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二階、奥から二番目の部屋。何度も訪れたこのアパートは、私の最後の記憶とさして姿を変えずにそこにあった。太陽はすっかり高さを失い、辺り一面をオレンジ色に染めていた。扉の前でしゃがむ私は、沈んでいく太陽を横目で眺めながら家主を待っていた。支部で過ごすことが多い彼がここに帰ってくるのは稀なことだったが、待っていれば大丈夫だと私の根拠のない自信が胸を張ってそう告げるのだ。

何も考えずに警戒区域を歩いていると、本部基地に着いてしまった。トリガーがないから本部に入れず、入り口付近に居座って目の前を通る隊員に声を掛けたりしてみたが、私の声は彼らに届かなかった。知らない隊員だからかもしれない、と微かな疑念を抱いた私は、通り掛かったC級隊員にぴったりくっついて本部に進入した。ラウンジの椅子で横になる太刀川さんを見つけて、声を掛けるが反応はなかった。私を無視しやがって。単位を落としてしまえ。その後も廊下を歩く忍田さんだとか、風間さんだとか、片っ端から知っている顔に声を掛けたが、私の声が聞こえる人は誰一人居なかった。ランク戦しようぜと、しつこく誘ってくる太刀川さんを無視し続けたことを少し反省する。無視されるってこんなに辛いものなのか。

そんなことがあって、悲しくも私の姿や声は誰にも届かなかった。でも一人くらい、私を認識する人間がいてもいいだろう。というか、いてほしい。あわよくば、その人物は彼であってほしい。そんな希望的観測のもと、このアパートまでやってきた。


「…………名前?」


その声に、俯いていた顔を勢いよくあげた。そこには、いつもの青いジャケットを羽織る愛しい彼が、トルコ石のような綺麗な青い目を大きく見開いて私を見ていた。その手には彼の大好きなぼんち揚げの袋があって、懐かしく暖かい気持ちになった。


「悠一」


名前、彼が私を呼びながら強く抱きしめてくる。私の体を離した悠一は、笑いたいのか泣きたいのか、どっちとも取れる複雑な表情をしていた。


「…名前、どうして」
「あー、とりあえず、中入れて」


どうして。その後に続くのは「なんで私がここにいるのか」か「もう私はこの世界にいないはずなのに」なのか分からなかったし、そもそも分かりきっていることを悠一に聞かれるのが怖くて会話を私から切った。どうして、それは私が一番知りたい。悠一は何日ぶりに帰ってきたのか分からない自宅の鍵を開けて、私を中に入れた。見慣れてしまった殺風景な室内は、なにも変わらなくて少し悲しくなった。私の読みかけの推理小説が、変わらずに同じ場所にあることを確認して、彼に今日あったことを話す。


「でね、私に気付いてくれるのが悠一だったらいいなって」


彼の顔を見ることができず、視線はテーブルの上から動かさずに言った。悠一は、さっきの複雑な表情のまま、「ちょっと待ってて」と言って外に出て行ってしまった。それから数分後、戻ってきた悠一は私に手にしていたものを差し出した。


「あ、おしるこ」
「名前、好きだったろ」
「うん、すき!っていうか、いきなり出て行っちゃうからどうしようかと思った」
「ごめんごめん、そんなつもりじゃないよ」
「飲みたいんだけど、今の私って食べたり飲んだりできるのかな」
「うーん」


小ぶりなスチール缶を両手で軽くにぎる。あたたかい。昔から年中好き好んで飲んでいたこれ。体育の後にこれをごくごくと飲み干す私を見て、ゲンナリしていた悠一を思い出す。


「今だに信じられないんだけど」
「なにが?」
「だってこんなに……あ、ほんとだ」
「でしょ」


信じられないと言いながら私の手を握った悠一だったけれど、少し前の私と同じように脈を確認したんだと思う。「しかも、体温も低い」と変に感心するように言うもんだから、文句のひとつも言いたくなる。感心するとこじゃない。


「それ以外は、全く変わらないのにな」
「不思議でしょ」
「で、名前はどういう状況だと思ってるんだ?」
「前に2人で見たじゃない。昔死んだ女の子が現れて、願いを叶えて欲しいって頼むやつ」
「あぁ、名前がぼろぼろ泣いてたやつ」
「そうそれ」
「なにか願いがあんの?」


余計なことまで思い出す悠一の記憶にクレームをつけたくなるのを我慢し、考えを巡らせる。そうだなあ、願い、願いか。


「悠一の側にいること、とか」


彼の目を見て言うと、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして「そんなことなの」と力無く言う。そんなこととはなんだ。


「だから、いつまでか分からないけど、できる限り一緒に居させてくれると嬉しい」
「できる限りってなに」
「だって」
「だめだ、ずっと一緒にいてもらうから」


わがままを言った後の子供のように口を噤んで黙り込む悠一に、私は何も言わずに笑うしかなかった。


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title バニラ


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