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最上階の踊り場。私は疲れ切った足を感じながら、最後の一段を踏みしめた。
少しの光も漏らさない重たい扉の前に出る。私は自分が登ってきた階段を振り返ることなく、そのドアノブに手をかけた。すぐに手のひらに感じた冷やりとした感触。緊張しながらも、ぐっと右手に力を込め、ゆっくりと扉を開いた。途端に視界を埋め尽くしたのは橙色。眩しさに目を細めながら、外へと足を踏み出した。
後ろ手に扉を静かに閉めると、ガチャリと金属音が響く。光に慣れて周囲が見え始めた私の目に最初に飛び込んできたのは、焦がれた後姿だった。
いつも見つめていた、いつも追いかけていた高杉君の背中。
手すりにもたれて下を眺める彼の髪を、風が優しく揺らしていた。
「遅ェよ」
高杉君が、振り返らずに呟いた。それだけで胸の奥が痛むのを感じながら、私は小さく謝罪の言葉を呟いた。
「ご、ごめん」
「……こっち来い」
「……うん」
低い声に緊張した。先ほどから此方に視線を向けることのない高杉君の元へ、私は不安気に、でも、一歩一歩確実に距離を縮めてゆく。
やっとの思いで高杉君の隣に並んだ。彼のように手すりに手を置けば、冷たくて固い無機質な感触。二人でここから下を見るのは卒業式以来だ。
卒業式以来。思い出して胸がじくりと痛む。あれからたった数週間。ほんの少しの間彼に会わなかっただけで、どうしようもなく久しぶりに感じた。
この場所も、この景色も、この空気も全て懐かしい。私にとっては全てが特別で、何にも代えられることのない大切なものなのだと改めて実感する。
先ほどから柔らかい風が吹き抜けていく。きれいな朱色が私たちを染め上げて、まるで世界に二人きりのような錯覚に陥った。
美しすぎる景色に見惚れていると、やがて沈黙が流れ出した。緊張に腕が震え、めまいすらした。息をひそめて彼の行動を待つけれど、高杉君は何も言わない。私は気まずさから逃げるように手すりを強く握りしめた。
「……高杉君、どうしてこの前の打ち上げ、来なかったの?」
沈黙に耐えきれずに開口した私の声は震えていた。彼の反応を確認しようと横目で盗み見る。けれどこちら側の彼の瞳は眼帯で覆われているために、表情を窺うことができない。
「……行った」
「え?」
「行ったんだよ」
もう一度はっきりと繰り返した高杉君。てっきり言い訳をすると思っていた私は、咄嗟のことに何も返せなくなった。真意を探ろうと、手すりを手放して彼の方へと向き直る。けれど変わらず高杉君は下を眺めたまま。
「うそ。だって、私ずっと待ってたもん」
「嘘じゃねェ」
高杉君は頑なに譲らない。声は真剣そのものだし、彼が嘘をつく理由も見当たらない。じゃあ、なんで。いつ?
「……お前が階段にいた時」
「え……」
「俺が着いた時、お前階段にいた」
高杉君の言葉に記憶がじわじわと繋がるのを感じた。
山崎君と並んで座っていた時、確かに聞こえた足音。
一回目は確か知らない女の人だった。けど、二回目は……?
「もしかして」
「たぶんお前の考えてんのであってる」
「なっ……、なんで出て来てくれなかったの!?」
飄々とした態度が気にくわなくて、思わず声を荒げてしまった。けれど、そんな私に対して、彼はいたって冷静だった。
こちらを見もしない高杉君に、無性に悲しくなった。私はあれだけ苦しんで、思い悩んでいたって言うのに、やっぱり彼は何とも思っていなかったのだ。
「告白シーン邪魔するなんてできっかよ」
感情に抑えがきかなくなりかけていた自分の力が一気に抜けたのを感じた。
ああ、そっか。あの時……。私を見据える山崎君の瞳を思い出して、胸の奥が熱くなった。一気に罪悪感が込み上げる。
「……人の告白覗くなんて、悪趣味とか言ったのに」
「お互い様だろ。それに、あんなとこでやってんのが悪ィんだ」
高杉君の冷たい声。ショックだった。こんな風に言われるなんて思ってなくて、胸中を嫌な感情が支配していく。
山崎君の柔らかい、でも、どこか辛そうな表情を思い出した。高杉君にそんなこと言う資格は、ない。
「た、高杉君には関係ないじゃん」
思わず口をついて出た言葉。高杉君の体が僅かに揺れたのを私は見逃さなかった。途端に後悔の念が襲うけれど、手遅れだ。
「関係ない?」
高杉君の声が、鋭くなる。漸くこちらを見た彼の瞳は冷たかった。私は恐怖に体を強張らせた。
違う。こんなこと言いたかったんじゃない。
謝罪をしようと口をパクつかせるけれど、声が出ない。謝っても拒絶されてしまったらと思うと、何も言えなくなってしまう。
威圧されているかのような息苦しさに耐えられず、私は俯き強く目をつぶった。
瞬間だった。後頭部に軽い衝撃。ぐいと引き寄せられ、私はバランスを崩す。何事かと思い目を開くと、至近距離に高杉君の顔があった。
「……!」
驚いて後ずさろうと一歩引きさがると、もっと強く近づけられた。キス、できそうな距離。
高杉君が動かないので、私たちはそのまま見つめあう形になる。たまに彼の吐息が額にかかる。私はただ固まった。
「関係なく、ねェだろ」
隻眼が、私を捕えて離さない。頭の中は真っ白で、心臓はあり得ないほどのスピードで脈打っている。熱が一気に顔に集中していくのを感じた。
「こんなに俺を振り回した女は初めてだ」
「……ご、ごめ」
「謝んな」
後頭部に添えられていた高杉君の左手が緩んだ。ゆっくりと一歩後ろに下がると、今度は簡単に離してくれた。高杉君は、静かに手を下ろすと、私を見据える。
「お前が好きなのは、俺なんだろ」
明瞭な口調だった。けれど、どこか不安定。
私は目を見開く。顔を上げて高杉君を見る。驚きで、咄嗟に声が出なかった。
彼は立ちつくす私から視線を外すと再び手すりにもたれかかった。さらさらの黒髪からのぞく彼の耳は赤い…ように見えなくもない。否、もしかしたら、夕日のせいかもしれない。
「……どうなんだよ」
高杉君が、呟いた。視線はぶつからないけれど、確かに私自身へと向けられたその質問。
ごくりと唾を飲み込むと、意識がはっきりとしていくような感覚。ぼんやりとしていた情景が、霧が晴れるかの如くクリアになってゆく。
今になってやっと思い出した。私がここへ来た理由。
体中の血液が活発に巡り始めた気がした。自分が少し冷静になっていくのを感じながら、私は意思を固めた。彼の服の袖を掴み、強くこちらに引いた。
「た、かすぎくん」
名前を呼べば、高杉君がこちらを見た。私は彼の右目を真っ直ぐと見据えて、覚悟を決める。
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