わたし西向きゃ、きみ東 | ナノ
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08



「狛枝先輩。冬休み中も会ってもらっていいですか?」

終業日の帰り道。何気なさを装いながら問いかけると、彼はあっさり「もちろんだよ!」と答えてくれた。それに安堵の息をつきながらも、何故か物足りなさを感じてしまう。その理由がわからず、自分自身の気持ちを不思議に思っていると、狛枝先輩が「長期休暇までみょうじさんと会えるなんてボクは幸運だなあ」と言った。胸のあたりがぎゅっと締め付けられて、照れくさくなる。

二人で冬休みの計画を立てながら歩いていると、ふと鼻が異様な匂いを拾った。足を止め、風の吹いた方角を見据えると、「どうしたの?」と狛枝先輩に声をかけられた。

「あ、なんでもないです!」

また匂いに意識を持っていかれた。慌てて振り返ると、同じ方向を覗き込もうと身を乗り出していた狛枝先輩の胸に飛び込んでしまった。彼の香りで呆けそうになって、我にかえる。「すみません!」と後ずさりするけれど、先輩は気にした様子もなく、先ほど私が見つめていた路地裏に視線をやっていた。

「何か気になるものがあった?」

あまり嗅覚の話はしたくなかった。しかし誤魔化すこともできなくて、「何か、焦げ臭い匂いがしたような気がして……」と白状する。狛枝先輩は路地裏の先を覗き込もうと数歩進んだ。私はなんだか落ち着かなくて、「多分、気のせいですよ。帰りましょう」と彼の制服の裾を引っ張る。

「……最近この辺り、放火が多いよね」

狛枝先輩が首だけ振り返る。物騒な言葉にギョッとして手を離すと、彼は完全にこちらへ向き直った。

「もしかしたら、奥で何か燃えているのかも。見に行かない?」

「え、でも。気のせいかも……」

念のため鼻をひくつかせるけど、もう焦げの匂いはなかった。風向きが変わった一瞬のことだったのかもしれない。不確かなことに付き合わせるのは申し訳なかったのだけれど、彼はすっかり乗り気のようで、「みょうじさんの嗅覚だから間違いないよ!」と自信たっぷりに言い切った。

ここまで信頼してもらえると、かえって断りにくい。それに、私も勘違いでないとしたら、匂いの真相が気になる。結局二人で路地裏に入ることになった。

人気のなさや、薄暗さが不気味で、なんだか腰が引けた。そんな私を見かねたのか、狛枝先輩が手を握ってくれた。それでまた、余計な緊張をするはめになる。

奥へ行くほど通路は細まって、手を繋いで歩くにはとても狭かった。ところどころ飲食店用のゴミ箱が置いてあるせいで、ますます歩きづらい。壁にぶつからないよう気をつけると、妙な力が入って肩が凝りそうだった。

入り組んだ路地を進むにつれて、だんだんと焦げの匂いが強くなってきた。次第に焦り始めた私は、引かれているだけだった手を強く握り返す。

「狛枝先輩、急ぎましょう……」

早足から、駆け足に。何度も壁に体をぶつけてしまう。いつしか狛枝先輩の手を離していて、曲がり角で追い抜いた。先導するように私が走るころには、狛枝先輩も焦げの匂いを感じ取っていて、携帯で消防に連絡しているようだった。

