「みょうじさん、よろしいですか?」
食堂を出て自室へ向かう廊下を歩いているとセレスさんに呼び止められた。
またロイヤルミルクティーを要求されるのかもしれない。身構える私など気にした様子もなく、彼女はお洒落なロゴの入った、小さな紙袋を取り出した。
「これ、差し上げますわ。ぜひ使ってください」
目を細めて笑ったセレスさんに手渡された紙袋を、恐る恐る覗き込む。中にあるのは小さな箱で、伺うように彼女を見ると、「開けてみてください」と言われた。
その場にしゃがみこんで、紙袋から、両手に収まるサイズの箱を取り出す。いつものように包装用紙をビリビリ破くと、彼女を怒らせる気がして、丁寧にシールをはがしていく。
箱から出て来たのは、蝶がモチーフの、小さな瓶だった。
「わたくしとお揃いの香水です」
しゃがみこんだまま顔を上げると、セレスさんと目線がぶつかる。
「遅くなりましたが、これのお礼です」
そう言って彼女がかざした手には、色恋沙汰リングが輝いていた。
まさかセレスさんがこんな風にお返しをくれると思っていなかった私は、単純に嬉しかった。人工的な匂いをさせる香水は苦手なのだけれど、嫌われているのかもしれない、そんな不安を抱いていた相手からの贈り物は、喜びと安堵で胸を埋め尽くす。
「本当に私にくれるの?」
「ええ。そのつもりで用意しました」
「ありがとう!」
ぴょんと跳ねる勢いで立ち上がって、香水の入った箱を抱きしめる。セレスさんが、「せっかくですから、早速つかってみてください」と言った。
私は紙袋と箱を置いて、香水だけ取り出した。使い方が分からずおろおろしていると、白く細長い指が伸びて来て、つまみ上げた。セレスさんは使い方を教えてくれながら、私に香水を吹きかける。いつもセレスさんから香る、薔薇の花の酸っぱさと、ミルクティーの甘さが混ざったような匂いが広がった。
「ほんとにセレスさんの匂い!」
彼女は何も言わず、微笑を浮かべた。
「ありがとう、大切にするね」
私は階段を駆け上がり、苗木くんの匂いをたどっていく。たどり着いたのは娯楽室だった。
「苗木くーん!」
扉を思い切り開けると、ソファに深くもたれて雑誌をめくっていた彼が、飛び起きた。
「びっくりした、どうしたの?」
そう言いながらも私の姿を認め、笑顔になってくれた苗木くんの元へ歩み寄る。ソファのすぐ近くにしゃがみ、肘掛に両手を置いて、顔をのぞきこむ。苗木君はすぐにひらめいたような表情になって、私に少し鼻を寄せた。
「いつもと違う匂いがする」
「そうなの!セレスさんが香水くれたんだ」
言いながら、自分のカーディガンの袖を引っ張って、鼻に押し付ける。思いきり吸い込んだせいで、匂いの強さにくしゃみが三度連続で出た。苗木くんが心配してくれたけど、緩む口元が隠せない。
「前に相談したでしょ」
「え?」
「セレスさんに嫌われてるかもって。気のせいだったみたい!」
首を傾げる彼に、経緯を説明した。私がご機嫌な理由に納得したようで、苗木くんは自分のことのように、一緒になって喜んでくれた。
「苗木くん、こないだは相談のってくれてありがとね!やっぱり私の考えすぎだったんだね」
「全然、たいしたことは言ってないし。でも、ほんと良かったよ。……そうだ!」
ふと思い出したように、雑誌をローテーブルへと置く。
「ボクも、指輪のお礼しようと思って……」
そう言った彼が、左のポケットに手を突っ込んだ状態で、動きを止める。何か葛藤するような表情で固まるので、不安になった私は首を傾げて覗き込み、「苗木くん?」と呼びかけた。
我に返った様子で彼はこっちを見ると、じわじわと耳を赤くする。「ごめん、なんでもない」そう言って左のポケットから手を抜き、右のポケットを探った。やがて握られた右手が目の前まで伸びて来て、おもむろに拳が開かれる。
「これ、あげる」
彼の手のひらに乗っていたのは、猫をモチーフにしたヘアピンだった。
私はギクリと体を揺らす。少し悩んで言葉を選び、彼を伺い見た。
「んー、こういうのは、私より朝日奈さんとかの方が似合うんじゃないかなぁ」
「……えっと、もしかしてこういうの嫌いだった?」
出来るだけなんでもない風に言ったつもりだったのに、苗木くんがすごく申し訳なさそうな顔になった。
「えーと、実は、猫が……苦手かもしれなくて」
はっきりしない物言いに、苗木くんが目を丸くした。
「そうなの?ちょっと意外だなぁ。なんで苦手なの?」
理由を自分の中に探そうとして、心臓が脈打った。蘇った苦い記憶が、痛みも引き連れてやってくる。
「ごめん、言いたくなかったら、無理に答えなくていいよ」
気づかうような声で、自分の眉間にシワが寄ってしまっていることを知る。
「たいした理由じゃないから、呆れられちゃうかもしれないと思って」
