図書室からの帰り道、気になって覗いた食堂に、霧切さんの姿はなかった。個室へ行ってインターホンを鳴らしても、誰も出ない。
何かあったのかと不安になっていると、通りがかった朝日奈さんが、霧切さんが先ほど、食堂で簡単な食事をとっていたことを教えてくれる。今は四階の探索をしているらしい。
杞憂だったことを知り、ようやく気持ちが落ち着いた。部屋へ戻って二冊をテーブルに放ると、一冊は手に取ってベッドに寝転がる。表紙やあらすじを眺めれば、確かに以前のものより読みやすそうだった。というより、十神くんが選んでくれたものは、子供向けの小説のようだった。これで読めなかったら、死ぬほど馬鹿にされると気づき、絶対に読まなければという、プレッシャーが押し寄せる。
どうせやることもないので、そのまま本を読むことにした。掛布団の上に寝そべっていたのを、きちんと入り直す。枕を胸の下にしいて、肘で上半身を支えると、すごしやすい場所を探し出して、読書を始める。
途中、お昼ご飯を食べに行ったり、洗濯ものをしに行ったりしたけれど、一日の大半は本を読んで過ごした。十神くんが選んでくれた本は、意外にも面白かった。
その後、夕飯を食べに向かった食堂で、葉隠くんと偶然会う。バミューダトライアングルについて教えてもらいながら食事を終え、自室に戻った時、アナウンスが鳴った。
『校内放送、校内放送……至急、体育館までお集まりください……。至急……至急……至急……至急……!』
妙に切羽詰った放送に、不安を抱く。読みかけの本を置いて、体育館へ急ぐと、霧切さんや朝日奈さん、十神くんや腐川さんが揃っていた。
「霧切さん!ごはんちゃんと食べてる?大丈夫?」
「ええ。あなたに心配されるようなことは何もないわ」
「そっか、それなら良かったんだけど……」
「それより、みょうじさん」
匂いの事、お願いね。そう耳打ちをされ、以前、モノクマの匂いを嗅いでほしいと頼まれていたことを思い出した。すっかり忘れていたので、何度も首を縦に振る。任せて、と自分の胸を叩くと、霧切さんは「頼んだわ」とだけ言って、離れて行った。
やがて体育館に全員が集まった時、タイミングを見計らったように、モノクマが飛び出した。ステージの上、台の陰から跳ねるように現れる。いつもは回りくどい挨拶を重ねるのに、「じゃあ、さっさと始めようか」と宣言したモノクマに、違和感を覚えた。
十神くんが、どうせ“動機”の話だろうというと、今までの事を思い出して誰もが震えた。しかし、モノクマはこれをあっさり否定する。
「今回オマエラを集めたのは、ボクの恨みを晴らすためなんだよ」
「……あなたを恨みはすれど、恨まれる覚えなんてないはずよ?」
霧切さんが言うように、モノクマに恨まれる心当たりなんてなかった。しかしモノクマは怒り心頭の様子で言葉を続ける。
「だからさ、昨日も言ったでしょ?目には目を、歯には歯を……って」
昨日と全く同じポーズをとって、威嚇するように叫んだ。十神くんが苛立ちを露わに、足を揺らして地面をカツカツ叩く。
「要領を得ない話はやめろ!ハッキリしろ。お前は何がしたいんだ?」
「十神クンは前に言ってたよね?オマエラの中にボクの内通者がいるんじゃないかって……」
モノクマの言葉にひっかかりを感じたのだけれど、それを思考が追い求めるより前に、話は進んでいく。
「……それが、どうした?」
「教えてあげるよ、内通者のこと」
みんなが息を呑む。緊張が走る中、モノクマはいつも通りの明るい口調で言い放つ。
「あのね……内通者の正体は、大神さくらさんです!」
あまりにもあっさりと言うので、モノクマにとってこの事実は、さほど重要なことではないのかと錯覚しそうになった。
私は思わず振り返る。みんなも同じようにしたので、大神さんは一斉に注目された。しかし、腕を組んで立ち尽くす彼女は、取り乱すことも、反論することもせず、じっと正面を見据えていた。
「え……?今なんつった……?」
「内通者は大神さくら……そう言ったんだ」
葉隠くんがまばたきを繰り返す。答えたのはモノクマではなく、十神くんだった。
「な、何言ってんの……!?さくらちゃんが内通者なんて……そんな訳ないじゃん!ねぇ、さくらちゃん……?」
みんなの疑惑の目から友人を守るように、朝日奈さんが問いかける。けれど、みんなが期待するような返事はなかった。視線を合わせようともしない大神さんに、朝日奈さんが焦燥の色が浮かべた。
「さくら……ちゃん……?」
「それと、大神さんにはそろそろ“約束”を果たしてもらおうかなーっと。じゃないと、人質の件……ボクは責任が持てませんなぁ……」
