思い出す。夢中で彼の背中にすがりついて、思い切り匂いを吸い込んだ気味の悪い女に、彼は優しく微笑んでくれたではないか。今だってこうやって無理強いするわけではなく、私に選ばせてくれている。
「えっと……!私、実はすごく鼻がよくて……!」
覚悟を決めて声を張る。こちらを向いた見透かすような瞳に耐え切れず、逃げるようにうつむいた。
「狛枝先輩の匂いを……たどってきてました……」
口にしてから気づいたのだけれど、自分は相当気持ち悪いことを言ったのではないか。発言を悔やむ気持ちと、打ち明けられた解放感。様々な思いがないまぜになって、正座した膝の上で握る手に力が入った。なかなかリアクションをとらない彼に不安を抱きながら、息をひそめて待っていた。
「みょうじさん、顔上げて」
トーンは、普段通りの柔らかいものだったけれど、静かなそれは怒っているようにも取れた。慎重に顔をあげると、握った両手のこぶしが突き出されていた。
「ボクね、今、片方の手にプチトマト握ってるんだ。どっちか分かる?」
「え……?」
「当ててみて」
見た目には手の形は変わらなかった。私はおそるおそる鼻を近づけ、彼の左手を指でさす。
「こっち……です」
「正解。じゃあもっかい」
彼は両手を後ろへ回し、また先程と同じようにした。しばらくそれを繰り返すと、最初は楽しそうにしていた先輩も、だんだん驚きに目を丸くした。
「すごい!百発百中だよ!みょうじさん、すごい特技を持ってたんだね!」
「でも……変ですよね。こんなの。気持ち悪いし」
「なんで?気持ち悪くなんかないよ!」
彼が身を乗り出して、私の両肩を掴んだ。反動で、プチトマトが転がり落ちる。
普段の穏やかな先輩からは想像できない勢いだった。びっくりして、瞬いていると、我にかえったように、「ごめんね!」と両手を離した。
「どうして、気持ち悪いなんて思うの?」
「……だって、こんなに鼻が良いのっておかしいし。……私、好きな匂いに会うと、つい夢中になっちゃうんです。それで友達にドン引きされたり、どこか一線をひかれたり……。こんな嗅覚なかったらよかったって、思うこともあって」
「なんで?人より優れてるってことだよ。それって、すごいことじゃないか!」
ますます勢いづいた彼が、手放しに褒めるので、本当に驚いた。同時に、胸の奥から喜びが込み上げる。ずっと恥ずかしいことだと思っていた自分の嗅覚を、こんな風に認めてくれる人がいるなんて、思わなかった。
「……先輩、ありがとうございます」
「お礼を言われるようなことじゃないよ。君らしい才能だから、誇りを持ちなよ」
幸せな感情があふれ出す。胸が、急にぎゅっとせまくなったように、息苦しくなった。狛枝先輩を見ていると、甘いような切いような気持ちになる。私は赤くなっているだろう顔を隠すため、カーディガンの袖で頬を覆い、小さく笑った。
「……そうですよね。この嗅覚がなきゃ、狛枝先輩にも会えませんでした」
そっと降ろした手を、自分の膝の上で丁寧に重ねる。背筋をしゃんとして、救いの言葉に報いるように、彼をまっすぐ見る。
「私、この嗅覚があって良かったって、思いました」
狛枝先輩は穏やかに笑うと、自分のポケットから携帯を出した。それを私にかざすように見せると、口の端を緩やかに上げた。
「ねぇ、ボクにも嗅覚があればいいんだけど、残念ながら無いからさ。みょうじさんを探したいとき探せるように、連絡先を教えてくれない?」
断る理由なんてない。私は同じく携帯を出して、はにかむように笑った。
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