書き続けた縦と横の棒に、あと一本足したら、四つ目の正の字が完成してしまう。最近の重苦しい空気も相まって、気分は最悪だった。
それでも部屋を出て、すっかり習慣になった食堂へ向かう。葉隠くんと腐川さんと朝日奈さんが、離れた席に座って、互いに背を向けあっていた。私はその光景に戸惑ったけど、「みんな、おはよう」とだけ声をかけた。私も、端の席を選んで、誰とも話す必要がないようにした。
「白夜様まだかしら……。大神さくらに何かされてたらどうしよう……?でも、私は白夜様の個室へ近づくことを禁止されているから……様子が見に行けない……!黒幕の内通者からお守りしたいのに……」
腐川さんがぶつぶつとうわ言のように呟くので、食堂の空気はますます重くなった。朝日奈さんの方を盗み見る。彼女は机に頬杖をついたまま、腐川さんと反対の方を見つめ、じっとしていた。
昨日の様子と一変した朝日奈さんが心配になった。大神さんに向けられた悪意ある言葉をこれ以上聞かせるのが心苦しく、腐川さんを止めようと歩み寄る。
「腐川さん」爪を噛んでいた彼女が伺うようにこちらを見上げた。「心配なら、私と十神くんのこと迎えに行こうよ」
正直なところ、十神くんと会いづらかったけれど、腐川さんを落ち着かせることができればと思い、提案した。
「あ、あんた、なに企んでるのよ……?さては二人きりになって私を大神さくらに差し出す気ね?」
「腐川さんが十神くんのことを気にしてるみたいだから……」
「そもそも私は白夜様の個室に近づくなって言われてるんだから!無理なのよ!」
「な、なにも部屋に入り込むわけじゃないんだから、大丈夫じゃない?」
「ダメよ……!半径三メートル以内、立ち入らないことを約束してるんだから!」
「半径三メートル!?腐川さんの部屋、十神くんの部屋の前通らないと行けないじゃん……?」
「だ、だから、反対側からぐるっと回って自室に行くのよ」
腐川さんの徹底っぷりに唖然としながらも、これ以上ここで話しても埒が明かないと理解した。
「そしたら私、十神くん呼んでくるからさ、落ち着いて待っててよ」
「落ち着いてね!」と念を押し、返事も待たずに食堂を飛び出した。駆け足で十神くんの部屋へ向かい、チャイムを鳴らす。なかなか出てこないので、気持ちが焦った。
「十神くーん!腐川さんが心配してるよー!」
防音設備であることも忘れて、インターホンを鳴らしながら叫んだ。
背後でガチャっと音がして、私は振り返る。苗木くんが、自室から出てきて、私に気づいて目を丸くした。
「おはよう。どうかしたの?」
「苗木くん!今、食堂で――」
私は最後まで喋れなかった。食堂の方から、野太い悲鳴が聞こえたのだ。
「……えッ!?」
「今の、葉隠くん……!?」
苗木くんは走り出していた。少し遅れてその後を追い、廊下を全力で駆け抜けた。
食堂の扉を突き破る勢いで飛び込んだ苗木くんに、一つの影が走り寄る。
「な、苗木っち!!大変、大変だべ!!」
「ど、どうしたの……!?」
息を切らしながら、すがりつく葉隠くんに、彼が問いかけた。
葉隠くんが「あ、あれだべ……!」と、震えた指先で指し示したのは、肩を抑え込んで床にへたり込む朝日奈さんと、二本の鋏を構え、舌なめずりする、腐川さん――ジェノサイダー翔だった。
「朝日奈さん!」
駆け寄って、彼女の傍らに膝をつく。彼女の肩はジャージが切れていて、傷ついた肌が見えていた。
「な、なんで……こんなことに?」
「腐川っちと朝日奈っちがいきなり取っ組み合いになって……。そん時、テーブルのコショーが倒れて……」
「……それでクシャミ?」
葉隠くんの説明で、苗木くんが察したようだった。私はテーブルの下に、ふたの空いたコショウが転がっているのを見つけた。ジェノサイダーはナイフを構えたまま、威嚇するように朝日奈さんを睨み下ろしている。
「爆乳スレンダーなんて出来過ぎなのよ!アタシの鉄板のような胸を見ろ!これがリアルよ!!ね、わんこちゃん??それとも細身の鎖骨に萌えてくれる!?鎖骨萌えウェルカムよ!」
同意を求められて、咄嗟に応えることができなかった。胸が小さいことで私に仲間意識を持っているのだと気づいた時には、もう話は進んでいた。
「いいから、さっさとそいつを連れてけって。この萌えない男子どもめ!でないと……切り刻んだり切り刻んだり切り刻んだりして、快感タイムを味わっちゃうわよ!」
持ち手に人差し指を通し、ぐるぐるとハサミを回転させて、ジェノサイダーが言った。獲物を狙うような瞳で朝日奈さんを見つめるので、かばうために朝日奈さんを抱き寄せた。
「と、とりあえず、朝日奈さんを保健室へ運ぼう!」
苗木くんが駆け寄ってきて、私と同じように跪いた。朝日奈さんに手を貸そうとするが、腰を抜かしてしまったのか、その場から動こうとしない。