モノクマは両手で自分の口元を覆い、うぷぷと笑い声を漏らした。
「ボクが言いたいのはそれだけだよ。内通者の件は、オマエラの好きにするといいよ。煮るなり焼くなり、殺すなり殺されるなりさ!」
楽しみ楽しみ、そう言いながらモノクマは消え去った。
そこでようやく、モノクマの言葉の意味を理解する。目には目を、歯には歯を。そして、裏切りには裏切りを……。
残された私たちは、大神さんに向き合いながら、どう話しかけていいか、分からずにいた。
「え、えーっと……どういうことだべ……?ほ、本当なんか?オーガが黒幕の内通者って本当なんか!?」
「何言ってんの!そんな訳ないじゃん!!」
「だけど……あのヌイグルミはそう言ってたわよ……?」
「ち、違うよ……!そんな訳……ないじゃん……!」
必死に反論するのは朝日奈さんだけだ。今にも泣きだしそうになっている彼女にも、どう声をかけていいかわからない。
ただ黙っている事しかできずにいたら、霧切さんが一歩前に踏み出した。
「どうなの、大神さん?違うなら違うとハッキリ言って」
「……。……黙っていて……すまなかった」
「……え?」
朝日奈さんが目を見開く。葉隠くん騒ぎ立て、腐川さんが大神さんを責める。場が騒然となった。
「ち、違うんだよ……。きっと……さくらちゃんは操られてただけで……何か理由があって……それで……仕方なく黒幕の言いなりに……」
「朝日奈さんの言う通りだよ。大神さんは黒幕に脅されて、仕方なく言いなりになってただけなんだ」
必死に大神さんを庇い続ける朝日奈さんをフォローしたのは、苗木くんだった。彼は、その発言の根拠として、先日見た光景について、みんなに語った。
苗木くんは大神さんとモノクマが戦っているところを目撃し、その際に、彼女が誰かを人質をとられているという話を耳にしたらしい。
「大神さんは言ってたよ。『黒幕と戦う決心をした』って……」
「見ていたのか……」
「大神さんは、人質を取られたせいで、しぶしぶ黒幕に従う約束をしたんだよね?だけど、結局は……大神さんは黒幕を裏切る決断をして……」
「だから、大神はもう敵じゃない。間違いなく信用できる仲間だ……とでも言いたいのか?」
苗木くんの言葉を遮ったのは十神くんだ。バカバカしい、と吐き捨てるように言うと、苗木くんを睨み付ける。
「お前はメルヘンの世界にでも住んでいるのか?そいつは黒幕の手先だったんだ。そんなヤツを簡単に信じられる訳ないだろう」
「そ、そうだべ!そんな簡単に信じらんねーって!」
葉隠くんまで同意する。大神さんは反論せず、非難も疑いの目も、黙って受け入れているようだった。
「それに、本当に黒幕を裏切ったのかも怪しいもんだ。裏切ったフリをして、まだ黒幕と繋がっているのかもしれんぞ……」
「さくらちゃんは、そんなことしないよッ!!」
朝日奈さんの叫びを無視して、十神くんが大神さんを見る。
「おい大神、本当に黒幕を裏切ったのなら答えてみろ。黒幕とは何者なんだ?」
「それは……すまんが我も知らんのだ」
「知らないだと?ますます怪しいな」
勝ち誇ったように顎を上げ、十神くんが嘲笑う。そんな様子を見かねたのか、二人の間に朝日奈さんが割って入った。
「ホントなんだって……信じてあげてよ!」
「お前は黙ってろ。まだ質問は終わっていない。……次の質問だ。“約束”とはどういう意味だ。お前は黒幕から何を命じられたんだ?」
朝日奈さんを無視して会話を続けようとする十神くんに、大神さんは一瞬沈黙した。しかし、やがて覚悟を決めたように口を開く。
「我が黒幕から命じられたのは……仲間の誰かを殺すことだ」
一瞬にしてその場が凍りついた。彼女の低い、かすれた声が、余計に恐怖心をあおった。
「なるほど……それで今も、俺達の命を狙っているというわけか……」
「だから違うって!!さくらちゃんはそんなことしないって!!」
「さ、叫ばなくても聞こえてるわよ……!いちいち距離感がなさすぎよ……!」
「あんたたちが聞いてくれないからでしょ!」
腐川さんの文句に、朝日奈さんが食ってかかる。今にも喧嘩が始まりそうになって、私はうろたえた。とりあえず、掴み掛りそうな勢いの朝日奈さんを抑えようと一歩踏み出したとき、それよりも前に大神さんが動く。葉隠くんが大げさなぐらいに飛びのいたけど、彼女はそれを気にせず、朝日奈さんの腕を掴んだ。
「……待て。それ以上、我のことで争う必要はない。我が……すべての責任を取ればいいだけだ……」
「……どうするつもり?」
