願ってもない願望


「みょうじさん、俺らも結婚せぇへん?」
「そうだねー。もし明日になってもお互い覚えてたらしちゃおっかー」

そう言いながら目の前にある安いカクテルの入ったグラスの中の氷をマドラーで突っつく。
人生初のプロポーズがこんな居酒屋の隅っことは情けない。
これが長年付き合った果てのプロポーズなら店の真ん中に正座させて小一時間説教もしてやるところだけど白石くんは何も悪くない。むしろこれは感謝すべきところなのかもしれない。


今朝の朝礼の最中に、私は失恋してしまった。
想いを寄せていた同じ課の先輩と同僚の女の子が課長に名前を呼ばれ、照れ臭そうに肩を並べたのを見てまさか、なんて思ったらそのまさかだった。
なんで隠してたのー。寿退社だねー。羨ましい。なんて言いながら他の同僚に混ざっておめでとうと言ってはみたものの、ちゃんと笑えてたのかは分からない。
だけどそんなの向こうだって気にしてないはず。
なんたって彼女は今幸せの頂点にいるのだ。
そして私はさっき足を踏み外したところで、そんな私のことを彼女は気にするどころか、気付いてすらない。
先輩に好きです、なんて言うチャンスがなくて本当に良かった。
もしあったとしたら、本人に直接フラれていたのだ。
それよりマシだ、いらない恥をかく前で本当に良かった。そう自分に言い聞かせながら、今日一日は最低限の仕事だけをこなして過ごした。

そんな私の異変にただひとり気が付いたのが、同僚の白石くんだった。
今日の仕事終わり、空いとる?なんて誘ってくれて、ヤケ酒に付き合ってくれてるのだ。
最初は小洒落たバーに誘われたけど、そんなところでうっかり泣いてしまうことを想像したら気がひけて、ちょっとうるさいくらいの居酒屋にしてもらった。
それがよかったのか、今のところ泣くほど悲しいって気分でもない。
白石くんも気を遣って結婚しようなんて冗談を言って励まそうとしてくれてるし、何よりも泣いたところでもうどうにもならない。

「なんや、案外平気そうやなぁ」
「まぁ…ね。これでも現実を受け止められるぐらいには大人なんだよ、私も。」
「せやけどみょうじさん、今日一日、泣きそうな顔してパソコン睨んどったで?」
「……白石くんは私を励ましたいの?それとも泣かせたいの?」
「ふっ、せやな。スマンスマン」

全然すまなそうじゃないけど。
でもきっとこれが白石くんなりの励まし方なんだろうなって思うと、やっぱり有り難い。
あのまま家にまっすぐ帰ってたら、暗い部屋で切なさを売りにした恋愛映画でも観ながら、焼酎をあおりつつ可哀相な女ぶってひとりで泣いてたかもしれない。
こうやって、誰かが隣にいてくれるだけで惨めな気持ちを少しでも感じずにいられるのは、今の私には幸せなことなのだ。

「あ。でも白石くん。冗談でもああいうの言わないほうがいいよ」
「ああいうの?」
「だからさっきの。結婚せぇへん、とか。白石くんかっこいいんだからさ。女の子は真に受けてその気になっちゃうよ?」
「あぁ。あれはみょうじさんをその気にさせよ思て言うたから。誰にでも言うとるわけちゃうよ」

……えっと。
これも冗談か何かだろうか。
どうしよう。早く笑わなきゃいけないのに全然笑えない。
冗談やで。本気にするなんてみょうじさんも結構純情やなあ。
早くそう言って笑ってくれたらいいのに、白石くんは黙って私の言葉を待ってるだけだ。
まっすぐ私を見つめる視線が痛いくらい。

「あ…の……、」
「まぁ、結婚は急ぎすぎやな。せやけど、明日になっても覚えとったら、とりあえずデートくらいはしてくれてもええんちゃう?
……それとも。潰れるまで飲んで既成事実でも作っとく?」
「…既成…事実って、」

だめだ。
これはお酒のせいか、はたまた白石くんのせいなのか。
頭がくらくらして話に追いつけない。
おかしいな。私の先輩に対する想いってそんなに軽いものじゃないって思ってるはずなのに。
いまの私は白石くんに何かを期待してるみたいだ。

「それは気持ちイイコトしたい、って顔やな。ほなこの後はうちで飲み直そか」

そう言いながらグラスを回して中の氷を弄ぶ白石くんに、なんだか早く酔っぱらってしまわないといけないような気がして、私は手の中の甘すぎるカクテルを一気に飲み干した。


title:「告別」さまよりお借りしました
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