最後の角を曲がると、もうもうと立ち込める煙が広がっていた。無造作に積み上げられた新聞の束の隙間、揺らめく光が見える。とっさに周辺を見渡すけれど、水気はない。

すがるような気持ちで狛枝先輩を振り返ると、彼はカバンをその場に放って上着を脱いだ。それを広げてバサバサと新聞紙を叩く内に、だんだんと火が弱まってくる。

「――間一髪だったね」

狛枝先輩が、トドメとばかりに火を踏んで消した時、ずっと呆けて成り行きを見守っていただけの自分に気づいた。

「すみません、ありがとうございます」

役に立てなかったことが恥ずかしく、消え入りそうな声で呟いた。狛枝先輩は振り返ると、こんなことがあったばかりなのに、いつもと何ら変わらない笑みを浮かべた。

「何で謝るの?みょうじさんがいなければ、もっと大ごとになってたよ」

「でも」

狛枝先輩は上着を脇に挟み、カバンを拾った。

「それより、ちょっとここ離れようか。人が来たら色々聞かれて面倒だし、放火犯は犯行現場に戻ってくるって言うからね」

その言葉に悪寒が走る。身震いしかけた時、再び手を掴まれた。引っぱって走り出す彼に連れられ、私はそこを脱出した。










狛枝先輩と路地裏を出ると、すっかり黄昏時となっていた。日没が早い。冬になったことを強く意識し、時の流れも実感する。

私たちはそのまま別れ、互いに帰路につくことになった。二人の意見が合致して、先ほど見たことを言いふらすのはやめようと決めた。

一人帰り道を歩きながら、別れ際にした会話を思い出す。





『みょうじさんは、自分の嗅覚がなければ良かったって、今でも思ってる?』

大通りに出てすぐ、問いかけられた。見上げた横顔から思惑を読み取ろうとするけれど、すぐにそんなこと不可能だと思い至って、視線を伏せた。

『それは、ないです。狛枝先輩に会えて良かった、から』

先輩が目を細めた気がした。すっかり疎遠になった友人のことが蘇る。彼女と親しくなったのも、元を正せばこの嗅覚が原因だ。悪いことばかりではないというのは分かっている。

『けど、例えばさっきみたいに、結局私ができるのってそこまでで、それ以上のことは普通……いえ、平凡以下なんですよ。消防車呼ぶとか、火を消すとか、そういう当たり前のことは思いつきもしませんでした。狛枝先輩は、すごく冷静で、あんなふうに動けるのに……』

私には嗅覚しかない。だけど、それも大したものじゃないと分かっているから、自信にならない。狛枝先輩のように頭の回転も速くないし、話もうまくない。体力はあるかもしれないけれど、それも何かスポーツができるわけじゃない。

『ボクはみょうじさんの方が、ずっとすごいと思うけどなあ』

不意に彼が立ち止まるので、ぶつかりかけた。振り返った狛枝先輩は、優しく微笑みかけていた。

『みょうじさんの嗅覚はまぎれもない才能で、誰も真似できない。キミだけができること、この世にいくらでもあると思うよ』





ばんっと自分の両ほほを抑える。冷えた指先が火照った顔の熱をうばっていく。次々と思い出される与えられた言葉をかみしめながら、慎重に肺を冷やした。先輩の声が、何度も頭にこだまする。

彼にはとても感謝している。もらった数々の言葉がなければ、私はきっと、自分の嗅覚に向き合うことすらできなかっただろう。

言葉だけじゃない。二人でいる時、匂いに夢中になってしまった私を、彼は笑顔で待ってくれていた。恥ずかしそうにたしなめることも、他人のふりをして離れることもなかった。ただ隣で、普通にいてくれた。

狛枝先輩を尊敬している。もっと仲良くしたい。ずっと側にいたい。わきあがる感情に名をつけることは戸惑われたけれど、欲求を抑えることはできそうにない。すっかりぬるくなった指先を離し、一人でに高まる鼓動を落ち着けるために息をついた。

その瞬間だった。ふと背後からの追い風に混じって焦げた匂いがした。破裂するように蘇った光景は、炎の朱色とそれを濁らせる煙だった。

反射で振り返った私を襲ったのは混乱だった。びしゃりと顔に何かが当たって、とっさに手で覆う。指先が濡れ、液体をかけられたのだと理解する。

拭いながら薄眼を開けて、深くキャップをかぶった男性の姿を認める。ラベルのないペットボトルを持っている。あれをかけられたのかと理解すると同時に、その反対の手にライターが握られているのを見つける。

『放火犯は犯行現場に戻ってくるって言うからね』

狛枝先輩のセリフがよぎって、心臓が跳ね上がる。私が数歩下がると、男も前のめりになる。身を翻して走り出すと、足音もついてきた。

ドキドキとうるさい心音は、走っているからだけではない。かけられた液体をぬぐいながら懸命に足を動かすけれど、背後の気配は離れない。

何をかけられた?匂いはないけれど、水じゃない?ガソリン?油?

