しばらくして、苗木くんは霧切さんに命じられるままに、娯楽室を出て行った。捜査ができない彼女の代わりに、聞き込みをしに行くようだった。十神くんに見張り役を命じられて、すんなり受け入れたのは、苗木くんのことを頼りにしていたからなんだなと、納得した。
彼を見送りながら、自分の捜査を続けようとビリヤード台の匂いをふんふん嗅いでいたら、襟首を掴まれて、無理矢理引っ張られた。急に締めつけられた首に、咳が出た。尻餅をついた私は、そのままの状態で見上げる。こちらを冷たい目で見下ろした十神くんと逆さまに視線がぶつかった。
「おい……いつまで人の足に座ってるつもりだ?」
言われて、彼の足に乗り上げていることに気づいた。はっとして腰を浮かそうとするけれど、襟首は解放されないので、行動が制限されていた。「十神くん、どくから離して」お願いすると、それを無視してひっぱりあげられる。立ち上がれたけれど、ますます咳が出た。彼の乱暴な行動に、翻弄されるばかりだった。
咽る私を気にした様子もなく、十神くんは私を引きずった。大神さんの前まで来ると、突き飛ばされた。以前も、山田くんや石丸くんの前に、こうやって突き出されたことを思い出した。あの時と違うのは、かばってくれるセレスさんも、苗木くんもいないということだった。
「死体の匂いを嗅げ」
大神さんを背に、十神くんと向かい合う。霧切さんが騒ぎに気づいたらしく、捜査の手を止めて、こちらに歩み寄ってくるのが見えた。朝日奈さんは、何も言わずにいた。静かに、こちらを見つめていた。それが、私と十神くんを、非難しているように思えた。十神くんの、『誰が薄汚い死体なんかに触るか』という台詞に、瞳を怒りの色に染めた彼女を思い出した。
苗木くんにぶつけた不安が戻ってくる。多分、さっきの私は、信じたとか信じないとか、そういう話をしたいんじゃなかった。こんな状況が嫌で、本当は今すぐにでも逃げ出したい。でもそれはみんな一緒で、逃げることもできなくて、問題はきっと、どう行動していくのかということ。
霧切さんみたいに冷静に客観的に物事をとらえたり、朝日奈さんみたいに友達を大切にしたり、苗木くんみたいに、諦めないで、希望を持ち続けたり。逃げ続けていたって、何も変えられないと分かっているから、私たちは今の状況を受け入れ、必死にもがいている。アルターエゴだってそうだ。機械なのに、私たちのために、一生懸命になってくれている。
私は十神くんを正面から見据えた。今まで、「匂いを嗅げ」と言われるたびに、おどおどしていた私を知っているから、彼はわずかに目を見開いた。私はなんだかそれが気持ちよくて、多分、この感情は間違ってるんだなとも思った。
十神くんに背を向けると、私は大神さんに歩み寄った。目の前まで来て、まじまじと彼女を観察するのは、これが初めてだった。
私も役に立ちたい。苗木くんみたいになりたい。霧切さんみたいに、なりたい。受け身な自分は、もう嫌だ。
償いのつもりで手を合わせた。大神さんに頭を下げた後、そっと手を伸ばす。彼女の髪に触れた。ギュッと目を閉じて、後頭部の殴打痕に鼻を寄せた。変わった香りはない。そこからだんだん下降していく。口、手、制服、脚、一つ一つ確認している間、ずっと鳥肌がたっていた。彼女に触れる度、私の体温が指先から吸い取られていくような心持ちがした。
大神さんの体を調べている間、娯楽室では物音ひとつしなかった。十神くんでさえ、何も言わずにただ待っていた。
「誰かの匂いがするとかじゃないけど」
前置きをして、振り返る。十神くんは真剣な眼差しを私に向けていた。
「口の中から、薬品の匂いがする」
十神くんは私ごしに、大神さんを確認した。口元を汚す吐血の跡を見つめているようだった。
「その薬品の詳細は分かるか」
「ううん、詳しいことは……。でも有害なものだと思う」
「……そうか。十分だ」
十神くんはそれだけ言うと、身を翻して娯楽室を出て行った。張りつめていた空気が少しだけ緩和されたような気がした。霧切さんが歩み寄ってくる。
「あなた、大丈夫なの?」
「……うん、大丈夫」
そっけなくなったけど、彼女の心遣いがありがたかった。ただ、今は誰かと話していると泣きそうだったので、逃げるように雑誌棚の方へ移動した。