「葉隠クン、手伝って!」
「お、おぅ……!」
ハッとして駆け寄った葉隠くんも、朝日奈さんを支えた。私は一歩退いて、彼らの通り道を確保する。
ジェノサイダーは救急車のサイレンの音を真似て、自分で笑っていた。彼女の高笑いを聞きながら、私たち四人は食堂を後にし、保健室を目指した。
そして、保健室で応急処置を済ませたころには、朝日奈さんも、落ち着きを取り戻していた。
「あ、ありがと……」
「本当に大丈夫……?」
「うん、かすり傷だし……」
「ねぇ、朝日奈さん。一体何があったの……?」
苗木くんが狼狽えながらも、しっかりとした口調で問いかけた。
「えっと……ちょっと口論になっちゃって。それで、ついカッとなって……。だって、あいつ嫌なヤツなんだもん……!すっごく嫌なヤツなんだもん!」
「こ、口論の原因ってやっぱり、大神さんのこと?」
朝日奈さんの顔つきが、怒りから一変して、悲しみに染まる。項垂れてベッドに座る自分の腿の辺りを見つめながら、ぽつりぽつりと喋り出した。
「最初は無視しようとしたんだ……。いちいち不快な連中の相手をしてたら人生なんて乗り切れないしさ……。だけど、あんまり酷いことばっか言うんだもん。それでつい……」彼女は勢いよく顔をあげ、拳を握りしめた。「十発ぐらいぶん殴ってやろうと……!!」
「十発は“つい”ってレベルじゃねーぞ……」
青ざめた葉隠くんが口を挟む。苗木くんは苦笑しただけで、確認するように言葉を挟んだ。
「それで、もみ合いになったところで、ジェノサイダーが出てきたってこと?」
「自業自得だよね……。でも……どうしてもガマンできなかったんだ……。だって……、だって……」
彼女はいつの間にか、瞳をうるませていた。
「大事な友達が、悪口言われてるんだよ……?」
朝日奈さんの頬を、大粒の涙がこぼれ落ちそうになった瞬間だった。
保健室の扉が壊れそうな勢いで開き、大神さんが姿を現したのは。
「……朝日奈?」
豪快な扉の開け方とは対照的に、その声は静かで優しかったが、その視線は朝日奈さんの怪我に釘付けだった。
「さくらちゃん……!?」
「その傷は……どうした……?」
大神さんが歩み寄ってきて、ベッドに腰をかける朝日奈さんの前まで来た。腕に触れようと伸ばした手は、空中で止まった。震える声が、彼女の怒りを物語っている。
「あ……!う、ううん……!別に大したことないから……!」
咄嗟に腕を隠す朝日奈さん。しかし大神さんは耳を貸さず、私たちを振り返った。
「苗木、葉隠、みょうじよ……これはどういう事だッ!?」
私が事情を説明しようと口を開きかけるより前に、葉隠くんが「お、俺じゃねーぞ!ジェノサイダーだべ!あの変態殺人鬼の仕業だべ!!」と叫んだ。
大神さんはその場で拳を握り、怒りに堪えるように奥歯を噛みしめた。低い唸り声を漏らし、髪を逆立てる。
「お……のれ……朝日奈が傷つけられようとは……。我ではなく、朝日奈が傷つけられようとは……なんてことだ……なんてことだぁぁああああああッ!」
彼女の咆哮は、保健室を全体を震わせるほどだった。お祭りの時に聞く和太鼓のような、腹の奥まで染み込むような重低音に、葉隠くんはすっかりおびえてしまった。私も、とても声をかけられなかった。
「わ、私なら平気だから……!ただのかすり傷だしさ……!」
朝日奈さんが必死で大神さんを宥めようとするけれど、それさえ届かないようだった。
「ゆる……せん……許せんぞぉぉおおッ!!」
また雄たけびをあげた大神さんに、葉隠くんは頭を抱えて喚いた。
「葉隠よ……貴様らが憎いのは我のはずだ……狙うならなぜ我を狙わん!」
「お、お、俺は別に……オーガを憎んでる訳じゃ……」
多分、何故だ、と大神さんは言った。今までで一番大きな叫びだったので、言葉さえ聞き取れなかった。ビリビリと鼓膜が振動する中、葉隠くんは、助けを乞うような言葉を叫びながら、保健室を飛び出した。足をもつれさせながら、必死で逃げていった。
「……どうしたの?」保健室の入り口から、この場にそぐわない冷静な声が響く。「……なんの騒ぎ?」
葉隠くんと入れ替わりにやってきた霧切さんだった。彼女はドアの前に立ち、中の様子を観察するように、冷静な視線を彷徨わせている。
負傷した朝日奈さんと怒りに震える大神さんを見て霧切さんは一瞬で何かを悟ったようだった。「何かあったみたいね……」そう言いながら、保健室に踏み入ってくる。苗木くんは救いの神を見たような表情で、「き、霧切さん!霧切さんも大神さんを止めてッ!」と叫んだ。
「止める必要などない……」
先ほどまでの咆哮と比べると、かなり静かな声だったのに、今までで一番怖いと感じた。大神さんは、拳は解かないまま「我なら平気だ……」と呟いた。