混乱を極めた脳内が、警鐘を鳴らす。逃げる前に見たライターが、網膜に焼き付いている。

ただただ恐ろしくて、必死で逃げた。走っているうちに距離が開いて、少し冷静になることができた。携帯を取り出し、最近の履歴から狛枝先輩の番号にかける。母親は仕事中だし、別れたばかりの彼が、一番近くにいるはずだった。

通話音を聞きながら走る内に、自宅が近づいてきた。逃げ込むことも考えたけれど、家を知られたくなくて、手前の道を折れて曲がった。できるだけ入り組んだ路地を選び、不審者をまこうとする。狛枝先輩が電話に出たのは、実質一分にも満たないコール音の後だったのに、ずいぶん長く待たされたように感じた。

『みょうじさん?』

「狛枝先輩!!」

電話がつながった安心感に声を張る。背後にまだ人の気配を感じ、次は声のボリュームを落とした。

「た、すけて、ください……!変な人に、追われて、て」

『今どこ?』

「か、帰り道です!駅の通りの、脇にそれたとこ……あっ!」

段差につまずき転びそうになったところをなんとか踏ん張る。電話の向こうで心配げに名前を呼ぶ声に応える余裕がなかった。冷や汗が浮いたけれど、足は止めず、すぐさま角を曲がった。

「石階段の、手前の、とこです……!」

声がうまく出せなくて、自分が息切れし始めていることを知った。背後の気配はだいぶ離れたけれど、まだ油断はできない。

もう一度自分にかけられた液体の匂いについて考えて、やはりただの水だろうと結論を出す。火をつけられても、一気に燃え上がることはないはずだ。でも、だとしたらなんでこんなものをかけたのか。私の知らない、可燃性の液体があるのだろうか?

体が炎に包まれる姿を想像した途端、膝の力が抜けた。小さな子供のように胸から転んで、カバンも携帯も地面を滑るように飛んでいった。拾わなきゃ、と思ったのに、突然体の動かし方を忘れたようだった。倒れたまま呆けていると、背後に人が立つのを感じた。

狛枝先輩が来てくれたのかも、と期待して顔を上げた私は、その前に香った匂いに絶望する。ライターをカチカチと鳴らす音もした。

「邪魔すんなよ……」

低く、恨めしげな声に、放火犯だと直感した。街灯の光が男の背後にある上に、キャップのつばに隠れてしまっているせいで顔が見えない。

私は素早く上体だけ起こすと、カバンを拾って思い切り投げつけた。しかしそれは簡単にかわされ、相手を怒らせることにしかならなかった。

男が地面に叩きつけるように踏み出して、体が縮こまる。聞き取れないレベルでわめき散らされて、恐怖に突き動かされるように立ち上がった。けれど、震えと痛みでうまく走れず、すぐに距離を詰められた。男の手が肩を掠め、背筋を冷たいものが上り詰める。

殺される、と思ったのと、大きく地面を蹴る音を聞いたのは同時だった。次の瞬間には背中に衝撃がきて、体が宙に浮いた。突き飛ばされたか蹴られたか、脳の理解が追いつく前に、転ぶはずだった。しかし、そこには地面がなかった。長い石階段が目の前に迫っていた。

悲鳴は大地に投げ出されるまで聞こえていた。衝撃に身を躍らせ、全身の痛みに意識が引っ張り戻された。バウンドした体が仰向けになって、階段の上にこちらを見下ろす影を見た。

二度、三度と瞬いたら、夜空の闇が濃さを増している気がした。その次に目を開けた時は、白く柔らかなものが揺れていた。

「――みょうじさん!」

先ほど電話越しに聞いた声だと気づき、遅れて彼の香りを認識する。匂いの情報が後からくるなんて珍しいな、なんて余計な考えが頭の片隅に浮かぶ。

「……意識はあるみたいだね。一番上から落ちたの?」

答えるはずが、妙に億劫で口が開かない。それでも、狛枝先輩が来てくれたことが嬉しくて涙があふれた。彼は私の頭を念入りに確認すると、慎重に丁寧に上体を抱え起こした。そこから脱力しきった私をなんとか背負い込んで、ゆっくりと振動を与えないように歩き出す。

「病院、すぐそこにあるから。救急車を呼ぶより早いと思うから、少しの間だけ我慢して」

彼が一歩進むたびに、大好きな香りが漂う。されるがままだった腕を、自分の意思で彼の首にまわす。ぼたぼたあふれる涙が、彼の肩口を濡らしていく。全身の痛みを脳が思い出して、じわじわと追い詰められていく。

「せ、んぱい、先輩……怖かった、死んじゃうかと、思いました。ほんとに、私、殺されるって、……思って」

「うん」

「痛いし、怖かった、痛い、痛いです。死んじゃうかと、思……っ」

「…………うん」

嗚咽まじりに泣きじゃくる私を安心させるように、彼が小さく私を揺すった。それがますます息苦しくて、私は必死でしがみつく。

痛みで朦朧とする意識の中、狛枝先輩が側にいてくれる安心と幸福だけが、くっきりとした輪郭を持って存在していた。




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