捜査を続けているよう装っていたけれど、心臓はうるさいぐらい脈打っていたし、脚は震えるしで、全く集中できなかった。私は雑誌棚の血だまりを観察するふりをしながら、大神さんに触れた指先を、胸の前で強く抱きしめた。
苗木くんが聞き込みを終えて戻ってきた。聞き込みついでに化学室も調べて来たらしく、霧切さんとその情報を共有していた。
代わりに、霧切さんも、新たに見つけた娯楽室内の手掛かりを彼に伝えた。
大神さんの上履きに付着した黄色い粉末のこと、打撃痕が二つあったこと、彼女の指先が綺麗で血の跡がついていなかったことを話した。
「指先が綺麗で血がついてないって……何か関係あるの?」
苗木くんが疑問の声をあげる。霧切さんが私に目くばせをしたので、雑誌棚に行き、一冊の雑誌を取ってくる。
「これ、……中見て」
苗木くんは受け取って、パラパラとめくり始めた。しかし、ある特定のページを開いた瞬間、表情を強張らせる。
「こ、これって……!?」
彼が開いたページには、大きな血文字があって、それは「フカワ」と読めた。
「ひょっとして、ダイイングメッセージ!?」
「みょうじさんと同じリアクションね」
霧切さんが呆れたように言う。苗木くんは「えっ」と驚いたようにこちらを見た。
「……違うの?」
「それははっきり言えないけど……言ったでしょう。大神さんの指は、綺麗だったのよ」
「あ……」
そっか、と納得したように呟く苗木くんの表情が曇る。その陰り具合が、思いのほか深刻そうで、推理を外したことではなく、舞園さんの事件を思い出しているのかもしれないと考え、こちらまで気が重くなった。
霧切さんはそんな苗木くんの様子に気づいているのかいないのか、この雑誌が上下逆さまにしまわれていたことを説明していた。
「ねぇ……それって……」朝日奈さんが会話に入ってくる。「フカワって書いてあるよね……?」
「う、うん……そうみたいだけど……」
「じゃあ、犯人はあいつなんだね!?そうなんだね!?」
「いや……まだ決まったわけじゃ……」
「そ、そうだよ朝日奈さん。だって、これ大神さんが書いてないかもしれないのに……」
朝日奈さんを宥めようとしたら、こちらをじっと見つめた。急に矛先が向けられて、ギクッとする。
「じゃあみょうじちゃん、匂い嗅いでみてよ」
「え?」
「みょうじちゃんが嗅いで、さくらちゃんの匂いがすれば間違いないでしょ?」
「う、うん」
覚悟を決めて鼻を寄せようとすると、苗木くんが慌てて止めに入る。
「む、無理に血の匂いを嗅ぐことないよ」
「大丈夫、さっき大神さんの匂いも嗅げたから」
「え?」
その場にいなかった苗木くんには、なんのことか分からなかったらしい。ただ、朝日奈さんを落ち着かせることが先決だと考えて、私はその説明はせず、雑誌に鼻を寄せた。
「血は、間違いなく大神さんのだと思うけど……」
「ほら!やっぱりそうなんだよ!あいつが犯人に決まってんじゃん!!決定的な証拠だよ!」
彼女は涙で瞳を潤ませたまま、強く主張した。頑なな様子が、なんだか自棄になっているように思えて、少し心配になった。
「待って、違うんだよ。葉隠くんとか、腐川さん自身の匂いもするんだって」
「そんなの、その雑誌を読んだことがあるだけでしょ?」
聞く耳持たない状態になってしまった彼女は、また私たち三人から離れて行った。途方にくれていると、霧切さんが仕切り直すように、苗木くんに声をかける。
「それから、もう一つ発見があったわ」
そう言って指差したのは、モノクマボトルだ。苗木くんはそれに従い、ボトルが飾られている棚へ近づく。
「新しい発見……?」
「よく見れば分かるはずよ。そのモノクマボトルに隠された規則性にね……」
苗木くんはしばらく悩んだけれど、思い浮かばなかったのか、霧切さんを振り返った。
「ねぇ、霧切さん。教えてもらうってのは駄目なのかな?」
「手掛かりだけならまだしも、そこから導き出す答えまで共有するのは危険だわ……。学級裁判前に、余計な先入観を植え付けたくないの。それぞれが納得した答えを出すためにね……」
「信用してないから教えない……訳じゃないよね?」
不安気に苗木くんが尋ねるので、驚いた。傍から見ていて、霧切さんはどう考えても彼を信頼している。苗木くんは少し鈍い所があるなぁ、なんてのんきに考えていたら、霧切さんは無言で、肯定も否定もしなかった。苗木くんは焦って「無言なのッ!?」と叫ぶ。霧切さんはそれを見て、くすっと小さく笑いをもらした。