「我は何もしない……ただ……けじめを付けるだけだ……」
「け、じめ?」
幾分か落ち着いた様子の大神さんに安堵して、私は口に出していた。しかし、それに対して彼女は何も返さない。徐に背を向けると、「……さらばだ」と一言だけ残して、保健室を出て行こうとした。
「ちょ、ちょっと待ってよ!さくらちゃんってば……!」
大神さんの後を追うようにして、朝日奈さんも飛び出していく。嵐が過ぎ去ったあとのように静まり返った保健室。残されたのは――。
「……」
「…………」
苗木くんが霧切さんを、恐る恐るといった様子に見つめた。霧切さんは、腕を組んだまま、視線を明後日の方向へ向けているだけだった。私はその様子を見て、二人の仲が、未だに険悪な事を知った。先ほどまでとは別の意味で、背筋が冷える。
「あ、あのさ……霧切さん……」
苗木くんが意を決したように、声をかけた。霧切さんは微動だにせず、返事もしない。
「まだ……怒ってる……?」
直球な質問に、私は息を呑んだ。応えようとしない霧切さんに、胃の奥がチクチクと傷んだ。私は余計なお世話だとは思いながらも、沈黙に堪えかねて、口を挟む。
「霧切さん、あの、聞いて!」まさか私が喋ると思っていなかったのか、わずかに目を見開いてこちらを向く。「苗木くんは、隠し事のこと、いつか教えてくれるつもりでいるんだよ!まだ言えないけど、ハッキリしたら教えてくれるって言ってた。だから、今はその、何か言えない事情があるだけで、それを待ってあげて欲しくて……」
上手く喋れない自分にもどかしさを感じながらも、二人を見比べて、一生懸命話そうとした。霧切さんはふっと息を吐き出すと、伏目がちにつぶやいた。
「もう……いいわ」
「え?」
「みょうじさんが言っている件については、もうどうでもいいわ」
「じゃあ、許してくれるの……?ボクが秘密を話さなかったこと……」
「あなたが私たちに黙っていたのは、大神さんとモノクマの争いの件……言わなかったのは大神さんを思っての事だったんでしょ?」
私はハッとする。モノクマが体育館に全員を集めて、大神さんが内通者であると打ち明けた時のことを思い出していた。苗木くんは確かにあの時、大神さんがモノクマと闘っているのを目撃したと言っていた。その記憶を蘇らせると同時に、霧切さんとの喧嘩の原因になった、音楽室での言葉も繰り返す。『今はまだ、余計な心配をかけてしまうかもしれないから、言えないんだ。でも、ハッキリしたら、霧切さんにもみょうじさんにも話せると思うから……』霧切さんの言葉で、ようやく辻褄が合った。彼のことを信じて良かったと、安堵の息をついた。
「彼女自身に確認するまでは、不確かな情報でみんなを混乱させる訳にはいかない……そう思って黙ってたんでしょう?」
霧切さんが苗木くんの目を見つめた。随分久しぶりに、二人の視線が交わったような気がして、胸が熱くなった。
苗木くんが肯定を示すように首を縦に振ると、霧切さんはため息をついた。視線をまた逸らしたかと思うと、呟くように言う。
「そんな気遣い……苗木君のクセに生意気ね」
「えぇッ!?」
苗木くんの声が驚きに裏返った。
「だって、それって結局は私たちを信用してないって事でしょ?ましてやみょうじさんはあれほど盲目にあなたを『信じる』と言っているのに……」
「そ、そういう訳じゃないけど……そう思われても仕方ないよね……ごめん……」
苗木くんは霧切さんと私に頭を下げた。
「わ、わたしは平気だから!顔あげて!」
「私も、……もういいわ。忘れる事にするから。それに……」言葉を切った霧切さん。苗木くんと私が不思議に思ってそちらを見ると、俯きがちになって、頬を少し赤くさせた。「私もちょっと怒りすぎたし……」
「霧切さん!」
仲直りしてくれたことが嬉しくて、思わず霧切さんに飛びついた。いつもの無表情を崩して、眉根を寄せる彼女に、「嫌がられてしまったかも」という不安にが過る。しかし、それは一瞬のことだった。霧切さんは予想外にも、私の頭をやさしく撫でてくれた。まるで、子供に対して母親がやるような、愛を感じさせる所作だった。
「あなたにも心配をかけたわね」
かつてないほどに穏やかな眼差しを向けられ、妙な緊張感を抱いた。間近で見て、改めて霧切さんの整った顔立ちを意識する。
「とにかく、もう終わりにするわよ。この件は忘れましょう。……他に話したいこともあるし」
少しぎこちない動作で、私は離れた。苗木くんは頷くと、霧切さんにお礼を言う。二人の視線が交わるのを見て、安心すると同時に、心強さを感じた。
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