霧切さんが冷静な声で尋ねる。それに返した大神さんの声も、同じぐらい静かな声だったはずなのに、やけに力強く体育館にこだました。
「黒幕を倒す」
「……え?」
「黒幕に戦いを挑み、刺し違えてでも倒してみせる。それが……我の責任の取り方だ……」
「ちょ、ちょっと待ってよ!刺し違えても……って」
血の気の失せた表情で、朝日奈さんが大神さんにすがりついた。私も咄嗟に彼女の制服を掴む。
「大神さん、落ち着いてよ。し、死んじゃうかもなんだよ?」
「もとより覚悟の上だ……」
そっとほどかれて、私の手は力なく垂れさがった。
「朝日奈よ……打ち明けられなくてすまなかったな……」
「え……?」
「何度も迷った……。お主だけには打ち明けようと何度も迷ったのだ……。……だが、怖かったのだ。打ち明ければ、お主から軽蔑されるのではないかと……」
「さ、さくらちゃん……!」
大神さんは、最後に、謝罪の言葉だけを残して体育館を出て行った。それと同時に、夜時間を告げるチャイムが鳴り響く。空気を壊すモノクマのアナウンスが流れ、私たちは彼女を引き留めるタイミングを失ってしまった。
「……さてと、夜時間だ。そろそろ戻るとするか?」
十神くんが言うと同時に、体育館の出入り口に向かって歩き出す。朝日奈さんが駆け出して、その行く手をふさいだ。
「ちょっと待ってよ!まだ、さくらちゃんの件が……!」
「片付いている。あいつは俺たちの敵……それだけだ」
十神くんの一歩も譲らない態度に、朝日奈さんはそれでも食い下がった。けれど、不意に苦しげな表情になって、項垂れた。
「ど、どうして……?どうして……誰も……さくらちゃんのことをわかってくれないの……?」
「お前こそ、あいつの何を分かっている?あいつの正体も知らなかったお前が……」
震える朝日奈さんに、さらに追い打ちをかけるように十神くんが言う。朝日奈さんが言葉に詰まった瞬間を見計らって遮ったのは霧切さんだった。
「……朝日奈さん、今はここまでにしておきましょう。これ以上はいくら話し合っても無駄よ……」
「だ、だけど……ッ!」
とうとう泣き出してしまった彼女は、自分の中の感情を持て余しているようだった。怒りの矛先を誰に向けていいか分からず、混乱と悲しみの中で震えている。
「続きは明日よ……。一晩休んで頭を冷やした後でね」
霧切さんの平淡な声音は変わらない。朝日奈さんは涙を浮かべた瞳で全員を睨み付けると、大神さんを追うように、駆けて行ってしまった。
十神くんも、全く意に介した様子もなく、体育館を出て行く。腐川さんがその後を追い、葉隠くんも肩身が狭そうに、出て行った。苗木くんが振り返って私と霧切さんを見た。彼女はその視線をすり抜けるようにして、体育館を出て行く面子の後を追った。
「な、なんでこんなことになっちゃったんだろう……」
泣き出したい気持ちで呟いたら、苗木くんも困り果てたような表情を返した。私たちは力なく項垂れる。
「大神さんも心配だけど、朝日奈さんも大丈夫かな?なんかもう、最悪の空気だよね……」
「うん……。だけど、霧切さんが言ったように、今のボクらにできることはないよ。また明日、朝日奈さんや大神さんと話してみよう」
「そうだね……」
苗木くんと一緒に、体育館を出ようとして、先ほど霧切さんに頼まれたことを思い出す。
「ごめん、ちょっと待って」
そう言って引き返し、体育館の舞台の上によじ登った。マスクを外して、モノクマがいた辺りを必死に嗅いでみる。
「どうしたの?」
「ううん、ちょっとね」
舞台から飛び降りて、彼のもとに駆け戻った。
やはり体育館に出現するモノクマは、ゴムの匂いがする。体育館にはバスケットボールやバレーボールが転がっているから、その匂いがうつったのかもしれない。
それから、ほんの少しだけ、粉っぽい匂いがしたような気がした。その匂いの正体を探ろうと、記憶をたどる前に、私の意識は苗木くんの言葉に引き戻された。
「十神くんはあんな風にいったけど、ボクは、大神さんは仲間だと思うんだ」
そう呟いた彼の横顔に、嘘も偽りも、不信感もない。心から友人を心配するような表情を見て、やっぱり私は、苗木くんほど純粋に景色を見れていないんじゃないかと思った。
大神さんを信じたい。だけど、『仲間の誰かを殺す』ように命じられたと白状した時の彼女に頂いた恐怖心も、紛れもない事実だ。私は自分を、どうしようもないズルい人間に感じながら、「そうだよね、大神さんは仲間だよね」と答えた。苗木くんを信じて、苗木くんと同じ世界を見たかった。
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