「ある程度は信用しているわよ。でなきゃ、こんな事を言ったりしないわ」
それを聞いて、事前にモノクマボトルの話をされていた私は驚いた。
「えっ、じゃあ……私も?」
霧切さんは「どうかしらね」ととぼけるように言った。しかしその表情は、思ってた以上に穏やかで、私は安堵する。
「それはそうと、……実はね、そのモノクマボトルに関して、もう一つ気になることがあるんだけど……。それを確かめるための“実験”をしたいの。手伝ってもらえるわよね?」
「実験……?」
霧切さんは、苗木くんに、床に散らばったモノクマボトルの破片を集めるように言った。小さな破片もなるべく残さないようにねと、念を押すと、苗木くんが驚いたように答える。
「え……?でも、大丈夫?勝手に現場の物をいじったりして……」
「一通り調べ終わった後だし、問題ないはずよ。うるさい十神くんもいないしね……。私は化学室に行って必要な道具を持ってくるから、その間によろしく……」
十神くんに対する霧切さんの本音に気を取られていて、彼女が見張りという役目を簡単に放棄したことに突っ込む暇がなかった。あっという間に娯楽室を出て行ったので、私と苗木くんと朝日奈さんだけが残される。
私たちは言いつけを守るため、箒とちりとりを引っ張り出してきて、ガラスの破片を集めた。
イスの下の破片も拾おうとして覗き込んだとき、何かガラス以外の物が落ちているのを見つける。
「あっ、何かある」
「え?」
膝をついて床にへばりつき、手を伸ばして拾う。起き上がってそれを確認すると、水玉模様の紙切れだった。
「なんだ、ゴミかな?」
「あれ、それ」
苗木くんがポケットから取り出す。手のひらに乗せて見せてくれたのは、全く同じ紙だった。
「これ、葉隠くんが落としたんだ」
「あ……!それ……!」
朝日奈さんが声を上げた。駆け寄ってきたかと思うと、私の手元を覗き込むので、持っていた紙切れを預ける。彼女は受け取って、穴が開くほど見つめていた。
間違いない、と彼女が話し始めたのは、その紙切れが飴玉の包みであることだった。食堂横の倉庫が解放された時、朝日奈さんは自分が好きな飴があるのを見つけて、段ボールごと自室に運び込んだらしい。だからこれは、もう手に入らないものなのだと言っていた。
さらに彼女は、この飴玉を今日、大神さんに分け与えたのだと証言した。保健室から一緒に出た時、彼女に少しでも落ち着いて欲しくて、ポケットに入っていた飴玉をプレゼントしたそうだ。
私が大好きな飴を味わってほしかったのに、もう、それもできないんだね……。朝日奈さんが苦しげに、吐き出した。嗚咽をもらしながら、包装紙を握りしめ、私たちに背を向ける。さすがの苗木くんもフォローできなかったらしく、私たちはただ顔を見合わせるだけだった。
「……霧切さんが戻ってくる前に、終わらせようか」
「う、うん」
私たちはまた、ガラス拾いに戻った。朝日奈さんのためにも、今回の犯人を絶対見つけなきゃいけない。そう、改めて決意し、ガラスの破片を一つも残さないよう、目を皿にして探した。
「準備は出来てるわね?さっそく始めましょうか……」
破片を拾い終えたタイミングで霧切さんが戻ってきた。彼女は手に、大きな機械を持っている。
「実験って……何するの?」
「化学室から天秤を持ってきたわ。これで重さを比べてみるのよ」
「なんの……?」
「あなた達が集めた破片と、残ったモノクマボトルの重さよ」
「どうしてそんなことを?」
「やってみれば分かるわ。そのための実験なんだから……」
霧切さんは言いながら、ビリヤード台に天秤を置いた。私に棚の上のボトルを二つ取って来るように指示したので、それに従う。
彼女に預けると、受け取ったボトルを、そのままそれぞれの図り皿に乗せた。
「まず最初に、モノクマボトル同士の重さを比べておきましょうか」
「釣り合ってるね」
動きを止めた天秤を見て言うと、霧切さんは頷いた。
「つまり、モノクマボトルの重さは、どれもほぼ同じってことになるわね」
「まぁ、当然だよね……中のモノクマフィギアにもほとんど差がないし、他に、重さが変わりそうな要因もないし」
苗木くんがモノクマボトルを見比べてコメントした。
「じゃあ、本番はここからよ」
霧切さんはそう言って、一つのモノクマボトルをどかした。大きく傾いた天秤に、私たちが集めて、ちりとりにためたままだったガラスの破片を、ザラザラと天秤皿に落していく。