「呆れたりしないよ!」
即答した苗木くんの勢いが、まるで、学級裁判の時のようで、少しだけ笑ってしまった。
立ち上がり、ローテーブルをはさんで向かい側のソファへ座る。スカートを整えている間、彼は身じろぎ一つせず、待っていてくれた。
「あのね、私、中学の時、好きだった人に勇気を出して告白したんだ。そしたら、『ボク、猫派なんだよね』ってふられちゃって」
スカートを直し続けるふりをして、俯いたまま話し始める。テーブルの上に乗っている、さっきまで苗木くんが読んでいた雑誌の表紙を飾るアイドルと目があっていた。
「その人からも、友人からも、よく『犬っぽい』とは言われてたんだよね。鼻が利くことだけじゃなくて、性格とか。自分じゃあんまり分からないんだけど……」
話しているうちに重い気持ちが蘇る。だんだんと沈んでいくのを感じながら、言葉を紡ぎ続けた。
「とにかく、それがその人の好みじゃなかったみたいなんだ。私が、人と違う嗅覚のせいで凹んでる時、優しい言葉をかけて慰めてくれた人だったから、そんな理由で断られたことが、結構ショックで――」
思い切って顔を上げると、私以上に辛そうな表情の苗木くんが、こちらを真剣に見つめていて、ドキッとした。つまらない話をしてしまったことに気づき、取り繕うように表情を明るくする。
「――多分そのせいで、猫とか猫派の人が苦手になったんだよね。自分の犬みたいなとこも嫌になっちゃって、しばらくウジウジしてたんだ。その後に来た希望ヶ峰学園からの入学のお誘いも、断ろうかと思ってたんだよ!」
愚痴をこぼすように言った時、ふと自分の行動に疑問を抱いた。
――あれ、なんで私、結局この学校へ来ようと思ったんだっけ……?
途端に自分自身が別の意思で動かされているような気味の悪さを感じた。漠然とした恐怖から目を逸らし、私は疑問を意識の外へと弾き出す。真剣な表情のまま聞いてくれていた苗木くんに向き直った。
「まだ、『嫌いだから付き合えない』って断られた方がよかったな。犬や猫と同じくくりにされるなんて、ワケわかんないよねぇ」
「そうだよね、みょうじさんはこんなに可愛い女の子なのに」
「えっ」
予想外の返答に、素っ頓狂な声をあげて固まった。可愛い女の子、という言葉が自分に向けられていることが、信じられなかった。ましてや同い年の男子からなんて、初めてだった。
じわじわと耳が熱くなる。顔が赤い気がして、余計に羞恥心が増す。視線を斜めに落として、少しでも表情を見られないよう努めた。
彼の言葉は、落ち込んでいる私を慰めるための社交辞令だと必死に言い聞かせ、平常心を保った。
「ありがとう。苗木くん、優しいね」
自然な調子を狙ってお礼を述べるものの、耳まで熱いのは隠せない。
急に苗木くんを意識している自分が恥ずかしかった。
苗木くんは少し妙な表情をしていた。私のリアクションがおかしいことに気づかれてしまったのかもしれない。気まずさから逃げ出そうと立ち上がると、苗木くんがハッとしたように私を見上げた。
「じゃあ、今度違うものをお返しに渡すよ」
ヘアピンをしまう彼の声の調子が普段通りになった。安心して、私はほっと息をつく。
「大丈夫だよ!そもそもあの指輪がお礼だったんだから。お礼のお礼って変だよ〜」
「そ、そうかな……?」
「うん、気にしないで!むしろ、お話聞いてくれてありがと。それじゃあ私、もう行くね」
気恥ずかしさをごまかすように、それだけ言うとすぐに娯楽室を出た。
妙に浮ついた気持ちのまま、階段をおりていると、誰かが上がってくる気配があった。
「霧切さん!」
香りで判断し、一段抜かしで駆け下りると、ちょうど踊り場で鉢合わせた。霧切さんは表情一つ変えず、私の瞳をじっと見つめた。
「こっちの方に用事?」
「いいえ、特に用はないわ。それより……」
霧切さんが不意に、距離を詰めて来た。私の首筋に顔をよせるので、彼女の冷えた空気の中にわずかに混じる、桃の香りが鼻腔をかすめた。
「……香水をつけたの?それも、この匂い、何処かで嗅いだ記憶があるわ」
「すごい!霧切さんよくわかったね。そうなの、実はセレスさんからもらったんだ!」
彼女は身を引くと、無言で私に観察するような視線を投げつけた。
「……似合わないわ」
「え?」
「あなたにその香りは、似合わない」
霧切さんはそれだけ言うと、私の横をすり抜けて、階段を上がって行った。
足音が遠のき、階段を離れ、廊下を進んで行くのを聞いてから、ようやく振り返った。
当然そこに彼女の姿はなく、漂う残り香だけが、彼女がそこに存在していたことを確かに証明していた。
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140621