「どういう結果がでるかしらね」
「重さが釣り合うか、集めた破片の方が軽いか、そのどっちかかな?」
霧切さんの問いかけに、私は首を傾げる。苗木くんも同意して、「そうだね。頑張って破片を拾い集めはしたけど……やっぱり、足りない可能性だってあるからね」と付け足した。
しかし、天秤の傾きは、私たちの予想と真逆だった。集めた破片の方が大きく下に傾いている。私と苗木くんは目を丸くした。
「あれ……!?」
「なんで?集めた破片の方が重いよ!?」
「やっぱりそうだったのね」
驚く私たちとは対照的に、霧切さんは落ち着いていた。まるで想定内の出来事だったかのように、天秤の傾きを静かに見つめている。
「……『やっぱり』?」
「今の実験の結果と、モノクマボトルの規則性……それらを併せて考えてみれば……そこから導き出される答えは一つしかないように、私は思えるけど……」
彼女はそこで言葉を切って、私たちを振り返った。その口元には、勝利を確信したような笑みが浮いている。
「あなたたちはどう考える?あなたたち次第よ」
霧切さんの問いかけに応えようとしたタイミングで、チャイムが鳴った。
私たちは反射的に、モニターを見る。映し出されたモノクマの映像は、いつもと同じものだった。
『……おっと、寝てた寝てた!オマエラの捜査が退屈すぎて、寝ちゃってたよ!!やっちゃうよ?いいすか?やっちゃってもいいすか?じゃあ、学級裁判を始めまーす!!オマエラはいつもの場所に、至急集合してくださーい!』
「もうそんな時間……?」
私は焦った。まだ何一つ謎は解けていない。大きな難題である、密室トリックさえ、だ。
「みょうじさん、いいかしら」
霧切さんに肩を叩かれる。気づけばドアの前に落ちていた容器を差し出されていた。
「最後にこれと、ロッカーの匂いを嗅いでほしいの」
「わかった」
「……ただ、この容器には近づきすぎないように気をつけて」
「?うん」
私はプロテインを少しだけ離れた距離から香った。
そして、その匂いに、体が強張るのを感じた。
「中からはどんな匂いがする?」
「大神さんの……口内に残ってた薬品の匂いが」
「容器からは、大神さん以外の匂いがする?」
私は答えられなかった。まだ室内にいる朝日奈さんを無言で意識していると、霧切さんが察したように、「わかったわ」と答えた。
「それじゃあ、最後に、ロッカーをお願い」
言われたとおりに歩み寄って、べったりした埃の量に少し身構えた。こちらもあまり近づかないように、鼻をひくつかせる。くしゃみが出そうになったけど、それより前に、ある人物の匂いを嗅ぎ取った。
「誰の匂いがする?」
霧切さんが問いかけたので、私は彼女に耳打ちする。朝日奈さんがまた興奮しないように、気づかっての行動だった。
「腐川さんの匂いがするよ」
「……そう」
霧切さんは笑みを浮かべた。まるで彼女の中で、疑問が全て解けたような、清々しさだった。
「それじゃあ、行きましょう」
霧切さんが娯楽室を颯爽と立ち去った。私も慌てて後を追おうとして、苗木くんがまだ、考えこむように足を止めているのに気づいた。
「苗木くん、行こう」
入り口から声をかけると、苗木くんは顔を上げた。そして、気合いを入れ直すように、唇を噛む。
「……絶対、なんとかしようね」
彼が言い、私は頷いた。
「苗木くん、あの、さっきはごめんね」
「え?」
「変なこと言って、困らせたでしょう。あれは、多分、怖くて、弱気になっちゃっただけなの。だけど、もう大丈夫だから。なんか、うまく言えないんだけど……今回の事件はいつもと違う気がするんだ」
苗木くんはようやく先ほどのやり取りを思い出したらしく、あぁ、と頷いた。
「私はやっぱり、苗木くんのこと信じてるよ。霧切さんも、十神くんも、みんな苗木くんのことは信じてる。それって、すごい事だと思うんだよね」
「えっ、そうかな?霧切さんも十神くんも、全然そんなそぶりないけど……」
照れ隠しというわけではなく、本当にそう思っていないようだった。げんなりした様子の苗木くんが、なんだかおかしくて、少しだけ笑ってしまった。
「とにかく、学級裁判、頑張ろうね。私も、全力で頑張るよ!」
「……うん。それじゃあ、行こうか」
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